中国青年がみた日本と日本人
昨年の秋、中国の若者五百人を乗せた「中国青年友好の船」が日本を訪れた。五百人の“青年使節”は、日本で何を見、日本の若者と何を語り合ったのだろう。
ホンネを明かしてこそ、互いに心がかよいあうというもの。男女八名の団員が語った日本と日本人から、現代中国青年が日本に寄せる想い、また中日関係の新しいあり方への考えをうかがい知ることができる。
出発前の緊張と不安
編集部 きょうはみなさんお集まり下さいまして有難うございます。ほとんどの方が初めての訪日だそうで、新鮮な印象を沢山お持ちのことでしょう。この夏には、世界の反ファシスト戦争と中国の抗日戦争の、勝利四十周年を迎え、みなそれぞれに当時を回顧したわけですが、みなさんが出発される直前にも、中日関係に疑問を持った北京大学の学生の街頭デモがあったりしましたね。こんどの友好の船はあまり波穏やかでない中を出航したともいえるわけで、きょうはいわゆる友好美談だけではなくて、その都度感じられたナマの声をお聞かせ願えればと思います。
傅強年 その学生のデモで思い出しましたよ、出発前の心境を。日本に行ってみたいというのはずっと前からの念願でした。すぐ近くの隣の国なのにまだ行ったことがないので。ところが訪日団の組織ができあがったとたんにあのデモでしょう、どうか取り止めになりませんように!って、ひそかに祈りましたよ。(笑)
繆力 心配でしたわね。北大生の出した問題についてどの家でも議論があったと思いますが、わたしの家もいろいろ意見がありました。
母は七十近いんですが、母の父が昔、中国を侵略した日本軍に刺されて死にそうになったり、母の弟が抗日戦勝利の直前に日本軍に捕まって、労働力として日本に連れて行かれたきり帰ってこなかったりしてますからね。長崎の原爆で死んだらしいんですが。日本に行ったら弟の骨をさがしてこいと言うんですよ。このことになると母は日本に対していい気持がしないのです。わたしはね、日本はたしかに中国に対して悪いことをした、こんど日本で接した大勢の日本の人もみなそう言っていますが、でもね、それは少数の軍国主義者の罪であって、一般の日本人はわたしたちと同じようにやっぱり被害者なんだと思っています。だって、唯一の原爆被害国じゃありませんか、日本は。国民どうしは仲よくして行かなくちゃ。
孫堯東 ちょっと甘すぎるんじゃないかな。じつはね、うちの年寄りも繆さんのお母さんと同じ考えなんだ。私は東北の遼寧省の出身なんです。もちろん亡国の民の悲哀を自分で経験したわけじゃないけれど、年輩の人からずいぶん沢山の話を聞いています。あの当時、私の郷里では無傷の家庭なんかほとんどなかった
そうですよ。一九三一年の九月のことですが、中国伝統の一家だんらんのお月見の晩に、日本侵略軍の皆殺しに遭って、三千人の村民が一人のこらず殺された村もあるんです。あとで遺骨が発掘されたとき、若い者は年寄りをかばい、母親は赤ん坊を抱いたままだったそうです。こういう人たちの親戚や知人が、国際法廷で裁かれた戦犯を日本では靖国神社にまつっているなんて聞いて、納得しますか。日本の人たちでも納得できないでしょう。
蔡暁虹 それはわかります。でも、中日経済関係についての学生の観点は少し片寄っていると思うんです。たとえば、いま日本はまた別の侵略―経済侵略を進めて、中国に余剰商品を押しつけているとか。そういうことが全然ないとはいえないかも知れませんし、また貿易や経済の面ですべての人が友好的に中国の現代化を支持しているとはいえないかも知れませんが、いまはもう四十年前のような植民地主義は存在しないし、今日の中国と経済の発達した日本とは、平和友好、平等互恵、相互信頼、長期安定の原則を貫いていると、これははっきりいえます。昔のことで、経済協力にひびくようなことは、起きないでしょう。
汪婉 蔡さんの意見に賛成ですね。実際にそんなことがあったとしても、それは日本のあるメーカーの、ある製品の品質の問題でしょう。すべてのメーカーの友好と善意を疑うべきではないわ。日本の発達した経済と進歩した技術は学ぶべきです、少しも悪いことではありません。日本人のすぐれた点のひとつは、学習熱心でほかの大の長所を吸収することです。それにいまの日本には誠心誠意、日中の友好につくしている人が多いのですもの。
傅強年 たしかに貿易上、問題はあります、貿易赤字の増大とかね。だがこれは決して経済侵略などと結論づけるべきではないと思います。
呉泉民 学生の国を思う気持ちと現代化への関心は、よく分かります。ただ中日関係の全体に対する理解が足りないようですね。真の子々孫々の友好のためには、まだまだ長い努力が要りますね。
陶煒 私が接触した大勢の青年や一般の人たちは、「文革」の動乱が過ぎたあと、とりわけだれもが安定を目指して努力しているのですし、中日関係の現在のような発展も、やすやすともたらされたのではないことを、だれもが知っています。長期の友好ということを軽視したり低く評価したりするのは、視野がせまいですね。
明慧 みなさん、社会の先輩で、わたしだけが学生です。きょうは勉強させて頂こうと思って参りました。でもね、わたし思うんです、わたしが北京大学にいたら、デモに参加してたかも知れないなって。日本については、こんど行くまでは白紙のわたしでしたから。それは映画やテレビで、栗原小巻とか中野良子とか山口百恵とか……富士山とか桜とか、知っています。みんなとてもすばらしいんですね、そこへ急にテレビなどで日本軍国主義の暴行の場面を見たりするとちょっと混乱します。
編集部 こういったことについては、私たちのような仕事をしている者にも責任がありますね。友好の歴史とか、友好の事実は割合多く報道していますが、中日友好関係の重要性とか、長期的に考えての説明とかが不足です。歴史も現状も国によってちがいますから、問題が起きると、難しいことになりがちです。風波はおさまりましたが、これからは、大局を見て、慎重に、双方が理解し合って、相手の国民感情を傷つけることのないようにしなければなりませんね。
話題がそれてしまいました。百聞は一見にしかずといいます、どうぞ日本でのご感想をお話しください。
感動また感動
傅強年 ほんとに百聞は一見にしかずでした。日本にもあまり友好的でない人や、中日の友好に反対の人がいるとは聞いていましたが、博多に入港したとたんにそういうのに出くわしたんです。何か叫びながら小さい船が二、三隻走りまわって、赤い旗のようなものを焼いているのを見ました。それが何だったのか、暗くてはっきりしませんでしたが。上陸してからも、二台の車がイヤガラセをしたとか聞いて、ちょっとイヤな気分でした。でも……
蔡暁虹 わたしは何とも思わなかったわ、こういう人って、いるものですよ、べつにどうってことも。
傅強年 蔡さんは何度も行ってるもの。私ははじめてだから。でも、日本の人たちとの接触が始まったとたん、不愉快なことはみな吹っ飛んでしまいました。ああいうのはほんの何人かで、日本の人たちはほんとうに両国の長期の友好を望んでいるんだなあって分かりました。
明慧 こんど行って、わたしうんと視野がひろくなりました! 外国へ行くのもはじめてだし、家を離れて遠くへ行くのもこれがはじめて(笑声)。やはりはじめは緊張して、エチケットやなにか心配でした。でもむこうへ着いたとたん、友好の渦というのかしら、巻きこまれてしまって。顔も同じ、漢字もいっぱい、食事もおはし。感情の表現までおんなじ。「アレ、うちにいるのと同じだ!」リラックスしちゃいました。
陶煒 ほんとほんと。ぼくもはじめてなんですが、そんな気がしました。皮膚の色も同じだし、鼻もあんまり高くないし!(笑声)これまでいろんな国の人と接触したけれど、東洋人の中でも日本人はなんだか親近感があるんです。小さいときから、両国二千年の文化交流とか、徐福が不老不死の薬をさがしに行った話とか、李白と阿倍仲麻呂の友情とか知っているし、そのせいかも知れませんが。
明慧 わたしたちはまず福岡へ行きましたが、そこで年輩の四人の方にお世話になりました。「どうしてオジサマばっかりなんだろ、わたしたちみな若いのに」って一瞬がっかりしたの。でもそれは一瞬よ。自分の子供のようによくして下さって。あのね、わたし保定なんだけど、北京の人から見るとまるで田舎で距離があるでしょ。それに、国と国との間でこんなに親近感がもてるなんて、はじめて知りました。大牟田の山本勇太郎さんという市会議員の方は「皆さんがこんなに若くて日中友好の列に加わっておられるのを知って、私たち年輩者としてたいへんうれしい」とおっしゃいました。それからわたしたちが「カメラおじさん」と呼んでいた井元良重さんは、ポラロイドカメラを持って毎日つきっきりで。
蔡暁虹 わたしは「カメラ青年」の話をしましょう。岡部誠さんといって、名前のとおり誠実そのものの、二十四、五の方で、横浜の電話局にお勤めでしたが、横浜から東京の日程を、ずっと自費でヵメラマンを引き受けて、五十人もいるわたしたちみんなを撮って下さったんです。フィルム代だけでもかなりの出費でしょうと誰かが言ったら、岡部さんは「友情は金銭でははかれないものです」って。一九八四年の九月に遼寧のほうへ行かれたんですね。善良で友情に厚い中国の人のこととても印象的だったんですって。岡部さんはそんなに収入が多いとは思えないのに。それに睡眠不足だったのでしょうね、目がはれて赤くなっていたわ。
繆力 明さんがオジサマたちと言ったので、わたしもお世話になった大勢のご年輩の方のことが思い出されます。佐賀県では、日中友好協会の宮崎茂さんにお目にかかりましたが、教えられることがいっぱいありました。一家総出で歓迎して下さったんですよ。息子さんは歓迎委員会の地区委員長で。その上宮崎さんは接待費として六十万円を寄付されたんです。それから、奈良の吉田さん。皆さんが「お国の方々に伝えて下さい、日本は中国の人びとに済まないことをしました、しかし今後は、両国は二度と戦争などしないで、代々友好的に、子々孫々そうして行きたいものです」っておっしゃいましたね。
傅強年 子々孫々の友好といえば、汪さん、あなたその「象徴」をやったものね!(笑声)
編集部 なんですか? 話して下さいよ。
汪婉 こうなんです。わたしのフィアンセは程永華(チエンユンホワ)といって、外交部(外務省)の通訳なんですが、こんど友好の船でいっしょに行ったのです。どういうわけかそれが日本の人たちに知れて、それじゃあ結婚式を挙げてやろうということになってしまいました。それも、中日両国の青年が千人も集まる歓迎会の席でですよ。困りました。こんなはれがましい場で、わたしみたいな「小人物」が主役になるなんて。それに親たちもいませんし。でも、せっかくのご厚意ですからお受けしました。わたしたちの衣装も日本の方々が用意して下さいましたし、お祝いの品もいろいろと。日中友好二十一世紀委員会の日本側委員でいらっしゃる香山健一御夫妻が証婚人になって下さって、日中友好協会全国本部の清水正夫理事長からあたたかい御祝辞を頂きました。その上、中日双方の歌手の方が来て祝福の歌をうたって下さったり。感激でした。たとえ親もとでも、というより親もとだったら、とてもこんな盛大な式はできませんし、意義からいえば、百倍も千倍も重いものですわね!
明慧 アー、うらやましい。わたしもそんな所で式ができたら、どんなにいいかしら!(笑声)
傅強年 胡耀邦さんも言ってますね。両国人民の友好は、家庭の友好からはじめるべきだって。汪さんたちのことはほんとに象徴的ですね。
孫堯東 富山で、私たち七十八歳のおばあさんの家へ行ったんです。門のところまで出て送り迎えして下さったんですが、別れぎわにめいめい贈り物を頂いちゃったんですよ。小さいとき、おばあさんに新年のあいさつをしに行って、お年玉をもらったことを思い出しました。あのときも、この日本のおばあさんのように、一人一人に手渡してくれたものです。
汪婉 わたし、おやと思ったのは、友好ムードは都会だけじゃなくて、地方でもいたるところで感じられたことです。熊本県の農家でしたが、話していると、この人たちの中国に対する感情がよく分かるのですよ。それに中国の農家のことなど、わたしよりずっと理解が深いのです。ここ数年らいの農村事情、たとえば責任制とか、割り当て額以外は自由に売っていいとか、農村工業や商品経済のこととか。中国の政府が農業を重視しているのがうらやましいって。どうしてそんなに沢山のことを知っているのかと聞いてみたら、放送を聞いているのですって。それから『人民中国』にも詳しく載っているって。
編集部 それはどうも。ではつぎに、十七日間に見たり聞いたりされたことで、いちばん印象に残っていることなどを話して下さいますか。
いちばんの印象
明慧 わたしの第一印象はね、歓迎パーティーに参加する人が自分でお金を出していることでした!
(笑声)こっちではみんな公費じゃない!
傅強年 このやりかたは、参考になると思いますね。こちらではパーティーといえば、いつでも豪華に盛大にと望むけれど、食べる側が金を出すことはありません。公の金だから当然と思って、会費のことなど持ち出す必要がありません。東京の歓迎パーティーでも、首相の中曽根さんでさえ、会費を出したそうですよ。
汪婉 わたしの一番の印象は、日本人の仕事の能率です。わたしたち文芸団は日本の劇団にお世話になっていましたが、目的地へ着くなりすぐに公演です。所によっては二部公演、三部公演もありましたが、上演前にいつもひじょうにいいタイミングで舞台監督の楠木さんが姿を見せられて、様子をきいたり、指図をしたり、器材をととのえたり、注意を与えたりされるのです。それは手慣れた行き届いたもので、こうして舞台の進行が順調に行くようにしていらっしゃるのですね。ところが終わると同時に消えてしまわれるんです。あとで知ったのですが、舞台監督のほかに、東京でも仕事を持っておられたのです。楠木さんはわたしたちといっしょに回っていらっしゃると思っていた人も多いようですが、ほんとは、わたしたちが見物に出かけたり、パーティーに出たりしている時、東京でまた忙しく働いていらっしゃったのです。
呉泉民 ほんとにそうですね。私も沢山の例を見ましたよ。現在のような日本の高度の近代化は、こういう勤勉さと能率尊重の気風と切り離しては考えられませんね。
孫堯東 私たちにつきそって下さった日本の人たちも、やはりそうでした。私たちのような団体は、人数は多いし、若い者ばかりだからじっとしていないし、扱いにくいんですよね。でも事故もなかったし。日本側の人たちは時間の観念がすごくて、分刻み、秒刻みなんです。ふだん道を歩くのでも、まるでかけ足みたい。最近はこちらでもテンポが早くなってきたけれど、あれにくらべるとまだまだ。
陶煒 いっしょに歩いていてもね、おいてきぼりにされそうで心配だったよ。
孫堯東 もうひとつ。サービスの良さ。
一同 そう。そう!
孫堯東 店員もね、どの店でも、買っても買わなくても、にこにこして、礼儀正しくて、ていねいな言葉づかいで……
傅強年 そういうふうにされると、なにか買わなきゃ悪いような気になるね。北京あたりによくいる店員とは全然ちがうものね。仏頂面をしていて、店に行く気がしないよ。
呉泉民 こんど日本でカメラを買ったんですよ。その日は買うつもりはなくて、ただ見るだけで行ったのに、店の人が熱心にいろいろと説明してくれて、次からつぎと、店にあるカメラを一通り、全部見せてくれるんだ。彼女の気持ちにこたえて買わなきゃ悪いなという気になって。ほんとにいい娘さんだね!(笑声)ついに一つ買いました。満足しています。
孫堯東 それが彼女の目的なんだよ。お客に気分よく買物をしてもらって、金をもうけるのが。
明慧 もうけるためなんだもの、わざとそうしているんじゃないの?
傅強年 いや、それはどうかな。商売だもの、もうけを考えるのは当然ですよ。それが彼女の手段にせよ腕前にせよ、仏頂面で客にかみつくのよりいいにきまっているよ。
繆力 思ったままを言わせて頂きますが、日本の、人と人との間のほどの良さというのは、単に形式にすぎないんじゃないかという感じを受けたこともあるんですよ。困っている人を見かけても、あまり手をかさなかったりして。東京でディズニーランドへ行った日ですが、お年寄りが倒れていたんです。わたしたち急いで助け起こしたんですが、病気らしくて苦しそうな表情でした。でも大勢の人がそばを通っているのに、だれも声もかけません。中国では考えられないことですね。お年寄りや体の不自由な人になにかあった時には、知らない人でもみなで助けます。大人も子供も自発的にね。車を運転している人も、すぐに停車して、その人を病院に運ぶんですけれどね。
陶煒 一面しか見ていないかも知れませんが、ぼくは日本の老人の立場がちょっと気の毒で、ずっと心にひっかかっています。物質的なことではなくて、精神的な空しさに悩む、といっている人が多いんですね。それは、中国にも不孝者はいますよ、でもそんなのはほんの少数で、大部分の人は、敬老愛幼の伝統を守っていて、老人を扶養するのは当然のつとめと思っていますから。
汪婉 こんど日本へ行く前に、「恍惚の人」という日本映画を見たのですが、老人の生活があんなに孤独だとしたら、その社会も冷淡すぎると思いました。
繆力 日本の社会にはどうもよく分からないところがありますね。でも感心させられたことも沢山あります。ことに民族的な伝統文化をよく保存しているのは印象的でした。学校を参観していて気付いたのですが、たいていの小、中学校で、武道や書道をやっているし、『論語』まで教えていたんです。こちらではもうなくなってしまったのに。
汪婉 それから茶道だとか和裁だとか、伝統的なものが沢山ありましたね。日本の教育は、中国も学ぶといいですね。生徒の課外活動も、こちらに比べるとうんと豊富で。
繆力 日本から帰ってきて、教育界に建議しようと思っていることがあるんです。それは小学校の書道教育を強化することです。日本の女の人たちもよく習字をやっていて、多くの家庭に名筆のお手本や碑の拓本がありました。わたしたちの次の世代で、毛筆の字が書ける人はずいぶん少なくなっているじゃありませんか!
汪婉 でも、西欧化の傾向もそうとうなものでしたね。「お月様だってアメリカのほうがまるい」というような人も一部にはいました。
明慧 伝統的なものでも、西欧的なものでも、とにかく日本の環境は美しいと思いました。そんなに高くはないけれど山あり水あり、緑いっぱい、花いっぱいで、どこもかも公園みたい。都市でも農村でも、どこへ行っても荒れ地やはげ山が目につきません。
孫堯東 ことに中小都市は、落ち着いた中に活気があって印象的でした。
汪婉 日本の国土はせまいし、
資源も少ないけれど、かえってそれを上手に活かしていますよね。文物や古跡の保護も行き届いて、百年か二百年そこらのものまで大切にしているし。
呉泉民 日本の資源のことですが、新発見をしました。日本は水資源が豊富なんですね。雨量も多いし、河川も多いし、湖は満々と水をたたえていました。この日本特有の自然条件が、山紫水明の美しい風土を形成して、ひいては経済の高度の発達とも密接に関連してくるんじゃないかと思いました。水資源の欠乏している国が、近代化をはかろうとしても、難しいですからね。
編集部 それはおもしろい発見ですね。ではこのへんで、みなさんの日本の青年についての印象を話して頂きましょうか。同じ世代ですからね。
疑問に思ったこと
明慧 同じ世代っておっしゃったんですけど、率直に言って、少しがっかりでした。山梨県で、わたしより二つ年上の田村さんという女子大生の方と話したときは、すぐに話が合ったんですが、あとでこられた何人かと理想や抱負を話し合ったときは、なんだか共通の言語が急に少なくなったようでした。気が付いたんですけど、女子大生たちの考えていることは、将来いい夫といい家庭をもつことなのね。
繆力 同感ですね。婦人との懇談でも、年輩の人のほうがはきはきしていて、「おしん」的なところが少しあるんですが、一部の若い人はどうも気力が欠けているようで。
呉泉民 身のまわりのこと以外、わりに無関心な人もいますね。日本の若い人たちと靖国神社参拝問題の討論をしたのですが、そういうことがあったことも知らない人がいて、こっちがびっくりしましたよ。
陶煒 日本側の人の案内で、ぼくたちディスコを見学に行ったんですよ。息のつまりそうな中で十七、八の子が酔ったみたいに踊り狂っていてね。ぼくは考え込んじゃったんです。日本の物質生活は良くなったのに、彼らは満足しないのだろうか、高いものを追求しようとしないのだろうか。
蔡暁虹 これは、その人たちの生活の一面で、仕事や勉強の余暇でしょう。仕事時間中ばわき目もふらずにがんばっているのを、わたしたちも見ているでしょう。
汪婉 ええ、乗り物の中でも、本を読んだり新聞を読んだり、よく勉強していますね。日本の技術の進歩も、こういう努力と切り離せないのではないかしら。
繆力 わたしがいちばん嫌だと思ったのは、映画やテレビ、雑誌にはんらんしている暴力と色情の宣伝です。青少年を身心ともに損ないますよこれは。
孫堯東 私の理解は十分とは言えませんが、こんど接触した若い人たちの中国や日中友好に対する理解は相当なものだし、私たちにも誠意ある態度で接してくれました。
傅強年 気のまわしすぎかも知れませんが。日本の青年は私たちにとてもよくしてくれました。でも日中友好の長期の問題については、それほど長い目で見ていないし、深くも考えていないように思いました。中には中国は後れていると嫌って、軽蔑的な様子を見せる人もいましたね。
汪婉 いろいろありますよね。さきほど西欧化の話が出ましたが、日本ではとくに青年の間にその傾向が強いようですね。
明慧 後れているのは、認めます。がんばらなくちゃね。でも、マル金とマルビで、友達をより分けるなんて、イヤミなやつだ!(笑声)
陶煒 中国国内の一部の人を含めてですが、誤解があるんですね。その人たちは、中国の現代化は日本に頼るほかないみたいなことを言ってますが、これは正しくないと思います。両国ともに一長一短がありますね。日本の科学技術や管理の方面は世界的に評価されていますし、中国には広い土地と豊富な資源があります。実際、両国の交流で、双方ともに利益を得ているのですから。
汪婉 中国が現在のような方針でやって行けば、先進工業国に追いつく日はそう遠くはありません。
孫堯東 さきほど日本の教育の話が出ましたが、私も同感ですね。見習うべき点が沢山あります。職業教育の普及などもね、これは中国ではほんとに欠けています。ただ、私、賛成できないことが一つあるんですよ。日本が過去に他国を侵略した歴史に話が触れたりすると、どうもそれを避けたい様子ですね。これでは、青少年が自分の国を正確に認識し、他国への正確な対応を認識する上で、なんの役にも立たないと思いますが。
呉泉民 ほんとにそうですね。広島で出会った日本の生徒なんですが、彼らは日本が唯一の原爆被災国であることを、涙を流しながら話すんですね。そこで、どうしてそういうことになったんだろうと聞いてみたんです。すると、「アメリカの方が強かったからです」と答えるんですよ。
傅強年 これは、その子らを責めるわけにはゆかないよ。大人がはっきりと教えなかったのだから。
汪婉 平和を失ったことのある人が、いちばん平和の貴さを知っているように、戦争の害を受けた人が、いちばん戦争を憎みます。ではどうしたら戦争が避けられるか、平和が保てるかということですね。周総理の言葉に「前事不忘,後事之師」、前の事を忘れることなく後の戒めとするというのがありますが、青少年に歴史的事実を教えることこそ、将来、国を背負って立つ彼らのために役に立つのです。
陶煒 劉延東団長が言いましたね。「人之相交,貴在相知」って。これは哲理を含んでいると思います。たがいに知り合えば疑うこともないし、疑いがなければほんとうの友達になれる。中日両国の間も、そうだと思います。
編集部 二十一世紀の中日友好の舞台では、みなさんが主役ですね。なにかご見解を。
重任をになって
傅強年 それは、私は楽観しています。さっきから、あまり愉快でない話が出ていますが、編集の方、がっかりしないで下さいよ。(笑声)
編集部 いや、そんなことは。
汪婉 いくつかの「支流」を挙げたのは、そのほうがほんとの気持ちが表せると思ったからです。
繆力 こんど日本へ行って、おたがいが知り合うために、いちばんいい方法は、多く接触し多く交流することだと感じました。はじめにわたしの母のことをお話ししましたが、帰国してから、わたしはまず自分の家で小「訪日報告会」をやりました。日本の人たちがどんなふうにわたしたちを扱って下さったか、どんなふうに「日中不再戦」を誓い合ったか。きょうだいのようなもてなしを受けたというくだりでは、母までが感激してしまって。「そんなにいい人たちかい?お前、わたしからもよろしくと挨拶したかい?」(笑声)わたしの観点を受け入れたわけです。六つになるわたしの息子も、大きくなったら日本へ行くと言うんですよ。
傅強年 ほら、もう後継者ができた。
孫堯東 繆さんのいうとおりですね。私たちが日本で会った人の中でも、前に中国に来たことのある人たちは、その感情がやはりちがいますね。会ったとたんに、旧友と再会したような感じがしました。胡耀邦総書記の招きで、この前、三千人の日本の青年が中国へ来ましたね。箱根でその中の五人に会いましたが、もうつぎつぎと話がつきないんですよね。
繆力 わたしたちも三千人の中の一人に会いましたよ。田代さんという方ですが、横浜、東京の数日間、つきっきりで写真を撮って下さったのです。無口な静かな方なので、わたしたちは歓迎委員会の人か記者だろうと思っていました。ところが、ご自分の仕事を休んで自発的にそうしておられたのです。お別れするとき田代さんは「中国へ行って、中国の人たちからあんなに盛大に熱烈な歓迎を受けたことを、私は一生忘れません。みなさんも日本の人びとのことを忘れないで……」と、のどをつまらせ、団長も涙を流しました。わたしは「日本の人のことを忘れません、田代さんのことも忘れません」と言ったんですが、言ったとたんに涙が出てしまいました。まわりにいた人もみんなそう。
明慧 わたしも楽観派ですよ!二十一世紀は中日友好の世紀。
繆力 明さんは、こんどの五百人の中では最年少?
明慧 たぶんね。わたしたちが最初に出合ったのは四人のオジサマだったのですが。その次の所では全部若い人でした。最年長が二十八。山形県の河北町です。そこの集会はおもしろかったわ。わたしたちが先生になって日本の人たちに餃子(ぎようざ)と中国料理の作り方を教えたの。わたしのまわりを「生徒」がとりかこんでじーっと見ているの。でもね、あの人たちの作った餃子といったら。みんな形がちがうの。(笑声)山形は三日間でしたが、三年もいっしょにいたような気持ちがしました。お別れの歌をうたいながら男の子も涙ポロポロだったわよ。思い出すといまでもわたし、目が赤くなるの。次の日は朝早く仙台へ向かいましたが、町長さんはじめ、わたしたちが泊めて頂いた家のご主人たちが、中には一家総出で、見送って下さいました。その中に、関一哉チャンという、まだお誕生前の坊やを抱いたお母さんがいらっしゃったんですが、ちょうどわたしたちの分団にも関というお父さんがいたんです。関さんはその坊やを抱き取って「うちの坊主を思い出すなあ。二人ともいい友達になってくれよ!」って言いました。みんなでかわるがわる一哉チャンを抱っこして写真を撮りました。そのとき、なんで別れなくちゃならないのかなあって、ほんと、感傷的になっちゃった!
編集部 じゃあもう明さんは「一枚の白紙」ではない?
明慧 日本語を勉強しますよ、わたし。いま大学では英文ですが。中日友好のかけ橋になる準備です。
汪婉 創価大学での催しも、忘れられませんね。
一同 そうです。ほんとにすばらしかった!
汪婉 これには三千人もの青年が協力したんですってね。練習期間は二カ月でしたが、余暇を利用しての週四回の練習だったそうです。経費はめいめい自分持ちで、衣装もお手製で。さすが中国人民の老朋友池田大作先生の指導される創価学会だと思いました。中国の扇の舞いや赤い絹の踊りもありましたが、プロ並みの水準ですね。孫悟空を演じた人は、ビデオで少しずつ覚えたんですって。感心してしまいました。
傅強年 「東京の一日」という日本の社会を描いたのがありましたが、都市生活の喜怒哀楽が、低俗でなくよく表現されていて、私は笑いっぱなしでした。
蔡暁虹 この会が終わったあと、みな総立ちになって、だれも出て行こうとしないのです。劉延東団長も感動して、予定にはなかったのですが、いいあいさつをしましたね。
明慧 団長が話しているとき、日本の人も中国の人も、涙ぐんでいる人いっぱいいました。
傅強年 それからもう一つ。東京を離れる日ですよ、船が錨を上げるまぎわに、娘さんが人垣をかき分けて出てきたでしょう。両手にいっぱいものを持って。
陶煒 ああそうだ、ぼくも見ましたよ。背の高い、眼鏡をかけた。明さんによく似ている人!
傅強年 そうですね、高橋千代子さんというんです。中国語ができて、中国文学の愛好者で、中国の青年作家の名前や作品をずらっと挙げるんですよ。お父さんが千代子さんに日中友好の仕事をするようにとおっしゃったのだそうです。こんど私たちが行ったときも、千代子さんは沢山の人といい友達になりました。高橋さん親子には、私も励まされます。ともに努力して、歴史の重任をにない、中日友好のバトンを、二十一世紀へ、そして代々、伝えて行かなければと思います。
編集部 みなさん有難うございました、きょうはこのへんで。