にぎわう北京の副食品市場
一千万の人口を抱える北京。ここに住む市民の“買い物かご”の中味は?市中心の国営副食品市場でも、静かな裏通りにある自由市場でも、野菜、肉、タマゴ、牛乳、魚なんでもある。“買い物かご”の中は実に豊富になった。価格も安定している。市場にはなごやかなムードが……。
本特集では、この数年来の北京市の副食品生産、市場への供給、家庭の消費状況をさぐってみた。あわせて北京市民のさまざまな食習慣をご紹介する。
(巻頭カラーフォト参照)
主役は白菜
白菜の貯蔵·価格·食べ方
北京市民にとって、白菜は“買い物かご”の中の主役だ。
毎年十一月に入ると、街角におびただしい数の白菜の山が出現する。朝早くから夜遅くまで、リヤカーや自転車などで冬貯蔵用の白菜を運んで行く人の姿が見られる。昨年、市民が購入した白菜は二億六千七百万キロ、一人平身四十三キロ。このほか、工場や学校、機関、団体の食堂、商業部門、産地で貯蔵に回された白菜は三億余キロにおよぶ。交通部門は五千台のトラックを出動させ、日夜白菜の輸送に当たった。
高緯度に位置する北京の気候は寒冷で、無霜期はわずか百五十日。半年にわたる冬、春の季節には、温室栽培ならともかく、露天では野菜は育たない。したがって、白菜は不可欠で主要な野菜というわけだ。
では、そんなに多くの白菜をどのように貯蔵するのだろうか。
平屋の四合院(四角な庭を囲んで四棟建つ住宅)に住む人たちは、白菜を二、三日干して表面の水分が切れたあと、中庭に掘った穴に貯蔵する。アパートの住民は、干した白菜を古新聞で一つひとつ包んで通路の一角に積んで置く。こうすれば水分の蒸発は遅く、ダメになるものは少ない。商業部門や産地では主として穴を掘って貯蔵しているが、白菜自身が放つエチレンが傷みをはやめるため、六〇%近くがダメになる。そこで、北京市野菜研究センターの専門家らは三年の研究を経て、貯蔵穴の改良を行った。その結果、通風をよくし、穴を一定の低温状態に保つことができるようになったので、長期貯蔵が可能となり、この技術が全面的に推し進められるようになったあとは各家が大量に貯蔵する必要性はなくなった。
白菜の値段は安い。昨年のいちばん質の良い一級白菜は一キロ〇·一元(約3円)。子供がアイスキャンデー一本買うお金にもならない。
白菜の食べ方はいろいろだ。炒めもの、あんかけ、煮もの、漬けもの、ギョウザの具、肉だんごスープ、ロール巻き……。親しい友人や一家団らんでヒツジのしゃぶしゃぶを食べる時にも白菜はなくてはならない。
郊外に野菜生産基地建設
市街地六百二十万と流動人口百三十万の人たちが毎日食べる野菜を確保するため、これまで近郊で行われていた野菜栽培はさらに郊外へと広がった。栽培面積も一万三千ヘクタールから二万五千ヘクタールへと拡大。また、ある季節になると野菜が出回らなくなるが、この問題を解決するために、外地から購入するほか、気候が比較的寒冷な山間部に千三百ヘクタールの野菜生産基地が建設された。
私たちは車で南西郊外の盧溝橋郷(村)へ行って見た。一九三七年七月七日の「盧溝橋事変」が起こったところだ。ここは北京郊外でも有名な野菜生産地、全郷約千百ヘクタールの耕地すべてが野菜畑。生産される野菜は、全市に出回る野菜の一割を占める。
私たちが取材に訪れたのは、冬のまっさかり。大小のビニールハウスが整然と並び、壮観だった。ハウスの中は春のような暖かさで、青々としたセロリーや油菜は静まり返った厳冬ではことのほか愛らしい。
盧溝橋郷農工商連合総公司の郭兆明副総経理に話を聞いた。
それによると、ここでは後漢(五代十国の一つ、九四七~九五〇年)の時代から多くの農家が野菜栽培で生計を立てていた。明清時代(一三六八~一九一一年)には、宮廷が使う野葉の生産地となる。そして七〇年代までは、三月から十月までしか露地栽培ができず、しかも生産するのは白菜、大根、キュウリ、ナスといったごくごく普通の野菜だけだった。秋の収穫が終わると、翌年の四月まで畑は丸はだか。土を利用しての温室栽培は行われていたが、それも規模は小さく、冬の間に全郷で二十キロぐらいのキュウリが生産できるのはごくごくまれだった。
表1(1キロの価格)
セロリー | 0.3(約9円) |
キュウリ | 1.2(約36円) |
ニンニクの茎 | 1.8(約54円) |
カリフラワー | 1.2(約36円) |
ニラ | 2.0(約60円) |
ナス | 1.8(約54円) |
七〇年代以降、とくにこの数年で温室栽培面積は三百五十ヘクタールまで拡大し、全野菜畑の三分の一を占める。この結果、いつの季節でも野菜ができるようになった。優良品種を使い、先進的な栽培技術や科学的管理が導入されたおかげで、ここでは一年に一ヘクタール平均七万五千キロの野菜を供給することができるようになり、品種も百二十種以上まで増えた。
一年を通じて野菜が市場に
盧溝橋郷の発展は、北京郊外における野菜生産発展の一つの縮図と言っていい。それが市場へも反映し、野菜の数量は充足し、品種も絶えず増え続けている。
数年前では、私も同僚も野菜を買うのは頭の痛い問題だった。今は、退社の途中に自由市場を一回りしさえすれば、夕飯の野菜はすべて買いそろえることができる。とくに今年の春は、毎日新鮮な野菜が十~二十種ほど市場に運ばれてきて、値段もこの数年のうちでいちばん安い。
(表1参照)
中日共同で野菜栽培
私たちは、盧溝橋郷と日本のミカド、三菱三者共同の中日野菜試験農場を見学した。敷地面積は四ヘクタール、設備はすべて日本側から提供された。広々としたビニールハウスには日本のセロリーやイチゴ、はつか大根、ブロッコリーなど珍しい野菜や果物が栽培されていた。
私たちはまた、昨年の十一月十一日にオープンした中日共同野菜研究センターも見た。ここには育種、繁殖、試験から保存に至るまでの一貫した近代的研究設備が整っている。ここでは、内外の珍しい野菜百種類以上が栽培されていた。これらはきっと北京市民の“買い物かご”の中を豊かにしてくれるだろう。
表2(1キロの価格)
皮付き後足のももの肉 | 5.60元(約168円) |
皮無し後足のももの肉 | 5.76元(約173円) |
皮付き前足のももの肉 | 5.20元(約156円) |
皮無し前足のももの肉 | 5.36元(約161円) |
皮付き胸の部分の肉 | 3.80元(約114円) |
皮無し胸の部分の肉 | 3.90元(約117円) |
“肉料理メニュー”
豚肉の価格
統計によると、昨年市場に出された肉類は市民一人平均二十八キロ、そのうち豚肉が二十五キロで九〇%を占める。残りの一〇%は牛肉と羊の肉。このことから、北京市民の“買か物かご”のもう一つの主役は豚肉、だと言うことができる。豚肉は部位ごとに売られ、しかも値段は違う。また皮付き、皮無しのものでも値段は異なる。(表2参照)
料理の種類
表から見ると、皮無し後足のももの肉がいちばん良く、値段も高い。だが、皮付きの肉でも「紅焼肉」(砂糖、しょう油を加えていためたもの)はうまくて口あたりが良く、しかもコロイドを多く含んでいるので人体の骨格の成長にプラス。
「肉絲炒葱頭」(肉のせん切りとタマネギをいためたもの)、「炒肉片」(薄切りの肉いため)、「糖醋肉片」(薄切り肉の甘酢いため)、「軟溜肉片」(薄切り肉のあんかけ)、「辣子肉丁」(角切り肉のからしいため)、「醤爆肉丁」(角切り肉のみそいため)、「木樨肉」(タマゴと肉などのいためもの)、「扣肉」(蒸してかけ汁をかけたもの)、これらはどれも北京風味の大衆料理だ。
北京の人は水ギョウザが大の好物。いろいろな具を作るが、いちばんポピュラーなのが豚肉と白菜。そのため、北京の副食品店の肉売り場では、朝から夕方まで具に用いるひき肉を売っている。日曜や祭日は、とりわけ売れ行きがいい。便利なので、肉ひき機を備えている家庭もある。
中国では、豚や牛、羊の心臓、肝臓、肺、胃、腎臓、腸など家畜の内臓を「下水」と呼んでいる。また、「臓で臓を強くする」とも言う。明代の薬学者李時珍の大書『本草綱目』には「胃で胃を治し、心臓で心臓に帰り、血で血をめぐらし、骨で骨に入り、髄で髄を補い、皮で皮膚を治す」とある。中国人が二千年以上前の漢代から「下水」を好んで食べていたことが分かる。
内臓は、独特の風味のある料理や前菜を数多く作ることができる。ひとつ味わってみてはいかがか。
“豚肉の危機”
北京の全市民が食べる豚肉は一日六十万キロ、約一万頭に相当する。
過去、北京の市場に出回る豚肉の七〇%は外地で調達したものだった。八七年の下半期、豚肉の供給が全国的にひっ迫したことがある。そのため、多くの大都市では長年実施していた配給制を廃止したばかりだったのに、またそれを実施せざるを得なくなった。北京の冷凍庫には正常の三分の一、二ケ月分の供給量しか手持ちがない。
では、どう対処したのか。北京市食品公司豚肉経理部の購入相当者は、夜を日に継いで四川、江蘇、湖南、安徽、陝西、河南などの省(県に相当)を歩き回ったが、ダメ。そこで、全市の農·商業を主管する黄超副市長自ら乗り出し、南方の省に応援を求めた。その結果、ようやく豚肉を購入することができた。だが、価格は以前の二·五倍。それでも市民には元の値段で供給、損失は市の財政で補った。
「遠くにある水では、近間の渇きをいやすことはできない」。今回の“豚肉の危機”を教訓に、八八年、北京市政府は郊外の農村各家に養豚を奨励するとともに、養豚の大規模な発展に力を尽くし、市所有の近代的な豚生産基地を建設することを決定した。その後、政府は毎月一回養豚会議を開催して計画実施状況を把握。こうして二年の努力を経て、昨年末に雌の親豚百頭を有し、年に千五百頭以上の商品用豚を生産できる養豚場が全市千二百七カ所に完成した。今年は二百万頭の購入が期待でき、北京市の豚肉の自給率は以前の三〇%から六〇%まで伸びるはずだ。
陳各荘養豚場を見学
東郊外の順義県にある養豚場へ見学に行った。道すがら私が頭に浮かべたのは、農村のほこりっぽい道や畑のあちこちを走り回り、至る所にふんや尿がちらばる農家の昔の養豚風景だった。だが、この県の木林郷陳各莊養豚場を見て私はびっくりした。
この養豚場は現在、雌の親豚三百頭を持ち、年間四千五百頭の商品用豚を生産している。白衣に白い帽子をかぶって、出産室、子豚飼育室、一般飼育室、妊娠雌豚室などを見て回った。
出産室には、長さ二·一メートル、幅一·七メトル、高さ三五センチのベッドが整然といくつも並んでいた。ベッドには何匹もの生まれたばかりの子豚が横になり、チューチューと音を立てて“母親”の乳を吸っている。
丁場長の話によると、昔は親豚に草むらで子を産ませていて、非常に非衛生的だった。のち、中国農業科学院牧畜研究所の李炳坦教授の指導を受け、試験的にベッドの上で産ませてみたところ、子豚の生存率は九五%まで伸びたという。
乳離れした子豚は子豚専用の飼育室に送られ、囲いの中で育てられる。囲いの一端には自動的にエサを与えられる箱が据え付けられ、もう一方の端にはやはり自動化された飲水器がある。ふんはセメントでできた床の穴を通って地下に落ちていくので、真っ白な子豚は汚れにまみれることなく生長できる。三十五日を過ぎると、二十五キロ前後まで育った子豚は、さらに太らせるために一般の飼育室に送られる。この飼育室の床の半分はセメントで固めてあり、もう半分は穴のあるセメントの床。やはり自動的にエサや水を与えられる装置が付いていた。ここで百日飼育して九〇から九五キロになると、売りに出す。
丁場長の話によれば、昔の農家の養豚と言えば、市場に行って子豚を買ってきて育てる、というものだったらしい。エサは残飯や野菜の固い部分、それに草を煮たものに過ぎなかった。病気の予防や治療に至っては、言うまでもない。
今では、豚は原産地ものと他の土地や外国からの豚を交配させた優良品種で、飼育も順調で肉質も良い。飼料も工場が豚の生長·発育の必要性に応じて配合したもので、栄養価は高い。
雌の親豚は出産する時に予防注射を受け、産後も何回も予防接種を続けるので病気は少ない。以前は売りに出すまで一年要したが、今はわずか百七十日、その分だけ市場に出回る豚の数は増えた。
消費者のニーズは肉の赤身の部分。そこで陳各荘もそうだが、北京市の養豚場はみな赤身の肉の多い豚を生産している。植物油の供給が不足していた時代には、市民は争って脂身を買ったが、今では身向きもされない。
市場の赤身の精肉は一キロ八元(約二百四十円)もするが、それでも人気がある。
「華都」印の鶏肉
養豚とともに、鶏肉の近代的生産も活発になってきた。そこで私たちは、中国でいちばん古い北京鶏肉生産連営公司を取材した。
北郊外の昌平県にあるこの公司は二つのヒナ生産工場、それに肉用養鶏場、孵化工場、飼料配合工場、オートメーションの鶏肉加工工場がそれぞれ一つずつある。八八年十一月には、アメリカのヒナ生産企業と三井物産と共同で家禽育種有限公司を設立、先端技術と管理方法を導入することができた。同公司生産の「華都」印の鶏肉は舌ざわりがなめらかで美味だが、今のところコストが高いため一キロ約八元(二百四十円)、人気はあるが豚肉ほど売れていない。
タマゴは日常品
タマゴにまつわる習俗
中国人にとって、タマゴは昔も今も高級な栄養食品だ。
小さいころは家が貧しいため、遠足や祭日の時だけしか私の母はゆでタマゴを作ってくれなかった。その時のうれしかったこと。大切な客がくると、「荷包蛋」(タマゴを割って熱湯でゆでたもの)を作るが、これは最高のもてなしだった。
五月の端午の節句になると、ちまきを食べるほかに、江南や北方の農村の子供たちは色のついた糸で小さな袋をあみ、その中にタマゴを入れて首に掛け、夕方になるとそれを食べる習慣がある。また江南地区では娘を嫁に出す時、赤く染めたタマゴをたくさん作って嫁入り道具といっしょに嫁ぎ先に持って行く。同時に親しい友人や親戚、近所にくばって慶事を祝う。子供が早く生まれるよう縁起をかつぐ意味もある。
結婚後、新郎が初めて新婦の家を訪ねる場合、新婦の母は「荷包蛋」をゆでて歓迎の意を表す習わしがある。妻である自分の娘や他の人の分はない。これは北方でも同じだ。お産の床についている一カ月間は、特別な栄養食品として毎日タマゴを食べることができる。見舞いにくる娘の母が持ってくるものも、タマゴ、なつめ、黒砂糖、あわといった滋養分のある食べ物。もし男の子が生まれると、しゅうとめは喜んで赤いタマゴを煮て隣近所にくばる。祝ってもらうためだが、もらった人も赤いタマゴをたいへん縁起のいいものだと考えている。ところが、女の子が生まれると、しゅうとめはがっかりして声も出さず、赤いタマゴは作らない。これは男尊女卑の古い習慣だが、そこからタマゴの“身分”がどのようなものか知ることができるだろう。
北京におけるタマゴの供給は、七〇年代までずっとひっ迫した状態にあった。各家が毎月配給手帳で買えるのは一キロ、一日平均一個にも満たず、子供だけに食べさせても足りないありさまで、大人は口にすることもできなかった。しかも、そのころのタマゴはすべて冷凍もの。お客に損を掛けないため、売る方は、カウンターに照明箱を置いて変質していないか調べたあとで売っていた。
では、どうしてこのように供給がひっ迫していたのか。答えは簡単で、生産が限られていたからだ。長年、中国のタマゴ生産は、数羽のめんどりを飼ってタマゴを生ませ、それを街で売る農村の婦人や老婆にたよっていた。そのため、農民を動員して養鶏にどんなに力を入れても、一年に北京郊外から買い入れられるタマゴは五百万キロしかならない。だから、供給は主として外地からの購入にたよらざるを得ない。それも、各家から少ししか買うことができず、量的に限界がある。しかも長距離輸送の間にこわれるだけでなく、鮮度も落ちる。いわゆる“タマゴ難”は、市長や国の指導者の一大関心事となった。
七五年、鄧小平氏は周総理が担当する中央の仕事に携わった際、大·中都市と工·鉱業企業の副食品供給問題を解決するには近代的な養豚場、養鶏場を造る必要がある、と提唱した。
その後、十年の苦しい歳月を経て、北京に相次いで近代的な国営および集団養鶏場が約九百誕生、郊外はタマゴ生産基地に生まれ変わった。これで、一年を通して安定生産、安定供給ができるようになり、消費者のニーズに答えられることになった。
八九年に出回ったタマゴは二億キロ、一人平均三十キロ近く消費したことになる。
現在、郊外で生産されるタマゴは市民の消費需要を大きく上回っている。だが、地方ごとの価格差を利用しての外地での高値売りを防止するため、今でも配給票による数量限定供給を実施している。一カ月に各家庭二·五キロ、値段は殼が白いタマゴが一キロ三·八元(約百十四円)、茶色のものは一キロ四元(約百二十円)。限定数量以上に必要な時は、自由市場でも買える。だが、値段は前者が〇·四元(約十二円)、後者が〇·五元(約十五円)ずつ高い。
人気のある「煎餅餜子」
「今はみんなタマゴが食べられるようになった、子供も、大人も……」偶然出会ったおばあさんがうれしそうにこう言った。
確かに、北京の食卓ではタマゴは珍しくなくなった。食べ方は、茶碗蒸し、いためもの、肉入りタマゴ巻き、ギョウザの皮など。最近、大通りや裏通り、地下鉄の駅入口で「煎餅餜子」を売る屋台の店が出現するようになった。自転車の後ろに取り
付けられた特製の屋台は大きなガラスで囲まれ、小さなかまがあって、その上に直径四十センチほどの鉄板が置かれている。トウモロコシをつぶして水で粘ったものを竹ベラで薄くのばし、その中にタマゴを落とし、さらに甘みそ、細かく切ったネギ、「油条」(うどん粉を練り、細長くして油で揚げたもの)を入れ、そのあと裏返して数分で食べられるのが「煎餅餜子」。天津の名物だ。二〇年代、天津で勉学にはげんでいた周恩来総理も好んで食べたという。
“牛乳難”は解決
居民委員会で予約
毎月二十四日になると、弊社の宿舎がある花園村の居民委員会(都市住民の自治組織)から、翌月に牛乳を購入する人は代金を支払うよう、との通知が出される。一ビン二百五十グラムにつき〇·二二元(約六·六円)、そして月に〇·二元(約六円)の手数料がかかる。昼に牛乳公司がトラックで牛乳を運んできて、午後二時半から六時までの間に牛乳受け取り証を持って取りに行く。
北京市牛乳公司の王作青副経理によると、毎月牛乳を予約しているのは六十万戸、一日の消費量は十八万四千キロだという。このほか、商店で売られている牛乳は二十五万余キロ。ビン入りのほかにもパック入りもあり、長期間の貯蔵が可能だ。よく消毒されているので直接飲んでもかまわないが、北京の人は冷たい牛乳を飲む習慣がないので、暖かくしてから飲む。
冷たい飲み物としてヨーグルトもある。今の若い人や子供は、冬でも夏でもヨーグルトを飲むのが好きだ。ヨーグルトの消費量は日益しに上昇しており、現在、一日に出回るヨーグルトは十二万五千キロ。
北京市民が一日に消費する牛乳、ヨーグルト、粉ミルク、麦乳、チーズ、バター、アイスクリームなどの乳製品は合わせて五十五万キロ。年間一人平均にすると三十一キロで、消費量は全国の大都市の中でもトップクラスにある。
これも北京市が牛乳生産に力を尽くした結果だ。
乳牛飼育基地を建設
八〇年以降、北京はベビーブームに突入し、新生児の牛乳需要は急激に増えた。そのため、供給が需要に追い付かなくなった。そこで、嬰児、病人、老人、外人客の飲用を確保するために配給制を実施せざるを得なくなり、数量を限定して供給することになった。その結果、牛乳公司には供給を増やすようにとの投書が殺到。新聞やテレビ、ラジオも、また人民代表大会の代表も連名で、政府に首都の“牛乳難”を即刻解決するよう何度も呼びかけた。
八二年、市政府に乳業指導グループが設立され、市農場局が統一管理していた全市の乳業の責任を負うことになった。これによって、生産、加工、販売の一体化が実現した。財政が比較的厳しい状況の中、一億二千万元(約三十六億円)を投資して、七つの乳牛飼育基地が建設された。乳牛の頭数は七八年の二万頭足らずから現在までに六万頭となり、乳量も五千万キロから二億キロまで増えている。
市農場局所属の北郊農場は第四飼育場で千三百頭余の乳牛を飼っており、中国とオランダの牛をかけ合わせた優良品種。また科学的飼育法を導入した結果、八九年の一頭当たりの乳量は八千五百二十キロまで伸びている。
ここで働く人たちの実質労働は八時間だが、勤務時間は朝七時から十時、午後二時から五時、夜九時から十一時と、まる一日拘束されている。初めて知ったことだった。だから、娯楽を楽しむ時間はほとんどなく、仕事はたいへんきつい。
国連食糧農業機関は八四年から昨年まで毎年、北京市に一万六千トンの粉ミルクと五千六百トンの乾燥バターの支援を実施してきたが、これによって北京市民の“牛乳難”はかなり緩和されたと言っていい。
毎日魚が…
魚は不可欠
「無魚不成席」。魚が無ければ宴にならず、と言われるように、盛大な国の宴会から和やかな家庭の食事まで魚は欠くことはできない。
だが正直に言えば、北京の人は魚については結構保守的だ。二十年以上前になるが、“魚と米の古里”である江南から北京に移り住んで私は初めて知ったのだが、彼らがタチウオとイシモチ以外の魚はあまり好まないのに気づいた。
例えば、私の故郷の人は誰でもフグが好物だが、北京の魚屋では毒魚として食べないように貼り紙を出している。フグは、子豚の肉のように美味なので「河豚」と呼ばれている。皮膚は粗雑で太鼓腹、目は飛び出しておせじにも美しいとは言えないが、まさしく珍味だ。宋代の文豪蘇東坡が揚州で太守の職に就いていた時、彼はたいへんフグを好んだ。数人の友人とフグの美味について話していると、みんなは口々にフグを称賛。そこで蘇東坡が「その味は、死んでも価値があるほどうまい」と言ったところ、「命をかけてフグを食べる」というふうに広がった。恐らく、北京の人はこの言葉に驚いたのだろう。フグに毒があるのは確かだ。だが、その毒は精のう、卵そう、肝臓と血液の中にあり、純白の肉の部分は無毒でこのうえなく美味である。料理法を知っている人が作れば安全なのだ。
タイは、もっと高級な魚。北京の人はきっと見たことがないだろうし、見たとしても雑魚として一顧だにしないだろう。
話を元に戻すが、北京は海に面しておらず、また大きな河や湖もないので淡水魚の養殖は皆無と言っていい。
歴史的に見ても、皇室で食する魚は南方から夜を日に継いで献上品として馬で運ばれてきたが、庶民が口にするのはめったにない。だから、北京の人は魚に関しては素人なのだ。
増える魚の消費量
時代の進歩と生活水準の向上とともに、市民の魚への需要は日益しに大きくなっている。だが、また国の漁獲能力にも限界がある。七三年に始まった淡水魚養殖はパッとせず、七七年の全市の生産高はわずか百三十万キロ、当時の人口を五百万として計算すると一人平均二百六十グラムしかない。需要を満たすとはとても言えなかった。そのころの春節、その数日前に寒風の中を魚を買うためにできた長い行列、その光景を思い出すとやり切れなさを感じる。
野菜、肉、タマゴ、牛乳と同様、北京市政府はこうした状況を改善する決心を下した。七九年から、郊外に淡水魚養殖業を積極的に発展させるための強力な措置を講じ始めた。ダムでの養殖面積拡大のほか、湖沼や古い河道を利用しての商品魚生産基地を建設。水資源を節約し、単位面積当たりの生産量を高めるため、いけすによる養殖を積極的に推し広めた。そして十年の努力の結果、全市の養殖面積は従来の二千ヘクタールから六千七百余ヘクタールまで拡大。この十年で、生産高は毎年五百万キロずつ増えている。
現在、西単、東単、崇文門、朝陽門内の四大副食品市場から横町の自由市場まで、一年を通して活きた魚をいつでも売っている。コイ、シタメ、マトダイなど自由に選べる。値段も下降気味だ。また輸入のアフリカフナもあるが、出産後や手術後の人はやはり中国産のフナで作ったスープを好むようだ。中国のフナは生長が比較的遅いが、肉は口あたりが良く、たんぱく質を多く含んでいる。そのスープは牛乳のように白く、産後や病人の健康回復に効き目がある。
この数年、浜辺を利用しての養殖も盛んだ。そのため、天津からクルマエビを汽車やバスに乗って北京に運んでくる個人業者が多くなってきた。商才あると全国的に知られる寧波の人たちも、はるばる北京にやってきては当地で材料を得、地元名物の魚だんごスープを作って売っているほどだ。外国人にも人気があるという。
北京にもウナギが…
驚いたのは、北京でもウナギを養殖していたことだった。
北東郊外の小湯山療養地区に小湯山水産養殖場がある。敷地面積二六·六ヘクタール、養殖面積は十七ヘクタール。七七年の開場以来、豊富な地熱水を利用して稚魚を育てており、北京および北方最大の稚魚飼育基地だ。市場のニーズに答えるため、八八年五月から気候温暖な江蘇省からウナギの稚魚を購入、養殖に成功している。
ウナギの肉はなめらかでうまい。たんぱく質が豊富なので関節炎の予防·治療に良く、健康増進にも効果がある。数年前、長野県のある印刷工場を訪問した時、昼食にカバ焼きをご馳走になった。作りが細やかで、味もいい。だがウナギの食べ方は、私の故郷ではいろいろある。「紅焼」、あるいは日干しにして植物油、しょうが、ネギ、酒、とうがらしを加えて蒸したりと、いろいろある。それぞれに独特の風味を持つ。一度作ってみてはいかがか。