3000人の中国体験’84中日青年友好交流参加者からの寄稿
中国の6都市を舞台に、「1984年中日青年友好交流」がくりひろげられたのは昨年の秋のこと。中国の青年たちと、ともに語り、ともに歌い、ともに踊った日本の3000人の若者は、どんな思いを胸に帰国の途についたのだろう。
『人民中国』雑誌社では、記念写真·文『21世紀』編集のために、3000人の参加者から感想の文章を募ったが、200名に近い参加者から心こもる便りが寄せられた。どの文章にも日本の若者の友好の気持ちが満ちあふれていた。
今号には、寄せられた文章の中から楽しいエピソードを綴ったエッセイを9篇掲載して、中日青年友好交流が果たした役割の一側面をうかがってみることにしよう。
①ふたりの青年
俳人協会代表団
黒田杏子
(会社員·四十六歳)
北京空港から西苑ホテルに向かってバスが走り出すと、叢小榕さんの流麗な日本語が流れはじめた。
「私は経済関係の研究所につとめています。そして陳建功さんは非常にすぐれた新進の小説作家です。……」
叢さんは色白でやせ型、陳さんはやや浅黒くどっしりした体格の人だった。このおふたりが北京から西安、上海までずっと行を共にしてくれると聞いて拍手が起こる。この瞬間から私たちは陳さんと叢さんの人柄に特別の親しい感情を抱いた感じがあった。
陳さんは日本語を話されない。会話はすべて叢さんを介して行われる。そのため私たちはおふたりのこころを常に一緒に共有したり体験したり出来たように思うのだった。
北京の劇場で歌舞劇を観た晩、幕間に私はたずねた、作家陳建功の作品のテーマは何なのですかと。陳さんは三つあると言われた。
一、十八歳から十年間坑夫として働いていた炭鉱労働者の世界 二、文革時代の知識人の心の葛藤 三、大学生活。
聞きながら私は自分の愚かさを反省していた。微妙な問題に分かりやすい回答を求めたことを申し訳ないと思った。そして陳建功という作家の深さと広さにも打たれた。
十月一日、国慶節の夜、天安門広場を覆う巨大な花火の下で陳さんと叢さんに守られるようにして私たちの一団はかたまって立っていた。めざとく陳さんを見つけてかけ寄ってきた北京外国語学院の女子学生李珊さんはびっくりする程日本語が上手。陳さんの小説の大ファンという彼女に陳建功の作品の魅力を聞く。「私たち学生の悩み、現代の青年の悩みを表現してくれる。自分たちの気持がそっくり陳建功の作品の中にある」のだという。さらに日本の青年が陳建功をまだ知らないのは大変に残念なことであるとつけ加えた。
詩刊社(詩の雑誌『詩刊』を編集·発行)での文学座談会のとき、代表して私が読みあげた団員の俳句を即興で翻訳するにあたって叢さんは一句ごとにしばし目をつむり、心を集中して作品の内容とリズムを詩的な中国語に置きかえるべく最大の努力を払って下さった。あのときの叢さんの祈るような立姿は私たちの目とこころに焼きついてはなれない。叢さんを助けて作家である陳さんの目がいつも私たち全員の上にあたたかくそそがれていた。
上海最後の晩、訪中団はバスを連ねてあちこちの街を走った。沿道という沿道に上海市民のみなさんが立ちつくし手を振り旗を振り拍手して声をかけて下さった。赤ん坊から杖(つえ)を引いたお年寄まで、寝巻姿の少年もいた。
「よくいらっしゃいました」「こんばんは」「またあすの朝会いましょう」「おやすみなさい」「さようなら」「おやすみください!」
知っている限りの日本語が叫ばれた。人垣と街路樹に灯(とも)した豆電球はどこまで走っても消えることはなかった。私たちも窓から手を振りつづけた。バスが徐行すると手がふれ合って握手してくださる人もいた。私は涙がとまらなかった。陳さんと叢さんの横顔にも涙が光っているように思えた。トランクや託送荷物の点検のために、とりわけ遅くまでおふたりは働いて下さった。
十月七日、最後の日は美しい秋晴れだった。その朝、私達と別れる前に「四季のうた」を歌いますと陳さんが宣言された。文学報社(文芸紙·『文学報』を編集·発行)で杜宣
先生以下の方々と最後の文学交流があり、豫園で昼食をとった。バスはもう上海空港に向かっていた。
陳さんがしずかに語り出した。叢さんが通訳する。
「昨晩の上海市民の熱烈な歓迎は組織されたり動員されて遅くまで沿道を埋めつくしたものではありません。市民ひとりひとりの自発的な友好のこころがあのような熱狂的な人垣になったのだと思います。私はわが民族を誇りにおもいます。そしてみなさんと深い友情に結ばれて過ごした十日間が夢のようです。言葉が通じなくてもこころが通じました。私は真実の友情を感じたときと深い感動を受けたとき以外、歌を歌ったりしないのです。今日はどうしても歌いたいと思います」
〈はーるをあいするひとは……〉
陳さんの日本語がバスの窓をふるわせる。叢さんの端正な横顔が紅潮している。
一九四九年中華人民共和国成立の年に生まれた作家陳建功さん、建国三十五周年おめでとう。そしてまだ三十歳の若い研究者、詩を愛する叢小榕さん、ありがとう。おふたりのすばらしい中国の青年、さようなら。必ずまた会いましょうね。
②一衣帯水 友好隣邦
全国農業青年クラブ連絡協議会代表団
今井基之
(農業·三十一歳)
「一衣帯水、友好隣邦」という言葉の意味をかみしめた日中青年友好交流の十日間でした。我々全国農業青年クラブ連絡協議会代表団と中国青年との交流は、二千年におよぶ日中両国の交流の歴史からすれば星のまたたきにすぎないのかもしれませんが、この十日間をいっそう光輝くものにするよう微力ながら頑張ってきました。
出発に際しては、体制も習慣も違い、ましてや言葉の違う中国青年と話しができるのかと心配が先にたっていました。しかし、中国青年の中には日本語を勉強している人もおり、英語が話せる青年も多くいました。それと両国は漢字を使い漢字には一字一字に意味があることが大きな助けとなり、満足のいく交流ができました。
我々が多少英語が話せても、アメリカ人やイギリス人とはここまで意思の疏通はできなかったと思います。英語の足らない所は漢字の筆談で、漢字がわからなければ、身ぶり、手ぶりでというように、英語と漢字と全身で補いあっての会話。それとお互いに友好を発展させようという熱情と同じ肌の色をしたアジア人同士という心やすさもあったことが見のがせません。「違う、違う」や「わからないかなあー」という日本語が接続詞になり日中英の三カ国語のおかしな会話がすすみました。このように悪戦苦闘している団員の瞳は、日頃の仕事やクラブ活動の時とは一味違った輝きをはなち、日中友好の新しい時代を見つめる瞳にふさわしいものでした。
「チョングオ、ワンスイ(中国、万歳)ワンスイ、ワンスイ……!」と慣れない覚えたての中国語で、車窓から連呼、ある時は交流会場で連呼、団員の中には声をからして喉をいためる者も出たほどです。
上海では通訳につかれた章氏、王氏から儂好(ノンホオ)(こんにちは)、ヅァンヘホオ(上海はすばらしいの意)、ゼエウェイ(さよなら)の三語を教わり、覚えたての上海弁?を連呼して上海っ子からさかんな拍手をあびました。ノンホオとゼエウェイを同時に使い通訳さんから笑われるといった失敗もありましたが……。
あっという間に十日間が過ぎ、上海空港では、感激に声がつまり、泣きながら別れを惜しんだ、あの時の中国の皆さんの涙と団員の涙は、この日中青年友好交流が大成功に終わったことの証しだと思います。後日、北京放送の「想い出のアルバム」を聞いた時、通訳の劉氏が涙ながらに「いまも四十四団(我々の団は武漢コース四十四団でした)のみなさんといるようで……」と、後は声にならず何を言っていたか聞きとれませんでしたが、我々には彼の気持ちは十分すぎるほどわかります。上海空港で流したお互いの涙は、「一衣帯水、友好隣邦」の意味するところを明らかにしたのです。
今年は中国建国三十五周年にあたりましたが、我々協議会も結成三十周年を迎えたこの記念すべき年に、武漢市の華中農学院を訪問して、団員と農学院生の手でミカンの苗木を植樹し、日中友好果樹園を造ったことはクラブにとって、二重の喜びでした。ミカンは古く中国より渡来し、今では日本のほうが品種改良がすすみ中国が逆輸入して移植につとめています。まさにミカンの木は日中農民の友好のシンボルということで選ばれたのでした。この日中友好果樹園のミカンの苗木がすくすく育つように、日中両国民は両国の友好をミカンの木に負けないように育てていかなければなりません。ほんとうに有意義な楽しい日中青年友好交流の十日間でした。いずれ華中農学院にある日中友好果樹園の草とりにでも行って友好をあたためられるよう、仕事にクラブ活動に一生懸命がんばりたいと思っています。謝謝(シエシエ)。
③忘れられない熱いお茶の味
ハーモニィセンター代表団
岡田守史
(大学生·二十歳)
十月四日午後、十日間のうちあまりない自由時間を使って我々四人は西安の街を散策することにした。二十分位歩くと繁華街へ出た。信号が青で通りを渡ろうとすると自転車がスピードを出して目の前を通り過ぎていく。そんな自転車を身をひるがえしながらやっと渡りきった。繁華街を通り過ぎるとひと味ちがった雰囲気の静かな通りに出た。
「趣きがあっていいね」と語りながら落ちつきのあるほのぼのとした街を歩いた。時計を見ると集合時間まであと四十分。そろそろもどろうということになった。じゃ、この一角をひとまわりして帰ろうと、車一台が通れるぐらいの路地を曲がった。ところが出たいと思っていた道に出ない。不安になりながら道を進んだ。
そのうちトイレに行きたくなり、道端でボール遊びをしていた子供達にトイレのあるところをきいた。「ツーソー、ツーソー(廁所)」と語りかけても恥ずかしいのだろうか、見も知らぬ我々四人にどぎまぎして答えてはくれなかった。するとお母さんが出て来て親切に教えてくれ、子供達に案内をさせた。今来た道を少しもどったところに門があってその中にあるということだった。みんなで「你好(ニイハオ)」とあいさつをして笑顔で入って行った。「廁所」は壁と壁の間の狭い通路を十メートル位進んだところにあった。
すっきりして出てくると家々の人が集まっている。記念に家の中が見たいということを伝えると、「いいとも」といった感じで、こころよく中へ案内してくれた。
中には奥さんとおじいさん、おばあさんがいてわれわれが入ると笑顔で迎えてくれ、わざわざ湯を沸かして、お茶をご馳走して下さった。主人が奥で何かごそごそやっているのが聞こえた。新しいたばことお茶を持って来てくれ、一人一人にたばこを喫えとライターをもってまわってくれた。あまりの歓迎に何も言えず笑顔で答えるしかなかった。
一段落すると隣りの御主人が我家へもどうぞと招待してくれ、隣りの家へ。時間を気にしながらお茶とお菓子をごちそうになった。
集合時間まで二十分となり、そのことを伝えて記念撮影。出るのが惜しかったけれど、別れを告げてホテルへ向かった。帰り道はさめやらぬ興奮を語り合いながら静かな街を歩いた。
十分も歩くと後から声を掛けてくる若者がいる。誰かなと思ったらさきほどおじゃました家の人だった。ウインドブレーカーを忘れてしまったのだ。必死になって後をおいかけてきてくれた、その親切さに感激してしまった。
突然の訪問を笑顔で受け入れてくれたご一家のみなさん、どうもありがとうございました。あの熱いお茶の味が、いまも忘れられません。
④南京の夜の一時間
日本青年の船の会代表団
福井秀行
(会社員·二十七歳)
南京の夜の街を歩こうと思って、ホテルの外に出ると、そこは中国の人々でいっぱいだった。彼らの視線は、我々の行動に注がれている。注目される喜びとはこのこと、わたしはスターになったような気分で、人人の中を通り抜けたのを覚えている。
時刻は午後十時。人出は東京と大差ないが、夜のネオンは比較にならないほど少ない。日本の若者のようなカラフルな服装も見られない。
夜、街に出て何をしているのかな?目についた店に入ってみることにした。
小さなお菓子屋さんに寄ってみる。子供にお菓子をねだられている父親の姿、どれにしようか親子で選んでいる姿、……こういった光景は、形は異なれど、日本と同じだ。意味もなく、なんとなくうれしくなってきて、中国に来ているのを一瞬忘れてしまった。
今度は大衆食堂に入ってみた。入った途端、我々に視線が集まる。ビーチュー(啤酒、ビール)を二杯頼んだ。もうひとりの団員と私で、そばにいた中国青年と話し始めたのだが、言葉があまり通じない。しばらくして、日本語を話す中国青年が来て、通訳をしてくれた。気がつくと、回りには何十人という見物客。店の中は、注文なしの客で満員になってしまった。うたを歌うことになって、日本側(つまり我々)は民謡、中国側は「北国の春」を歌った。
店は閉店の時間を過ぎているのに、注文しなかったはずの食べ物が出てくる。店の方でサービスで出してくれたらしい。我々は、ビーチューを飲み終えないまま席を立った。このままでは営業妨害ならぬ閉店妨害になってしまいそうだったからだ。
大衆食堂のご主人におわびを言って出てから、またしばらく歩いてみた。
民家の前までくると、ランニングシャツ一枚の中国青年が、我々に笑顔を向けてくれた。
「ワンシャンハオ(こんばんは)、ちょっといいですか」
家の中をちょっと見せて欲しく思ってお願いしたのだが、もちろん通じない。身振り手振りでやってみる。指さして方向を示し、頭を下げてみた。
数秒間の沈黙。彼が、何か家のなかに向かって叫んだ。そして、こちらを向いてうなずいたのである。彼の後について家の中へ入っていった。
彼の家は三部屋と台所。家族は五人。
二年前に恋愛結婚した奥さんと一歳になる子供がひとり、彼の父親と母親で暮らしていた。突然の訪問客に、彼らは驚いたと思うが、お茶とお菓子で歓迎してくれ、言葉が通じなくても、筆談で話せたのでほっとした。
もう十一時に近い。我々がお礼を言って帰り道を急ごうとすると、表通りまで見送りに出てくれた。
まったくの他人、しかも異国人に対して、こんなにも心を開いてくれる中国の人々。わたしは、日本人ならここまでできるかな? と思いながら、彼らに手を振って別れたのである。
南京といえば、われわれ日本人は、けっして忘れてならないところだ。過去の歴史は過去のもの、みなさんに罪はありません、と南京の人人は、くりかえしくりかえし言って下さったけれど、今日の日中友好にしても、けっして過去ときりはなして考えることはできない、とわたしは思う。
たった一時間ほどの、公的スケジュールになかった夜の南京。ほんの少しの出会いと、ほんの少しの交流だったが、今回の三千人の一人としてのわたしの自覚を高めてくれた。そして、中国の素顔にも接することができたのだ。
けっして裕福ではないものの、助け合い、心を大きく開き、しっかりとした考えを持ち、夢を抱いて希望に満ちた生き方。そのためだろう、中国の青年は、日本青年よりも行動的で、しかも積極的だった。
純粋、純情といった言葉がぴったりの国であり、青年たちだった。ほんとうに、ありがとう。
⑤王さんとの出会い
日中友好協会全国婦人委員会代表団
水品紫乃
(長野市立博物館学芸員·二十九歳)
私にとって今回の日中青年友好交流は大変素晴らしいものでした。初めての中国旅行でしたが、景色で印象に残っているのは、どの都市も街路樹が美しかったこと、長城の紅葉がとりわけきれいだったこと……。もちろん国慶節のパレードも忘れられません。数々の楽しい思い出がよみがえってきますが、ひとつだけ、北京でお会いした新しい友人のことを書いてみましょう。
十月三日のことでした。私は正午にホテルで王さんと会う約束をしていました。彼女は日本での私の中国語の先生のお姉さんで北京に住んでいます。私は以前に彼女が私たちの中国語学習班の班長さん宛に書かれた手紙を読ませていただいたことがありました。とても楽しくて、また良い人柄が察せられる手紙でした。私はどんな方か会いたいと思い、北京へ行きますので是非お目にかかりたい、という手紙を出しておいたのです。
ホテルの服務台(フロント)に王さんが来たら連絡をくれるよう頼み、どきどきしながら待ちました。リリン!電話のベルが鳴りました。どきっとして受話器を取り上げると「なんとかかんとか王なんとか」と電話の向こうで言いました。よく分からないけれど王さんが来たと思い、エレベーターの速度ももどかしく感じながらロビーへ降りて行きました。それらしい人はいません。門の所かしらと門に走って行くと門番のおばさんが玄関の方を指さしました。そちらへ向かって走りながら行き違いで分からなかったらどうしよう、と少し不安になりました。
私は弟さんの王先生の所で一回写真を拝見しただけで記憶力に自信はありません。ロビーを眺めてもまだそれらしい人はみつかりません。ふと振り返り、ドアを開けると庭の方から母娘連れがこちらへ歩いて来ます。あっ、王さん! 思わず日本語で叫んでしまいました。写真で拝見した笑顔です。お母さんもご一緒でした。良かった!
お目にかかれてうれしいです!そして自己紹介。そこまではなんとかノートに書いていった通りに中国語で言えました。その後はもう四苦八苦、汗をかきながら筆談です。
「弟は元気ですか?」「ええ、そしてとても一生懸命私たちに中国語を教えてくれます」
そのうちに「あなたは付き合っている男性がいますか?」なんて質問を受けたりして思わず笑い合ってしまいました。
それから三人で、あの二台繫(つな)がったバスに乗り故宮を見物に行きました。私の家族のことを話したり、山口百恵のことを話したり、でも私がうまく聞きとれず、揺れるバスの中でも筆談です。バスを降りると故宮の入口近くの屋台でお母さんが糖葫蘆(タンフウルウ)を買ってくださいました。口に入れると飴のようです。小さなリンゴのような実に飴がかかっています。私も二人のように思いきってかじると甘ずっぱくて美味(おい)しい味が口に広がりました。それを食べながら故宮の中を歩きました。
王さんとお母さんは私を真中にして、腕を組んで歩いてくれました。こうすると、ずっと前からの親友のような気がします。珍宝館を見学しました。王さんとお母さんが代わる代わる説明してくれました。せっかくの説明を私は分かったり、分からなかったりでしたが、充分に見学しました。目を見はるような宝物が沢山あり、中国王朝の豪華さを垣間見た気がしました。
さて、そろそろホテルへ戻らなければという時です。私は「中国語をもっと確(しつか)り勉強します。もっとよく中国語が話せたら、もっと多くの事を話せたのに残念です」と書きました。
王さんは、「私は中学校の国語の教師です。私が教えてあげますから日本へ帰らず私の家へ来てください」と書いてくれました。うれしくて、つい、「はい」と言ってしまいそうでしたが、やっと堪(こら)えて「ありがとう」と答えるのが精一杯でした。さらに王さんは「私はあなたが好きです。日本へ帰ったら手紙をください」と書いてくれました。
「もちろんです。ありがとう」
でもこの感激をうまく彼女らに伝えられません。中国語が話せないことをこの時ほど腹立たしく感じたことはありません。大変心苦しく、残念でたまりませんでした。
帰国して、すぐに礼状を出しました。彼女から返事が来て、「今度は私の家に来てください。私があなたに中国語を教えて、あなたは私に日本語を教えてください。姉妹のように生活しましょう」と書いてありました。私はこの友情を大切にします。中国語の学習も一生懸命やり、なんとか頑張って旅費をためて、いつか必ず彼女に中国語を教えてもらうために彼女の家を訪ねてみたいと思います。このように素晴らしい体験ができたことも、今回の交流の大きな成果だったと、改めて楽しかった十日間を思いかえしています。
⑥上海の素顔に触れて
愛媛県代表団
金尾聡志
(地方公務員·二十七歳)
中国に着いたその日、空港からホテルに向かう途中、上海の“銀座”·南京路を通った時に、正直言って、私はショックを受けた。
かつて、「魔都」「不夜城」などと数々の代名詞で呼ばれ、現在、一二〇〇万の人口を擁する上海。そのメーン·ストリートである南京路は、“銀座”とまではいかないにせよ、中国一の大繁華街であり、当然それにふさわしく近代建築にショーウインドー、明るく清潔な街並というイメージがあった。しかし我々を乗せたバスが走っているこの南京路は、建物も街路樹も道路も、まるで全体が土ぼこりをかぶったような妙にくすんだ色。言わば、五、六十年前の世界に、ポンと放り出されたような、そんな古臭いうす汚れた街という印象だった。
中国は、どこもこんな感じなのだろうか? こんな所に十日間もいなければならないのかと、正直その時は思ったものである。
次に驚いたのが、その人の数。通りという通りが人で埋まっている。よくもまあ、これだけの人がいるもんだと思うくらいの人である。夜になったら、これだけの人間が一体どこに寝るんだろう。夜は地下に潜っていて、朝になると湧いてくるんではないか、と思うほど、とにかく人が多いのには驚かされた。
ホテルの近くの外灘(ワイタン)へ太極拳を見に行こうと、日本を出る前から計画していたので、翌朝はその緊張のためか、五時過ぎには目が覚めてしまった。窓の外は真っ暗。まだ少し早いかなと思い、ホテルの部屋の窓から何気なく眼下を見下ろしてびっくりした。暗闇の中を、人の群れが動いているのである。
上海の朝は早い。急いで仕度をしてホテルを出てみた。いるわいるわ、朝五時過ぎといえども、もうどこから湧いてきたのか上海人の群れ。その群れに混じって外灘まで歩いていった。
太極拳は日本のラジオ体操に似ている。ほとんどが老人で、音楽をかけそれに合わせてゆっくりと舞っている。中には剣舞の練習をしている若い連中もいる。カメラを向けると、いろいろポーズをとってくれた。
この外灘は、上海市民の憩いの場であり、朝早くから春巻(チユンジユアル)(はるまき)を売るおじさん、煙草をくわえて公共廁所(公衆便所)の前に坐りこむちり紙売りのおばさんなど、さまざまな人間がいる。
最初は人の多さに圧倒されていたのだけれども、自分の足でその中に入っていくと、意外とその人間臭さに異和感はなく、妙に懐かしささえ感じられるから不思議である。
もう一つ、忘れられないのは上海最後の夜だった。中国に着いて三日目の夜、上海体育館に二万人の大観衆が集まり、我々のために歓迎会を開いてくれた。
体育館に着くなり歓迎の嵐。入場口に至る階段では、中国の青年一人一人から握手を求められた。こちらも、「晩上好(ワンシヤンハオ)!」(こんばんは)と言って思いっきり手を握り返して一歩一歩階段を上っていくと、青年たちの人垣の後ろから、前に出てこれない青年たちが、我も我もと握手を求めて、いくつもいくつも手が出される。その手を一つ一つ握り返していくうちに、こんな見も知らずのなんでもない日本の平凡な青年に、なぜこんなにも握手を求めてきてくれるのかと思って、たまらなく嬉しくなった。それまでこらえていた熱い気持ちが、この時、一挙に堰を切ってあふれ出てしまった。
そばにいた中国の青年とお互い感激して肩を抱き合った。あのヒゲの痛さを、私はおそらく一生忘れないだろう。そして、ホテルまで帰る道道、上海市をあげての素晴らしい演出を見せてくれた。裸電球だけのイルミネーションではあるが、ビルというビルは夜空にみごとなシルエットを浮かび上がらせ、道の上にはいくつもの電飾アーチがかけられ、我我のバスは光のトンネルの中を進んでいく。
道の両側では、ものすごい数の上海人が我々を見送ってくれ、「ゼエウェイ!」(さよなら)の大合唱がこだまする。こんな素晴らしい感動的な光景を目の当たりにして、いつしか私の心の中から、最初上海に対して抱いたイメージがすっかりかき消え、上海の持つ独特な魅力にすっかりとりつかれてしまった。そして、人びとの持つバイタリティー、人間臭さ、やさしさと熱い心、こんなものが入り混じった上海の街が、最高に素晴らしいものに思えてきたのである。
⑦殻ごと食べた西瓜のタネ
日本郵便友の会協会代表団
渡辺久美子
(大学生·二十歳)
「うわあ、大きいなあ」
そう思ったのは中国という国土だけではありませんでした。私が出会った中国の人達、私達と交流しあった中国の青年の人達一人一人から、スケールの大きさを感じとることができました。
日本に帰ってきてから時々、楽しかった中国の事が夢の中にでてきます。私が「你好(ニイハオ)!」というと、その何十倍もの「ni好!」という言葉が返ってきます。言葉がわからないで戸惑っていると、日本語のわかる人もわからない人もどんどんやってきて、一生懸命、お話ししてくれます。そしてすぐ仲良くなってしまうのです。こんなことが夢にでてきて、まだまだ中国で受けた感動は私の中に強く強く残っています。
さて、私が最初に着いた所は、上海でした。二日目に虹口公園に行った時の事ですが、そこで、私達と中国の青年の人と、二人一組になって、みんなで丸くなって坐り、お菓子やアイスを食べながら、お話ししていました。
そのとき、食べ物に何か黒くて、大きい種のような物がありました。
これはこの後、中国では、毎日のようにおつまみとしてでてきた西瓜の種だったのですが、私はまだわからなくて、ぼりぼりと殻ごと食べていました。ちょっと口の中に堅い物は残りますが味は付いているし、こんなもんかな、と思っていたら、私といっしょの沈さんが私をみるとあわてて、「違う、違う」と手を振り、「すぐに出しなさい」という動作をしてくれました。
私は、まちがった食べ方をしていたことに気付きました。そのあとは大笑いです。そして食べ方を教えてもらったのですが、何かこういうちょっとのことでも、とても楽しく、嬉しくなってしまいました。私は、それ以来、西瓜の種が好きになり、食べ方も得意になってしまいました。
ところで、私は今、大学で薬学を学んでいます。今回は、その分野を見る事はできませんでしたが、私と同じ年代の大学生に会う事が出来ました。どんな事を学んでいるのだろう、どんな人がいるのだろうと、楽しみでした。私が訪れたのは、北京郵電学院です。実験室を一つ一つ案内してくれました。応用物理の知識は、私にはあまりなく、よくわからなかったのですが、一つとても楽しい所がありました。それは、スタジオで、テレビカメラとかマイクとかがあり、操作などもさせてもらいました。その時、つい調子に乗って、テレビカメラの前で、私は、歌手「渡辺久美子」になって「幸せなら手をたたこう」を歌ってしまいました。みんなニコニコと陽気にきいてくれて、私はちょっと、てれてしまいました。
一通り、見終り戻ってくると、もう帰らなければならない時間でした。別れの時、出口の所で別れを惜しんでいると、
「渡辺さん、何か歌って」と、学院の人が言いました。え! 渡辺さん!? 私の名前を覚えていてくれて、本当に親しげに呼んでくれたのです。自分の名前を、それも今日初めて知り合った中国の人が……。こんな嬉しい事はありません。みんなで歌える「若者達」を歌いました。嬉しくて、嬉しくて、途中から、涙がでてきて、のどがつまって歌えなくなってしまいました。そして今度は、もっともっといろんな話がしたい、まだまだ別れたくない、という思いで、また涙がでてきて、感動やら別れのつらさやらで、胸が一杯になって顔をくしゃくしゃにしてしまいました。
私が、出会った人達は、みんな積極的で、どんどん話しかけてきてくれました。普通、言葉がわからなかったりすると、ひっこみじあんになるのに、まるで逆で、その熱心さにはおどろきました。大学で遊んでいる学生が比較的多い日本の青年に比べ、目の輝きが違ってみえました。意欲に満ちた、人間の力強さというものが伝わってきました。
私は、そのような姿を見て、今のままの私ではだめだ、もっと真摯に、もっと前向きの姿勢で、より良いものを目指して、がんばらなければと思いました。私の心をこうも動かしてくれたのは、中国の青年の人達です。本当にすばらしいです。
中国にいる間中、どこに行っても感動の連続で、どこでも誰にでも素直にとけこめて、その度に心が温まり、心が広く深くなっていくような気がしました。
ダンスをすれば、必ず手をつなぎます。そして、その人の手のぬくもりが伝わってきます。歌を歌えば、多くの人が一つになり、そして、その中に私がいて、中国の多くの人々がいて、なんとも信じられないような、すばらしい、夢のような十日間でした。
私は、この喜びが、この感動が、そして中国の青年の人達の事が、ずっとずっと、私の中で生き続けるであろう事を信じています。そして、私の回りの人達にも、私が親になったら子供達にも、そして孫達にも、伝えていきたいと思っています。
いつか機会があったら、再び中国の地を、中国の人達を訪れてみたいと思っています。
私は、中国が大好きです。
⑧ウェートレスさんとの交流
日本郵便友の会協会代表団
山口寿一
(大学生·十九歳)
「八四年日中青年友好交流」に参加した十日間は、感激づくめの十日間でした。また、交流を通して数多くの人と知り合うことができました。
その中で、とても愉快な形の交流もありました。それは北京、大都飯店のウエートレスの阮さんと范さんとの交流です。交流の時間は、五日間の私達が食事をとる時でした。
食堂に入った時の「你好(ニイハオ)」、食事を運んできてくれた時の「謝謝(シエシエ)」、「不客気(ブウコオチ)」、そして食堂を出る時の「再見(ツアイジエン)」等のあいさつに始まりました。愛想がよく、細かな点まで気を配ってくれて、とても印象的でした。次の食事の時は、なにげなく別のテーブルに坐ったのです。すると、別の人が配膳してくれました。前回、私達に配膳してくれた人はどこかなと思い、見まわすと、前回私達の坐っていたテーブルの配膳をしています。そこで初めて、テーブルごとの担当が決まっていることに気付きました。阮さんは、なぜそっちのテーブルに坐ってしまったの?
と言いたそうな顔をしているように見えました。もちろん、次の食事からは、阮さん、范さん担当のテーブルに坐ったことは言うまでもありません。
それからは食事の時間になると、いち早く行くようにもしました。阮さんが、窓から早く早くと手を振ってくれることもありました。また、私達はよくおかわりをしました。もちろん中国語は話せないのですが、阮さんや范さんに身ぶり手ぶりと片言の言葉で伝えようとしました。それを一生懸命、見取って理解し、食事を持ってきてくれたのです。そのような時は、とても嬉しかったです。そのうちには、なぜか私達の好きそうな食事を二さらずつ持ってきてくれたこともありました。その気持ちを受ける意味もあり、残さず食べる私達でした。
確かに、ゆっくり話す時間も、歌をうたったり、踊ったりする時間もありませんでした。しかし、そのちょっとした時の身ぶり手ぶりでの話やあいさつ、そして他のテーブルへ配膳に行くため私達の横を通る時に、お互いに微笑むなど、わずかな意思表示をすることによって交流がおこなわれたのです。
さすがに、帰国前、最後の食事の時は、二人とも忙しいなか、時間を割いて一緒に写真を撮ったり、アドレスの交換をしたり、少しばかり筆談もしました。文通をすることにもなり、すでに文通をおこなっています。
私たちは、行く先々で熱烈な歓迎を受け、それぞれに想い出深いものがあり、忘れることはできませんが、こんな身近な交流までもできたことを、わけても嬉しく思います。
私はこの機会を大切にし、日中友好を願いながら文通を続け、ゆくゆくは再び中国を訪れてみたいと思っています。
⑨友好の後継ぎとして
日中世代友好青年代表団第一分団
河原崎栄子
(女優·三十八歳)
北京の写真館に入った時のことです。暗室から出て来た写真館の主人の上着の下の丸首のシャツがもう何十年も着ていたと思われるほどボロボロで、しかも良く洗たくしてあって、私はそのみごとな美しさに、思わず目がくぎづけになってしまいました。
一生懸命に働いている人が、ボロボロになるまで洗われた衣服を身につけている姿は、こんなにも美しい!
私は、あの北京の写真館のご主人の清潔な美しさを、一生忘れません。
今、まさに発展途上の国の中国の方に対して、これは失礼な言い方かもしれません。決して中国の人々も、ボロボロの衣服を望んではいないでしょう。そういった意味でなく、物を大切にする姿の美しさに感じたのです。
もちろん、中国の人々の生活も、ずい分と変わってきています。男性の背広姿は、もうあまり珍しくなくなりつつありますし、女性の服装も大分カラフルになってきました。子供たち、特に女の子にいたっては、日本とあまり変わりません。でも、私が感動するのは、やはり質素な美しさです。
かりに、日本中が、徹底して節約を行ったら、どうなるでしょうか。企業はたちまちつぶれてしまって、
日本じゅうの歯車が回転しなくなってしまうでしょう。大規模な消費をくりかえすことによって動いている日本の経済、資本主義社会での仕方のない矛盾した現象だと思います。
中国が、国も発展し、しかも国民が物を大切にするなら、こんなに素晴らしいことはありません。
北京の夜の空を彩った花火。むずかしいフォークダンスのステップに足をもつれさせながら、中国の人たちと踊り、語り合い、腹の底から笑いあった国慶節の夜に、私は、中国の青年たちの巨大なエネルギーを感じました。
今、社会主義の中国は、世界で初めて、資本主義というものを、自分の歯でかみ、その胃で本気になって消化しようとしだしたのではないかと確かに予感したのです。そして、この美しい国慶節のお祭りは、中国が大きな何かを決意した時なのだ、と思われてなりませんでした。
私は、そのお祭りの渦中にいられる事の幸せを感じました。私はこの国慶節の夜を生涯忘れることはないでしょう。
私の大好きな中国、そして私の生まれ育った祖国日本、この二つの国が、体制は違っても、いつまでもいつまでも仲良くして欲しいと思います。現在、両国の関係は、史上もっとも良好な状態にあるといわれますが、これは、私たちの先輩たちの努力の賜(なまもの)にほかなりません。苦しい時代、両国の先輩たちは時には生命の危険まで冒して“日中友好の井戸”を掘り続けました。今、私たちはこの“井戸”から湧き出る美味(おい)しい水を飲んでいますが、中国の故周総理が言われたように、「井戸の水を飲む時は井戸を掘った人のことを忘れてはならない」と思います。
今回私の参加した団は世代友好青年代表団でした。この団は、苦しい時代に“友好の井戸”を掘った人たちの二代目、三代目で構成された団でした。
私はこの団に参加できたことを大変光栄に思っています。親しく接見して下さった鄧穎超先生の励ましのお言葉を思いだすたびに、責任の重さを感じます。
私は両親や多くの先輩たちが残した日中友好の偉業を受け継いで、ますます中国の青年たちと友好を深めなければならないと思います。
そして日中友好はアジアと世界の平和に必ず大きく寄与できるのです。この決意をいっそう固くすることができた、これが私の今回の最大の収穫でした。