外国人が見た北京

2023-05-25 16:37:00

中国の首都·北京に長期滞在する外国人は二万人余。対外開放と改革の政策が軌道に乗るにつれ、あるいは商用で、あるいは技術協力や文化·学術交流のため、一年ないしは二、三年と比較的長期にわたって北京に住む外国人が増えている。 

昨年の九月から十一月にかけて、北京の日刊紙『北京日報』は、北京に住む外国人を対象に、「わたしの見た北京」と題する作文を募集した。寄せられた作文は、三三〇篇。四十二の国家から来ている三三〇人が見た「わたしの北京」は、それぞれに興味深いものだった。

本誌では、うち一〇篇を選んで、四月号の特集とした。日本人、フィリピン人、フランス人、アメリカ人、……。外国人の目に映った北京はどんなところなのだろう。

北京は好き、でも「オバアチャン」はイヤ

西ドイツ フレンスブルグ市会議員 エディット

春はよい季節、春風は心のカーテンを開き、春の光は忘れ難い印象的な色彩を心に残します。それで、わたしは夫のヨハンと、四月に中国の北京に来ました。遠くそして近しい感じのする国土で、人びとは目ざましい成果を上げていました。生活はまだそれほど豊かではないけれど、民族の血に頑張りがみなぎっています。

北京の空はわたしの町と同じように青く、春の光は同じように輝いて、わたしたちはここで新しい友達を得、厚い友情に触れました。でも、全人類という分母の上の大きい分子である中国人の、風俗や民情は、わたしたちとはまた違うところがあり、北京での見るもの聞くもの、みな珍しく感じました。

北京の住宅区に住む中国の友人の家へはじめて行ったとき、小さい子に「オバアチャン!」といわれて、とてもへんな気分でした。―オバアチャンとはトシヨリのことではないか。わたしの国では、はやばやと老け込むのをいちばんおそれている。八十になっても、ほんとにお若くてお美しいといわれたいと、だれもが思っているのに……

あとで知ったのですが、中国には敬老の伝統があって、あれは子供たちの礼儀正しいよびかけで、尊敬と親しみをこめたあいさつだったのです。中国では若い人たちの間でも、おもしろいことがあります。王クンや李クンが「老王」や「老李」と呼ばれて喜んでいます。「年長」と「経験深い」は、概念が共通なのです。

ふしぎな気がしたことはまだあります。軍服そっくりの子供服を着た子が、なんと多いこと。おもちゃのピストルを腰にさげて。女の子までが!西ドイツでは、わたしたちはどんな形式のものでも軍事的な遊びを好みません。第二次世界大戦で全人類はいやというほどの破壊を経験し、わたしたちは戦争の傷から立ち直ったのですが、それ以後は、すべてのミリタリズムの表現に、不安と反感を感じています。

でも、いまなら理解できます。中国人の心の中で、中国人民解放軍は、家を守り、国を守り、平和を守ってくれる隊伍であり、災害の時にも頼りになる隊伍です。中国の大地のどこにでも、不幸が起きればすぐにかけつけます。中国では最も信頼されている人たちであり、子供たちの軍人に対する尊敬も幼いときから始まっているのです。

もう一つ、最初のころとまどったことがあります。中国人の友達の家に食事に招かれたとき、その家の奥さんが、テーブルに並べ切れないほどのごちそうをしめして、「きょうはなにもありませんが、さあどうぞ!」といったのです。「エーッ!これでなにもないだって。じゃ、ある、だったらどういうことになるのだろう」

それは「食事をおはじめ下さい」というあいさつだったのです。中国には、謙虚を美徳の一つとする歴史がありますから、これもそれが背景になっているのでしょう。

まだまだ、おもしろいと思ったことやよく分からないことがあります。わたしの国では食事を作るのは女の人の仕事で、夫が手伝うことはまず例外ですが、北京では、夫は料理の名手だという発見をしました。驚きました。

不便なことや、これだけはお断りということもあります。町に買物に行っても、一休みする喫茶店がどこにも見当りませんし、かなりのトイレは、「これだけはお断り」です。

いろいろ書きましたが、北京での日々は印象的でした。北京の町はわたしの記憶に刻まれ、北京の友達はわたしの心の中で語りかけています。見たい所が沢山あるのにもうお別れです。夫は教師ですから新学期が始まるので、もう帰らなければなりません。

お別れの握手のあたたかさが、いまも心に残り、北京の姿がいつも目に浮かびます。また、行きます。待っていて下さいね、皆さん。

中国のお母さん

北京大学留学生 藤田香織

 

私の毎日の日課は千篇一律、起床、朝食、授業、中食、休憩、自習、夕食、自習、読書、就床。毎日がこの繰り返しです。見るからにつまらなさそうでしょう?なんのなんの、こんな毎日でも、しょっちゅういろんな出来事に出会うものです。そして、その度にお腹を抱えて笑ったり、悲しくて涙を流したり、また深く考えさせられたり、これらの出来事が見た目では単調な私の生活に多彩な色どりを添えてくれ、私は実に有意義な留学生活を送っています。でも私には日記をつける習慣が無く、日に日に起こるこれらの出来事も、殆どは忙しい生活の中で印象が薄くなり、終りには忘れてしまいます。ただその内幾つかは、殊更印象深く、今でもはっきり憶えています。これはそのうち、去年の冬に起こった小さな出来事です。

ある日曜日、私は仲良しの友達と一緒に餃子を作る約束をしました。せっかく中国にいるのだし、中国料理のつくり方も勉強しなければ、というわけです。それで私は近くにある海淀野菜市場に白菜を買いに行きました。十一月の末、もう冬ですから市場にも野菜は少なく、白菜だけが山の如しと積みあげてあります。私はそこに駆け寄って売り子さんに声をかけました。

「シーフ(売り子さんのこと)!この白菜はいくら?」

「一山五毛(マオ)(四円にあたる)」

売り子さんははたちを過ぎたくらいのおさげの女の子。私とは全く反対の方面に顔を向けて、愛想のない返事です。さあて、一山というと大きな白菜が五、六個。そんなにたくさん買っても、持って帰るのが大変だし、だいたい私達が餃子を作るのには一つあれば十分です。

「シーフ、私は一つだけ買いたいのだけど……」

「ダメ!」

ぶっきらぼうに言ったきり、売り子さんはもう私を相手にしてくれません。どうしよう?餃子を作るのに白菜は欠かせないし、でも……。考え込んでいると、

「どうしたの?」

背後に親切な声を聞いて振り向くと、声の主は見知らぬ中年のおばさんでした。黒い毛糸の帽子に、黒い綿入れ、灰色のズボンに布靴、帽子からはみ出た髪の毛には白髪が随分まざっています、多分六十歳くらいでしょう。でも身体はしゃきっとして、とても元気そうです。皺の多い顔に優しそうな微笑をうかべて。私が困った顔をして白菜売り場に立ちすくんでいるのを見て、きっと不思議に思ったのでしょう。

「私、白菜が一つ欲しいのだけど、シーフは一つじゃあ売ってくれないの」

「どうしてもっとたくさん買わないの?」

「私は留学生だし、いつも自分で食事を作るわけじゃあないの。今日は友達と餃子を作るので白菜を買いに来たんだけど、あんなにたくさん買う必要はないんです」

おばさんは私の話しを聞いて、どうやら外国人が餃子を作るという事に興味を持ったようです。

「あんたたち餃子が作れるの?」

「まだ作ったことはないけど、なにごとも挑戦して見なくっちゃ」

おばさんは笑いながら頷き、腕に下げていた買い物かごを下ろし、中から一番大きくて立派な白菜を取り出して、

「それなら私があげようね」

と私に差し出しました。私はとても嬉しくなって、ポケットの中の財布を探りながらおばさんに尋ねました。

「助かるわ!どうもありがとう。いくらで買いましょう?」

「お金なんかいらないよ。しっかりお食べなさい」

でも、タダでもらうのも何だかきまりが悪く、財布からいくらかお金を出して収めてもらおうとしましたが、その時にはおばさんはもう人ごみの中に混じって居なくなっていました。彼女にもらった白菜を抱えて、私はとても大切な物をもらったような気分でした。

帰り道、私は口の中で「しっかりお食べなさい」という彼女の言葉を繰り返しながら心が暖かくなって来るのを感じました。別にタダで白菜が手に入ったからではありません。それよりも、長く味わったことのない母の温かみを感じたからです。私は今故郷を離れて一人異国で生活していますが、決して独りぼっちではないのです。ここにも私の新しい家族がいます。あのおばさんのように、名前も知らないけれど、私のことを気にかけ、陰に日なたに手をさしのべてくれる人達が沢山いるのです。

その日に作った餃子は上出来で、友達も大満足してくれました。私はというと、この餃子から、いつもは味わうことの無い格別の味を味わうことが出来ました。それはきっとあのおばさんが私のために特別に入れてくれた“調味料”の味でしょう。ありがとう、私の中国でのお母さん!私はきっと、あなたの好意に報いることの出来るよう、頑張って勉強する事を誓います。

北京のわたしの家

北京語言学院留学生 マリア(フランス)

 

北京はわたしが行ってみたいと夢見ていた町。

その日がついに来た。でも、北京駅を出たわたしはドキドキしていた。北京語言学院がどこか、どうやって行くのか分からない。それに中国語も少ししかできないので、まわりの人にたずねる勇気もないし、かといって、こんな所でぐずぐずしてはいられない。

そこへ、やさしそうな、年輩の人が歩いてきた。わたしは急いでそばに行き、勇気を出して、ぎごちない中国語で「北京語言学院へはどう行くのですか」ときいた。

「北京ははじめてですか。お国はどちら?留学ですか」わたしがうなずくと「心配はいりません。学校まで送ってあげます。では、まず私の家でひと休みなさい」

わたしはせまい路地を抜けて、その人の家へ行った。門を入って驚いた。この人の家はなんて人数が多いのだろう、部屋も大小ずいぶんの数だ。みんな中庭に出てきて、わたしを見ている。その人は、部屋に入るとわたしに言った。

「この中には十二世帯が住んでいるのですよ。労働者、勤め人、教師、エンジニア、個人営業などいろいろな人が。夕方になって、みなが帰ってくれば、三十人以上になります。私はもう退職しているので、みなさんの留守番役といったところです。みなが心配なく仕事や勉強ができるようにと」

この人の家は三人家族で、奥さんと息子さんがいる。息子さんはまだ独身で大学院生だ。話している間に、奥さんは食事の仕度をして下さった。とてもごちそうで、一つ一つ味がちがって、甘いのや酸っぱいのや、辛いのがあった。苦いのもあり、これは苦くて辛かった。中国料理のことは聞いて知っていたが、食べたのははじめてで、おいしかった。それから中庭に出て、ここに住んでいる人たちと少しおしゃべりをした。それでは学校に送りましょうと、この人がいうと、東の棟からほかの家の娘さんが出てきて「わたしが送って行くわ、小父さんはお年だもの」といった。わたしは親切な娘さんにとても感謝した。ほんとに、小父さんはかなりのお年なので、学校へ送ってもらったあと、一人で帰ってもらうのが心配だった。でも、わたしひとりでは行けないので、申しわけないけれど送ってもらうことになっていたからだ。娘さんのひとことは、思いがけなかっただけに、うれしかった。わたしは娘さんの手をとって「シエシエ」といった。小父さんご夫婦や皆さんにごあいさつして、わたしは娘さんといっしょに門を出た。

みちみち、娘さんが熱心に話しかけてくれて、わたしたちは沢山話をした。ホームシックめいた感情はどこかへ飛んでいった。「ラッキーだったな、わたしは。北京に着いてすぐに、こんなすてきな人たちにめぐり会えるなんて」と心の中で思った。

楽しいときは時間のたつのが早い。一時間足らずで、もう語言学院に着いた。娘さんはわたしを連れて、係りの先生の所へ行き、わたしの落ち着き先をたしかめてから、学校の宿舎へ案内してくれた。ひととおり片付けが終わると、娘さんが帰るというので、わたしはいそいで、ほんとうに気持ちだけのものだけれど、小さいプレゼントをしようと思った。でも娘さんは「あなたは北京に来たばかりで慣れないから、お手伝いをしただけ。当然のことだもの、お礼なんていらないのよ。時間があったらまた遊びにいらっしゃい。みんなで待ってるわ。じゃあね。疲れたでしょ、早くお休みなさい。バイバイ!」と行ってしまった。いつものわたしは、ちっとも泣き虫じゃないのに、このときは、なんだかしらないが、ひとりでに涙が出てきて、なかなか止まらなかった。

まあこういうわけで、北京に、わたしの家があるみたいにして、ひまさえあればあの娘さんと小父さんたちの所へ行くようになり、みなさんと家族のようになってしまった。わたしはこういうあたたかい北京人が大好き。ホント。

王府井を歩行者天国に

中国人民大学日本語教師 穂積晃子

 

三年半ぶりに北京空港へ降り立ち、空港からの道を車の窓から私は一心に見つめていた。この美しい緑の並木に再び会えたことが、本当にうれしかった。何列も重なり延々と続く街路樹は、緑の松明を持って私を迎えてくれる儀仗兵のようである。

八一年の早春、二年間の北京での仕事を終え、中国の友人と別れて帰国するのが只々悲しかった。美しい新緑の季節を待たずに北京を離れるのも心残りであった。その時以来、もう一度きっと中国へ行きたいと思い続けてきた。その願いが、八六年夏、ようやくかなえられたのだった。

今回は感傷的にばかりなっている余裕はない。一歳にならない幼い娘を抱いてきたからである。しっかり仕事をし、しっかり子供を育てること。美しい柳の並木に向かって、何度も決心をくり返した。こんな小さな子供を連れて行くことを心配してくれた人もいたが、「中国でなら、子供は無事育つ」と私は固く信じていた。子供を育てるには、食べ物やら薬やら衣服やら必要な物がいっぱいある。しかし、何よりも大切なのは自然の大らかさである。東京の生活はなるほど北京と比べものにならない程便利だ。しかし、子供を産んだり育てたりする動物らしい生命力は都会の造られ過ぎた装置からではなくて、何かもっと原始的な、包容力豊かな環境から生じる。中国には生命力の豊かな何かがある。おむつを当てた娘のおしりを膝に感じながら、私は少しも心配していなかった。

さて乳呑児(ちのみご)と暮し始めてみると、私の自信はちょっと揺らいだ。三年前より北京の暮しは便利になっている筈なのに。

客の注文を聞いて初めて量り始める市場の悠長さも、電話の不便さから生じる否応(いやおう)無しののんびりテンポも、以前はそれなりに楽しかった。東京と違えば違う程、北京に異国情緒を感じていたのである。ところが、赤ん坊の要求は、いつも今すぐ待った無し。若い気楽な夫婦には何でもなかったことが、今度は実に様様な不安や苦痛をもたらす。

老いた者、病める者、幼い子が安心して乗れるバスが欲しい。誰もがいつでもタクシーに乗れるわけではないし、自転車に乗れない者もいれば乗れない時もある。

また、憧れの北京見物で歩き続けた後も、道端でひと休みできる木陰のベンチはないものか。広い広い天安門広場は、疲れた身体には苛酷な石の砂漠である。

今一番の関心は、王府井を歩行者天国にできないかということ。狭い歩道は上り下りの人が溢れ、一〇メートル進むのも大苦労である。混雑ぶりを「芋の子を洗うようだ」と日本語で表現するが、王府井を歩く私は正に芋の子である。この人混みの中で、タバコを吸いながら歩いている人が多いのだから、ヨチヨチ歩きの子供を連れていると危なくて仕方がない。前を歩く人のタバコの火が、いつ子供の顔に触れるかわからない。特に日曜日はひどい混雑である。しかし、平日働いている労働者が買物に行こうとすれば日曜日しかない。車道もまた、車、バス、自転車でいっぱい。ブーブー、チリンチリン鳴らしても、歩く人以上の速さでは進まない。ノロノロ運転の車の排気ガスも大変なものだ。眼と鼻の近くにある向かいの百貨店に行きたくても、安全に横断するのはむずかしい。横丁の露地からは、人の流れを蹴散らすようにタクシーが突っ込んで来る。王府井に行く度に、庶民は本当に石ころみたいにつまらないものだと思い知らされて悲しくなる。

庶民こそは労働者。国を支える生産力。その庶民が諦めきったような暗い瞳でいてはいけない。庶民の顔がもっと陽気に輝けば北京はずっと明るい街になるに違いない。自転車の洪水も、寒すぎる冬も、春の砂嵐さえも、みんな北京の愛する風物詩である。だから庶民の英気を養うために、貴重な休日をほんの少し快適にする工夫をして欲しい。

せめて、日曜祝日には、王府井の通りから全ての車輌はシャットアウト。今日ばかりは通りの端から端まで歩行者の天国。家族連れや恋人たちは車道をのんびり歩き、木陰に並んだベンチには老人たちが一服しながらおしゃべりし、子供たちは座ってアイスクリームを食べられる。車道の真ん中に丈夫なパラソルが開いて、その下ではおいしい酸梅湯(スワンメイタン)も売っている。そうなったらどんなに素晴らしいだろう。

北京で一番怖いもの

北京師範大学留学生 折本桂子

 

私が北京で一番恐れているものは何でしょう。それは車です。

まず、バス。ある晩私は三三一のバスで大学へ帰ろうと、始発駅の平安里でバスを待っていました。バスが来ると、バス停の人々はそのバスを追って移動を始め、バスが止まるや否や子供からお年寄りまで全ての人々が、我先にと押しあいへしあいしながら乗り始めました。ある子が押されて転び、泣き出しました。どうして皆さんはきちんと並ばないのでしょうか?この点が私には理解できません。もし、皆さんにゆずりあい、助けあいの気持ちがあったら、乗車もスムーズにゆくでしょうに。バスに乗る時、いつも恐いのは皆さんが押しあいへしあいすることです。どうか皆さん押さずに並んで乗車して下さい。

次は地下鉄。「次は建国門駅、終点です。降りる方を先に、乗る方はそのあとから……」とアナウンスがありました。もうすぐ終点に着くという時、ホームに居たお客様が地下鉄を追って動き始めました。ドアが開くとそのお客様たちが一斉に押しあいへしあい乗り込んで来ました、降りる人のことなどおかまいなしです。「降りる人が先……」はどうしたのでしょう。

日本でもラッシュアワーの電車は大変混みあいます。しかしホームで電車を待っている人は「降りる人が先」という規則を守ります。

私は北京の地下鉄の駅でも“ゆずりあい”の精神を提唱したいと思います。

三番目はタクシー。その日私は大変急いでいました。ホテルの前にたくさんタクシーがありましたので、そこへ駆けつけ呼びますと、運転手さんに「どこまで?」と聞かれました。「小西天の北京師範大学」と答えますと、「行かない」と一言。そして、運転手さんは同僚とおしゃべりをしに行ってしまいました。私は再度「どうして?」と尋ねてみました。すると、運転手さんは車を降りて笑いながら、何も言わず去ってゆきました。

日本のタクシーは便利です。路上で手をあげれは、すぐ止まります。それ以上に便利な事は、運転手さんたちが乗車拒否をしないことです。乗車する時間が遅かれ早かれ、また、行く距離が近かろうと遠かろうと、運転手さんはいつも「どうぞ」と言ってくれます。

私は各国にはそれぞれの社会事情があることを知っています。では、ここで中国の人々がでかける時に使う交通手段が何であるか考えてみましょう。そう、それは自転車です。そこで私も自転車を買いました。北京は広くて、大学も規模が大きいので、授業に出る時のみならず、購買部に行ったり、郵便局へ行ったり、また街に出かけたり、映画を見に行ったりする時には必ず自転車に乗ります。自転車を買ってから、私は先に述べた三つの受け入れ難い矛盾から解放されました。

ところが、一難去ってまた一難、ある日自転車で買い物に行った時のことです。突然後ろから「気をつけろイ!」と大きな声がして、一台の自転車が風のように私の横をすり抜けてゆきました。慌てふためいていると、目の前にトラック……。あーあ、ついてない! 結局私は転んでしまいました。

日本の交通は中国よりも混雑しています。道路が狭い上に交通量も多く、事故の発生率も高いので、歩行者、運転手(自転車に乗る人、オートバイの人も含めて)皆が安全を考えます。ここから“ゆずりあい”の精神が生まれました。私はこの精神は社会生活の中で最も基本的な観念であり、社会生活の“潤滑油”でもあると思います。しかし、言うは易く行うは難し。日本でもそうですし、私自身もそうですが、人々はよくこの精神を忘れがちです。

北京の友人の皆さん“ゆずりあい”の精神を呼び醒ます努力をしましょう!

皆さん、もし北京市内で、おっかなびっくり自転車に乗っている人をみかけたとしたら、それは、きっと私です。どうか皆さん、笑わずに見守って下さい。車に乗ること、または自転車に乗ることが、私は一番好きですと、言えるように!

タクシーの運転手さん

芳草地小学校六年 楊哲安(イギリス)

 

この数年、北京の街のタクシーは多くなるいっぽうです。通りには、たくさんのタクシーが走っています。たくさんいるタクシーの運転手さんの中には、よい人もいますが、悪い人もいます。

よいタクシーの運転手さんについて、まず書きましょう。ある日、ぼくは、五十五中学まで兄を迎えにゆくことになり、一台のタクシーを呼びとめました。運転手さんに、「五十五中学まで」と言うと、道順をよく知っているのです。五十五中学は、運転手さんの母校だったからです。

「わたしは勉強が嫌いでね。試験はいつも落第点だったな。今になって後悔してるよ。いっしょうけんめい勉強しなければいけないよ。時間は、けっしてムダにしちゃいかん」……

運転手さんは、こんなお話をボクにしてくれました。いい運転手さんだナ、とボクは思ったことです。

中国の小学校には給食がありません。昼は家に帰って食事します。昼食をすませてしまうと、母から電話がありました。忙しいので午後は学校まで送れない、車はタクシーにしなさい、という電話です。通りに立ってタクシーを待ちましたが、こんな日に限って「空車」が来ないのです。十分以上待っても来ません。やっと一台やってきました。手を上げて呼びとめると、運転手さんは、午前中、家まで送ってくれた同じ運転手さんなのです。

「運転手さん、遅刻しそうなんです。少し急いでくれますか」とぼく。

「よし、分かった。遅刻はさせないよ」

運転手さんはハンドルをしっかり握り、スピードをガンガン上げました。その時、ぼくは、サイフを家に忘れてきてしまったことに気がついたのです。ポケットには、午前中に買ったアイスクリームのおつり、三元しかありません。

「運転手さん、三元だとどこまで走れますか」 心配になってボクは運転手さんに尋ねました。

「東大橋(ドンダーチヤオ)あたりまでだナ」と運転手さん。

「ボクを東大橋で降ろして下さい。今、ボクは三元しか持ってないんです」

「なに、かまわないよ。芳草地小学まで送ってやる。授業に間に合わなければ、大変だろう」

運転手さんは、料金オーバーになったのにもかかわらずボクを学校の正門まで送り届けてくれたのです。遅刻もしませんでした。ほんとうによい運転手さんです!

でも、悪い運転手もいるのです。アパートの門前には、何台もタクシーが停まっていますが、運転手さんたちは、控え室の中で“油を売って”います。部屋はタバコの煙でむせかえるほどです。どうでもいい話に夢中になっていて、たのむから乗せて下さい、とお願いしても、どうでもいい話がすっかり終わるまで、いくらお願いしても、子供のボクなど相手にしてくれません。ああ、子供のボクだって、時間は大切にしたい!よい運転手さんなら、「時間は、けっしてムダにしちゃいかん」と言ってくれるのに、……。

子供だと見ると、タクシーの中でいろいろ話しかけてくるイヤなやつもいます。おまえの家はでかいんだろう、電話は何番だ、家族は何人なんだい、などなどです。

こっちがまじめに答えていると、最後には、外貨券(外貨兌換券。外国人専用の通貨)と人民元(人民幣。中国の法定貨幣)を交換してくれとか、アメリカドルに換えてくれとか、しつこいのです。

ある時など、友だちになりたいと言って、家までつけてきた運転手もいました。こんなヤツと友だちになどなりたくありません。ボクは自分の家を知られたくないので、アパートの別の建物にわざと入って姿をくらましたのです。

やっかいなことが多いんです。そこで、ボクはうまい方法を考えました。タクシーに乗る時は、日本人になりすますのです(楊クンはイギリス籍中国人)。中国語のしゃべり方も、日本人らしくやります。「長城飯店までだ。いいね」こんな調子です。

いやな運転手が話しかけてきたら「わからない。中国語はわからない」とだけ言って、けっして相手にしないのです。この方法は、ききめ抜群です。だって、とりつく島がないんですから。

今、ぼくはタクシーに乗ったら、余分なことはいっさい話さないことにしています。やっかいなことが起きたら大変です。貴重な時間なんだから大切にして、自分の好きなことを考えています。

おイモ売りのおじいさん

芳草地小学校六年 ノイミー(フィリピン)

 

北京での買い物は、まえよりずっとずっと便利になりました。わたしの住んでいる外交官アパートの近くにも、自由市場ができたからです。新鮮な野菜、くだもの、魚、肉、たくさんの品物が並んでいます。友誼商店(外国人専用商店。北京の友誼商店には、旅行客用のみやげ物のほか、生鮮食料品が並ぶスーパー·マーケットも併設されている)より良い品物も多いんですよ。わたしの大好きなサツマイモにトウモロコシ、このふたつは、近くの自由市場に行けば、すぐ買えます。

自由市場には、サツマイモ売りのおじいさんがいます。日焼けした黒い顔にはたくさんのしわ。ひと目で、おひゃくしょうのおじいさんだって分かります。わたしは、いつもおじいさんからサツマイモを買うのです。

ある日のこと、わたしは並んでいるおイモの中から一番大きなのを選びました。すると、おじいさんは、「おじょうちゃん、どうしてそんなおイモを選ぶんだね」と聞くのです。

「だって、大きいほどおいしいでしょ。それに、大きいおイモは中が赤いんですよ。とってもおいしいんです」

わたしが答えると、おじいさんは、

「アイヤ、それはまちがいじゃよ。いいかね、ほら、大きくも小さくもなくて、皮がいちばん赤いのを選ばなくっちゃ。これなら、中も赤くて一番甘いんだ!」

そう言って、いくつか選んでわたしの前に置きました。でも、わたしは、まだ信じられません。一番大きいおイモがほしかったのです。おじいさんは、きっとわたしのそんな気持ちが分かったのでしょう、

「おじょうちゃん、心配はいらないよ。ダマしたりしないんだから」

おじいさんは、大きなおイモを手に取ると力いっぱい二つに割りました。それから、別の中くらいのおイモも同じように割りました。「ほら、見てごらん。大きいのより赤いだろう」

やっとわたしも信用して、おじいさんが売ってくれたおイモを抱いて家に帰ったのです。

家では、ママのお手伝いをして、わたしがおイモをよく洗いました。そしてオーブンの中に入れて、焼きあがるのを今か今かと待ったのです。

焼きあがりました。とっても甘いサツマイモでした。わたしがおいしそうに食べていると、

「ノイミー、おつりはどうしたの」とママ。

「ちゃんとありますよ」と答えて、ポケットをさがしてみると、あれ大変、サイフがないのです。きっと、おイモ選びに夢中になってしまって、おじいさんのお店に忘れてきたんだ!そうにちがいないわ。

サイフにはたくさんのお金が入っています。大変です。わたしは悲しくなって、涙をポロポロ流しながら、いっしょうけんめい走って自由市場のおじいさんの店まで行きました。

「おじいさ―ん!」

おじいさんは頭を上げると、まだわたしが何も話さないのに。

「おじょうちゃん。サイフを忘れたんだね。ワシはおじょうちゃんの家がどこなのか知らないから、あした渡そうと思って、ちゃんと取っておいてあるんだよ。よかった、よかった」

そう言って、わたしにサイフを手渡してくれました。

「さあ、泣かない、泣かない。よーく数えてごらん。ちゃんともとのままだろう」

おじいさん、ありがとう。ほんとうに親切なおイモ売りのおじいさん、ありがとうございました。

けれど、自由市場には、おじいさんのようによい人ばかりいるわけではありません。人民元と外貨券を換えてほしい、と言ったり、わたしたちが外国人だというので、余計にお金をとる人もいるのです。同じ値段でも、目方をごまかす人もいます。しつこく売りたがる人もいます。「外国人のチビ。リンゴも買ってけよ」こんなひどい言葉でわたしをからかうイヤなお兄さんもいます。

みんなみんな、おイモ売りのおじいさんのようだったら、どんなに北京はすばらしいでしょう!

「倒爺」現象を考える

『朝日新聞』北京支局特派員 加藤千洋

 

この夏、「倒爺(ダオイエ)」という新語に出会った。彼等の市場での暗躍が目に余るものとなり、政府も一斉摘発に乗り出すという社会問題になったため、私も日本の読者にこの“倒爺現象”を紹介しようとして、はてと困った。この北京人が使いだした倒爺という言葉をなんと訳すか。新語だから辞書には出ていない。友人が「二道販子(アルタオフアンズ)」と同じというので中日辞典をもう一度開くと、英語からの外来語で「ブローカー」とある。しかしブローカーは元々、商売の媒介を仕事とする人のことで、仲買人、仲立人などのことだ。どうも倒爺の訳語としてはもう一つピンとこない。結局、「悪質ブローカー」と表現してみたが、十分説明しきれていない感が残った。

ここ数年来、日本の新聞の社会面を時折にぎわす言葉に「××ころがし」というのがある。たとえば土地ころがしといえば、これはインチキ会社(中国の皮包公司(ピーバオゴンス))をいくつか作り、その会社の間で土地の名目的な売買をやって、その土地の値段をつり上げるといった悪質な不動産取引き業者らの行為を指す。この「ころがし」という言葉が倒爺の「倒」という言葉の意味につながる。だから「ころがし屋」なんていうのはどうかなと思うが、どうも語呂がわるい。

さて北京の倒爺たちに話を戻そう。私自身しょっ中、彼等の被害にあっている。自由市場でスイカや桃をよく買うが、あの天びん棒のハカリでは我々外国人は簡単にだまされてしまう。まあ、こうした「小倒爺」はまだ良しとしても、問題は「大倒爺」、それに彼らを後押ししている背後の存在、それは中国の新聞をよく読むと国営商店や工場企業などの悪質幹部や労働者だというが、これらを問題の源にさかのぼって正さなければ真の解決にはならないだろう。またこの問題は、いま再び声高に叫ばれている「官僚主義」にも密接にかかわることだし、中国社会のかかえる本質的な欠点にもつながる重要な要素を含んでいると思うが、いかがなものか。

倒爺はもうかる品物であればなんにでも手を伸ばすという。汽車の切符、とくに寝台車、外国の人気歌手の公演の入場券、有名メーカーの各種電気製品、有名な酒、たばこ、輸入品、はては自動車などの大物まで色々とあるそうだ。ニセモノを売りつけるケースも多いとか。最近では彼等がグループをつくり、役割を分担して暗躍しているそうだ。グループが市場を支配するケースも見られるという。彼らの市場介入は物価上昇を引き起こし、直接に消費者に損害を与えている。ただでさえ物価問題に神経質になっている北京市民にとってこれは大問題である。そこで政府も本格的な対策に乗り出したのであろう。北京では八月中旬から無許可の個人露天商らを中心に、不正を働いている倒爺の追放キャンペーンが始まり、それがいま全国各地に波及している。

これは当然の措置で、市場の整頓作業はいまの時点で必要なことであろう。ただ市場の活気がこれによって失われてはならない。経済体制改革によって誕生した各種の個体戸(個人営業者)が、これでそののびのびした経済活動を制限されることがあっては逆効果になろう。マスコミもこの点には留意し、個体戸の正当な権利は保護されるべきであることを強調しているのは当然のことだ。中国の国営商店のサービスの悪さは外国人には定評のあるところだが、そのサービスの不備をわずかでも埋めて、国営商店に刺激を与えてサービス改善への必要性を気づかせはじめているのも、一部の個体戸のがんばりによるところが大きい。これら公正な個体戸と、悪質な個体戸、すなわち倒爺とは厳然と区別しなければならない。

北京に二年以上暮らしている外国人の目からみて、年ごとにジワリジワリと広まっている「向銭看(シアンチエンカン)」(すべてお金)の気風と、この倒爺の出現とはやはり無関係とは思えない。また「政策があれば、対策がある」というように、今後も経済体制改革の進行に伴って、その時々の新しい政策のすき間をぬって稼ぐ新型の倒爺たちが出現してこよう。市場経済の活性化の下では、取締り当局と倒爺のイタチごっこは当分続くものと思われる。今後出版される中国の辞書にも、そして外国の中国語辞典にも、「倒爺」が取り上げられるのは間違いないと思うが、いかがなものであろうか。

失ってほしくないもの

北京語言学院留学生 大島光雄

 

あまり人通りの多くない小路を、学校帰りの子供達が駆け抜けて行き、家の前では老人がぼんやりと佇んでいる。道の両側から空を遮ぎるように枝を伸ばす並木。木洩陽(こもれび)の下、路上に撒き散らされた光の粒。そこだけが、まるで時がゆっくりゆっくりと過ぎて行くような気がします。こんな光景は北京の中にあって特別なものでしょうか?いいえ、至る所に見る事ができるはずです。

北京―想いもよらずこんなにも多くの並木道があろうとは……。日本で道の両側に林立するビルを見慣れた私の目には、とても新鮮に映りました。(中略)

このさして広くない市内に数多くの公園があるのも、私のお気に入りの一つです。例えば、頤和園―小高い丘の上に立ち、眺めるその景色は、私を立ち止まらせ、見る度ごとに感動を与えてくれます。

けれどもっと好きなのは、街角の公園。私の学校からさほど遠くない所にも、河沿いに続く公園があります。そこには、これと言った特別な物があるわけでなく、旅行客が訪れる事もありません。あるのは、ただ北京に暮らす人々の憩う姿だけです。日の長くなる夏の宵ともなれば、夕食を終えた人びとが三々五々と集い、日が落ちてなお離れようとしません。駆け回る子供たち、語り合う若者、トランプ、将棋に興ずる老人たち……。その中にぼんやりと佇む私は、まるで幼い頃に帰ったような懷しささえ覚えます。「子供の頃、たしかこんな暮らしがあったはずだ……」。それは都会の生活に慣れた私のただの郷愁ですか?いいえ、ここには人々の安らぎ、温いぬくもりがあるはずです。人の憩う所は都会化していく程見られなくなってしまうのでしょうか……。

現代化に向かい日毎新しい顔を私達の前に現わす北京、街の至る所で建設中の建物を目にします。

明日へと向かうこの北京に、ただ高いだけの“四角いコンクリートの箱”が増えつつあるのも、発展の自然な成り行きとして、否定する事はできません。

けれど、中国には、北京には、それぞれの抱えてきた輝かしい歴史風俗、伝統があるはずです。今、発展中の今、北京図書館のような建物を新たに建てるという事は、北京の将来にとって大きな意義を持つ事でしょう。歴史伝統とは“保存するもの”ではなく、“時代と歩みを共にするもの”だと思います。

経済の発展につれて、日々変わりゆく北京、私はその未来を日本の大都市と比較せずにはいられません。街中の空き地はいつの間にかビルに変り、人びとの憩う場所は減る事はあっても増える事は考えられません。既にある道路に新たに並木を植える事も、たやすい事ではないでしょう。

現代化の道を歩み続ける中国、それは決して平坦な道ではないはずです。その道を歩む過程で、ともすれば置き去りにされてしまうもの―それは自然であり、伝統であり、人々のやすらぎではないでしょうか。

けれど中国は、北京は、それらを決しておざなりにする事なく、大切にしながら歩んで行く事を信じています。

十年後、再び北京を訪れたなら、その変わりようにきっと驚く事でしょう。立ち並ぶビルやアパート、近代化された商店、自転車に替わり車の洪水……。けれどその中で、並木道は今と変わらぬ美しい姿を見せ、人びとは公園に集い、ビルの傍らには伝統的な建物がある―きっとそうである事を心から望んでいます。

北京好(ベイジンハオ)

北京師範大学短期留学生 ルイク·コーウェル(アメリカ)

 

北京に住むことになった私は、さっそく一台の自転車を手に入れた。自転車で市内を走れば、北京を、そして北京人を、よりよく“観察”できるからである。

ある日のこと、“愛車”を駆って市内を“観光”していると、親切な北京人から話しかけられた。家に来い、というのである。さそわれるままに行ってみると、彼は食事をふるまってくれ、私は、食事を共にしながら、彼とあれこれ話しこんだ。外国人を家に呼ぶなど、三年前には考えられなかったことらしい。

中国に行く段になって、私が一番心配したのは、中国の人々と“肌のつきあい”ができるのかどうか、ということだった。私のこの心配は、来てすぐに、とりこし苦労だったことが分かった。私が率直に話しかければ、中国の人々も率直に応えてくれる。客好きで、熱情的で、しかも友好的な中国の人々と触れあうことができたのは、何よりもうれしい。

北京の治安がよいことも、すばらしい。それと、道路の整備がよくおこなわれていて、自転車にはもってこいである。私が住むボストン市では、冬になると、道路はどこも穴だらけで、自転車で走るのは大変だ。この点、北京は立派なものである。

夏の夜には、若者たちが、あるいはギターを弾いたり、あるいは歌をうたったりして夕涼みをしている。アメリカの大都会では考えられないことだ。夜の外出には、きまって危険がともなうからである。

北京の建築物にも心引かれる。最近のビル·ラッシュは、壮観というほかない。多くのアパートが建ち、工事には、いっそうの拍車がかかっている。北京の経済が日に日に栄えていることの何よりの証拠といえるだろう。古い建物の保護も行きとどいているようだ。

せっかくの古都なのだから、そのおもかげを残してほしい。現代化を急ぐあまり、古い建物を壊してしまうとしたら、やはり残念である。英語学習熱を目のあたりにしたことも、よい体験だった。市の西部には、紫竹院という静かな公園があって、そこには「英語コーナー」が設けられている。独学で英語を学ぶ若者たちの自主的な交流の場なのである。そこに足を運んだ英語国人は、多くの若者たちに囲まれてしまうことになる。アメリカ人だと分かると、アメリカ政府のこと、アメリカの歴史や政治の問題など、次から次へと質問されて、二、三時間は議論がつづく。

北京の食事もすばらしい。レストランは、どこも一流の食事を出す。それと、自由市場。これほど多くの自由市場が北京にあったなどとは、中国に来るまでの私には想像もできなかったことだ。

アメリカ人は、中国は貧しいと、ことあるごとに言っているのだけれど、貧しいにしても、決して中国人はその“貧しさ”にうちひしがれてはいない。かえって意気軒昂としている。貧しいにしても、家庭生活は充実しており、部屋はきれいでよく整っている。

ひとたび友人をもてなすとなると、ごちそうの多いこと、多いこと。アメリカ人は、物質的に恵まれていないことで、容易にうちひしがれてしまうが、中国人の多くは、そんなことで心を悩ませることはない。努力しだいで、電気冷蔵庫も電気洗濯機も、ひとつひとつ、必要なものはそろえられることを知っているからだ。こせこせしたところがなく、大ような中国人は、かえって“豊か”だと言ってもいいのである。

 
 
 
 

 

 

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