変貌する大上海
上海は、西太平洋の主要港湾都市の一つであり、その発達した金融、商工業と科学技術水準は世人の注目するところだ。
上海はまた中国最大の経済の中心で、新中国成立四十余年らい、国民総生産は、中国各省、直轄市、自治区の首位にあり、国家の財政収入に対する貢献も最大だ。一九八〇年代の十年間の、上海市の財政収入は二千四百三十一億元で、そのうち千七百三十七億元を国庫に納入した。これは国家財政収入の八·八%を占めている。
発達した上海の経済は、長江流域の経済発展の促進役にもなっている。
一九八〇年代に入って、上海の改造と振興は安定した歩みを始めた。宝山鉄鋼コンビナート、金山石油化学コンビナートをはじめ、サンタナ乗用車、永新カラーブラウン管、益昌冷間圧延薄板など大型工業の建設が始まり、経済の発展に新たな基礎を提供した。
しかし、上海の市街地区には、工場用地、交通、住宅、都市汚染などの問題が山積している。そこで、黄浦江東岸の浦東地区の開発が打ち出された。
いま、千三百万上海市民は、上海振興、浦東開発の歩みを進め、新しい世紀に向かって、外向型の、多くの機能を持つ国際都市上海を建設しつつある。
浦東の開発が始まった
上海では、どこへ行っても浦東開発の話でもちきりだ。黄浦江の西岸でなら、ベッド一つでもがまんするが、東岸の浦東地区なんて、どんな広い家でもごめんだ、と昔よくいったことなど、もう誰もが忘れている。
開発を待つ宝の地
上海市内を流れる黄浦江は、上海を浦東と浦西に大きく分けている。一八四二年、帝国主義諸国の砲艦が、中国の国門を破り、清朝政府に、不平等条約の第一号となった「南京条約」の調印を迫って、上海は強いられて国際商港となった。その後、百年余りのあいだ上海の建設は浦西に偏り、浦東は、いなかとみなされるようになった。
一九四九年、新中国成立後、浦東には千九百余の工場ができ、四十万人が就業している。石油化学、冶金、造船、建材、機械などの各工業が発展し、交通や公共施設、社会事業も基本的に整った。ただ、浦東の経済と社会生活は、高層ビルが林立し車の流れが絶えない浦西とは比べものにならない。
浦東は、長江にも面しているので地理的位置がすぐれている。広大な地域だし、潜在力は大きいので、上海にとっては、新開発のための宝の地なのだ。一九九〇年四月、李鵬総理は、浦東の開発と、浦東の開放を内外に宣言、上海の前進の歩みは東へ向かった。
新しい投資ポイント
浦東大道にある二階建てのオフィスビルで、新任の浦東開発弁公室主任の夏克強さんが筆者にいった。
「いまの浦東は魅力に富む新しい投資ポイントになっています」
今年五月、上海杜邦(デュポン)農業化学が、浦東の外高橋で定礎式をした。浦東開発第一号の大型合資企業で、総投資額は二千五百万ドル、年産一〇〇トンの除草剤を生産する予定で、年内にテスト操業が始まるそうだ。
今年四月、日本の八百伴と上海財貿弁公室が、覚書きに調印し、双方が一億ドルを共同投資して、浦東新区の張楊路に、多くの機能をもつ総合的な大ショッピングセンターを作ることになった。
浦東の開発が始まって一年余りの間に、中外合弁経営、中外合作経営、外商独立経営の企業が、十年前の三十七から百三十五に増えた。協議の成立した各項目の投資総額は四億二千万ドル、そのうち外国からの投資が一億七千万ドルで四割を占めている。
目下協議中の項目が二百二十、すでに具体案を提出し許可されたものが九十項目になっている。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、カナダ、オーストラリア、タイ、シンガポール、香港、澳門(マカオ)、台湾などから投資の意向が約三十六億ドルあり、大部分は工業方面への投資だ。
注目の開発小区
浦東の陸家嘴は、黄浦江を隔てて外灘(バンド)と向かい合っている。ここは、やがて浦東新区の金融の中心地になる区域で、幹線道路も完成している。
上海の繁華街南京路のしにせが何軒もここに支店を出したし、十いくつの金融機関がもう営業を始めている。四五〇メートルのテレビ塔も建設される。
開発が始まったばかりだが、もう金融、商業区らしい特色がはっきりしている。あと何年かすれば、ここは浦西の外灘のような繁華な場所になるだろう。
浦東新区の、中部と東北部の金橋輸出加工区、外高橋保税区は、まだそれらしいかたちを見せてはいない。まだところどころに農地もある。だが、これは最後の作付けで、もう敷地の割り当ては完了している。
金橋開発公司だけでも約三百の内外投資家から話があり、すでに第一回の投資対象として十いくつの企業が選ばれている。
金橋輸出加工区に建設されるのは、高度科学技術、高収益で、輸出向け製品を主とする、中外合弁、中外合作、外商独立経営の企業だ。
外高橋保税区は、長江の河口に接しているので、やがて中国では最大に開放された自由港に発展するだろう。近く四つの深水埠頭、新港区、保税倉庫、トランジット貿易と輸出加工区が設けられる。
日本の丸紅、三井、伊藤忠などの商社もここに注目し、区内に貿易会社を開くことを申請している。
香港の劉浩清氏ら著名な事業家は、三千万ドルの資金を集めて、区内に保管、加工用の大センターを建設することになっている。
陸家嘴金融貿易区、金橋輸出加工区、外高橋保税区、この三つの開発小区はいま最も注目されている場所だ。小区では、水、電力、ガス、汚水の総合処理などの工事が全面的に始まっている。浦東開発の交通施設も、建設が進んでいる。
交通施設の建設
以前、浦西から浦東に行くには船しかなかった。十五分に一度出るのだが、ラッシュ時には待ち時間が長くなるし、天候の影響も受けるしで、めんどうだった。
いまは、上海市の中心、延安東路からバスで黄浦江のトンネルを通って、十五分で浦東大道に着く。
このトンネルは、一九八八年末に開通した全長二二六一メートルの延安東路トンネルだ。それに一九七〇年代に開通している打浦路トンネルと併せて、たしかに両岸の往来の混雑が一度は緩和された。
しかし、経済の発展に伴い、交通量は増加の一方で、毎日二万台以上の自動車と、のべ百万人以上の人は、やはり船を利用しなければならない。この分は、黄浦江を渡る十いくつの客船の航路と五つのフェリーの航路に頼っている。
一九八八年十二月に着工した南浦大橋が、今年末に開通するが、そうすると一日にのべ五万台の車が通れる。七分間で黄浦江を渡れるようになる。これは、市街地区に始めて架けられた橋だ。
市街地区の第二の橋は、楊浦大橋で、すでに着工していて、一九九三年末に開通の予定だ。
この二つの大橋は、浦東と浦西の路面交通をつなぐもので、浦東側の浦東南路と、浦西側の高速自動車道路が一体となって、黄浦江をまたぐ第一環状道路(内環路)が、やがて実現する。幅三四メートルの浦東南路の建設も始まっている。
また、第二環状道路(外環路)として、浦東地区を南北に貫通する主要幹線道路の楊高路は、いま道幅の拡張と路線の変更が行われている。これも、一九九三年に完成の予定だ。
外高橋新港区には、四つの万トン級の埠頭が岸に並列して建設されるが、すでに七月に着工し、一九九三年に完成予定だ。そのときには、年間二四〇万トンの呑吐能力が新たに増えることになる。
電話は、この一年間に、三つの支局が開設された。容量は三、四万通話。一九九五年には、さらに五万から十万の電話が増設される。
陸家嘴金融貿易区の東昌路にある中国銀行浦東支店は、今年五月に開業したばかりの、外国為替専門銀行で、営業は多忙だ。これから二年間、浦東のインフラ整備のために、毎年一億ドルの貸し付けをする。香港、澳門(マカオ)の中国銀行グループは、加工輸出企業を支持するために、対外貿易短期運転資金として毎年二億ドルを提供する。
陸家嘴金融貿易区内の、もう一つの銀行は建設銀行浦東支店で、去年九月に開業した。すでに、高橋化学工業公司のために、アメリカと日本の政府銀行から優遇利率で、比較的長期の輸出借款三千二百余万ドルを受けている。また、工商銀行、交通銀行の浦東支店と連携して、銀行集団による貸し付け方式を採用し、すでに着工している楊浦大橋に、三億五千万元を提供した。
このほか、人民銀行、工商銀行、農業銀行、中国人民保険公司など八つの金融機関も、つぎつぎにここに機構を開設して営業を始め、それぞれ浦東の開発に力を入れている。
今年三月に、中国人民銀行は、アメリカのインターナショナル·バンキング·コポレーション、日本の興業銀行と三和銀行、フランスのクレディ·リヨネなどの各銀行が、上海に支店を開設する申請を受理した。これにつづいて最近また日本の東京銀行の支店開設も許可された。
こういう銀行は、銀行の規模も、国際金融界への影響も大きく、中国ことに上海との関係が密接だ。
アメリカのインターナショナル·バンキング·コポレーション上海支店はすでに上海聯誼大廈で開業した。
ほかにも、支店の開設を申請中の外資銀行が二十以上ある。
こういう金融機構は、開業後は、外貨による預金と貸し付け、投資、担保、結算、有価証券売買などの業務を行う。
浦東の開発は、つぎの世紀にまたがる長期のもので、ぼう大な資金が必要だ。一年もしない間に、こんなに多くの内外金融機構が出現したので、上海、ことに浦東の融資環境が大いに発展した。外国では、上海は「金融年」を迎えたと報道している。
(本誌·陳肇莘)
証券市場に世界が注目
中国初の証券取引所
ドラが一つ鳴って、上海の金融街、外灘にある「上海証券交易所」が今日の営業を開始した。
この取引所の大フロアには、コンピューターによる大表示装置があり、刻々と取り引きのもようが出る。赤いベストの取引所会員が、めいめいのブースのコンピューターを操作して、黄色いベストの取引所の職員に値段を知らせたり、電話で委託人からの問い合わせに答えたりしている。
ここでは、全部がコンピューターによる取り引きなので、繁忙だけれど整然としている。昔の上海の取引所のような騒がしさも混乱もない。
まもなく赤い字で、「豫園(よえん)商場」と出た。値段は一一三四·四元となっていた。
この取引所は、一九九〇年十二月十九日に開業し、現在八種類の株式と、二十六種類の国債、金融債券、企業債券を扱っている。開業半年あまりで、三十五億元の取り引きが成立している。
「上海証券交易所」のフロアには、四十六のブースがあり、目下、二十五の法人会員が交易所のメンバーとして、二十八の席を占めている。そのうちの九会員は、山東省、江西省、安徽省、浙江省、海南省、北京市、瀋陽市などの金融機構である。交易所は、中国人民銀行の上海支店が管理し、個人会員は認めていない。交易所は営利を目的としない「事業(シーイエ)法人」なのだ。
次第に規範化へ
上海はかつて中国と極東の金融の中心だった。一八六九年、中国に最初の株式売買が出現したのは上海だが、当時のは外国の株だった。
一九二〇年、上海に「物品証券交易所」ができたが、のちに「上海華商証券交易所」に合併された。旧時、上海で暮らしていた人の多くは「交易所」に強い印象を持っている。
証券取引所が中国で姿を消してから四十年のあと、また上海に出現したことは、内外の金融経済界の人びとから注目されている。
だが、その出現は偶然ではない。一九八〇年から中国の経済改革と対外開放が始まり、それが発展するにつれて、上海の金融界の人びとは、証券市場を開いて上海の金融業を活性化し、企業資金の調達と融通をはかるべきだと考えはじめた。それで、一九八四年、中国工商銀行上海支店証券交易部が、西康路一〇一号に看板を出して営業を始めた。その年、上海飛楽音響公司の代理をして、広く一般に向けて株式四十万元を発行し、三十余年の中断後にはじめて回復した証券発行市場の第一号となった。
一九八六年、ここにさらに上のクラスの市場が設けられた。これは全中国ではじめての、証券売買ができる市場だ。その後、ここの証券市場は次第に正規のものとして整い、活発な取り引きが行われている。
当初は、単なる証券交易部だったのが、発展して「申銀証券公司」となり、その下に十の証券取り引き店を持っている。これは上海最大の株式発行、流通の市場であり、管理機構である。また、上海の重要な国債市場の一つでもあり、毎日熱心な投資者でいっぱいだ。
申銀のほかにも、上海海通証券公司、万国証券公司などが、つぎつぎに成立し、その下に五十余の証券取り引き店と代理店を擁している。
このような証券公司は数年らい上海の二千七百余企業のために、債券、株式を四十五億元発行したほか、国債の発行を代理し、総額は百億元を超えている。
このような証券公司はみな、上海証券交易所の会員であり、交易所成立の基礎を築いたが、いまはまた、国際的に通用する形式を採用して、証券による資金集めをし、上海の振興と、浦東の開発に尽くしている。
暴騰や暴落はない
上海証券交易所は、月曜から金曜まで毎日午前と午後に立会いが行われる。前場は九時半から十一時、後場は一時半から三時、法定の休日は休み。
証券交易所の開業から現在まで、「豫園商場」の株式がずっと堅調で、開業当時は四七〇·七元だったのが、現在では一一三四·四元になっている。浙江蘭渓化工公司が上海で発行した株式も、上場以来ずっと堅調だ。
だが、こういう人気のある株でも暴騰を招くということはない。規定によって、証券売買の毎日の値上り幅は、前日の終り値の何%ときまっているからだ。開業当時は五%だったが、いまは一%に調整されている。
目下、株式は不足気味で、株はおおむね上がっている。だが、延中実業公司など四つの公司の株は下がった。といっても、下げ幅は一%未満だ。それで、一夜のうちに大金持ちになったり破産したりというようなことは起きない。
上海証券交易所は、すべて現物取引に限っている。先物取引はしない。カラ売買は禁止で、株の売買は必ず場内で行わなければならない。売買が成立すると交易所が規定に従って名義の書き換えをする。それで不正な取り引きは抑制されている。
現在、上海証券交易所は、毎日、当日の株価指数を公開発表しているので、投資者の分析と選択に役立っている。
証券市場の対外開放
上海証券交易所の前には、毎日大勢の市民の列ができる。「股票帳号」(株券口座番号)というのを受け取るためだ。受け取ったら、つぎに任意の証券会社を選んで、この番号で口座を開く。するとその口座番号はコンピューターに入り、これでこの市民と証券会社のあいだに委託が成立する。
交易所は個人会員を認めないが、証券会社を通じて、市民は株式や証券の売買をすることができ、定期的に株の配当を受け取ることもできるわけで、上海市民千三百万人のうち約百万人が、こういう形で証券取引に参加している。
上海証券交易所は、内外から重視され、この数カ月らいのべ四千人を超える参観、訪問者があり、そのうちの三〇%は外国の政界、財界、金融界の人士で、多くの外商は証券市場への投資に意欲的だ。
証券取引の発展には、外資の調達が必要だが、外債に頼るわけには行かない。それで、上海証券交易所では、いま、外商の間にだけ流通を限った「B種股票(グーピヤオ)」というのを計画している。外貨で買う人民元額面の株券である。また、海外での上海企業の株式発行をめざして、証券市場の対外開放を促進しつつある。
(本誌·陳肇莘)
完成間近の南浦大橋
世界中が称賛
「南浦大橋がみごとに建造されたのを見て感動しています。これは中国人の底力を十分に物語るもので、中国は世界のいかなるプロジェクトにも参与し完成させることが可能だと思います。
南浦大橋は、設計、材料、施工、各方面で成功しており、他の国のどんな橋梁にもひけをとりません。このプロジェクトに参加する機会を得たのは、私にとってたいへんな光栄でした。その中で最も印象的だったのは、建設に参加した人びとの真剣な仕事ぶりで、どんな小さなことでも完全を期してやりとげました」
これは、橋梁の世界的権威である鄧文中氏の言葉だ。鄧氏はアメリカ土木工程学会の斜張橋グループの主席で、南浦大橋の顧問だ。大橋建設工事の総指揮をした朱志豪氏にあてた手紙の中の一節にこの言葉がある。
南浦大橋の架設は、全中国、全世界から注目された。アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ドイツ、日本、香港、澳門(マカオ)、台湾などから、専門家や実業家がぞくぞくと集まって、大橋の建設速度の早さ、質の良さは、世界一流だと驚嘆した。
黄浦江に空をまたいで架かる南浦大橋はほんとうに壮観だ。外観はもとより、その規模と質は、中国の橋梁史に新しい一ページを開くものだ。
今年六月二十日、大橋の橋げたが合わさったとき、数万の上海市民が岸に集まって、その瞬間を見守った。この年末に開通するが、大橋の雄姿は上海のシンボルになるだろう。
南浦大橋は、上海の都市部にはじめて架けられた浦東につながる大橋だ。総建設費は八億二千万元、そのうちアジア開発銀行からの融資が七千万ドルで、中国が外資を利用して建造したはじめての橋だ。南浦大橋は、浦東の二十一世紀の飛躍に向けて、その基礎になるものだ。
三年で完成
大橋が合わさって何日かあとに、工事用のリフトで橋面に上って見学した。橋面にそびえる二つの塔から斜めに張ったケーブルが長い橋げたを吊っている。全長八三四六メートル、主橋の長さが八四六メートル、西岸から東岸までの支間長四二三メートル、川の中に橋脚はない。両岸にそれぞれ高さ一五四メートルの主塔があり、主塔の両側から二十二対、約百八十本のケーブルが扇状に出て、橋げたを吊っている。
現場で説明されたところによるとこのように支間の長い斜張橋と、新形式のコンクリートと鋼鉄の二重構造の橋面は、中国でははじめてで、世界でも屈指のものだ。最大支間長と規模でいえば、第一がカナダのアナシス橋、第二がインドのカルカッタの第Ⅱフーリー橋、第三が南浦大橋だ。
主橋の橋面の幅は二八メートル、それぞれ片側三車線の車道があり、両側は二メートル幅の観光用の歩道になっている。自動車以外は通れない。観光客は、主塔にあるエレベーターで景色を眺めることができる。むき出しになっている観光用エレベーターだ。水面から橋げたまでの高さは四六メートルで、五万トン級の船が橋の下を自由に通れる。
南浦大橋は、両岸のアプローチ橋の部分が非対称になっている。これは実際の状況にもとづいて設計されたからだ。
大橋の浦西側は、住宅と工場が密集している。なるべく立退きを少なくするために、アプローチ橋は、浦西側がらせん状になっていて、全長三四〇〇メートル、浦東側は半円形で、三七五〇メートルだ。
一日五万台の自動車が通れるこの大橋は、フェリーの航路三つとトンネル二つの車両通行能力を合わせたものの一·八倍に相当する力をもっているので、開通すれば、両岸の行き来がずっと緩和されるだろう。
この大橋は、わずか三年で架設された。
さらに第二の橋を
黄浦江は、上海の母なる川として上海をはぐくみ、太平洋西岸の大国際都市にした。
だが、上海は土地が限られていて、二十世紀後半に入ってからは飽和状態となり、広大な浦東の開発が待たれていたが、一面では黄浦江が、発展のみぞにもなっていた。
百年らい、上海の人びとは黄浦江の下流に橋が架けられて交通が便利になることを渇望していた。清朝末期、民国初年、一九三〇年代、四〇年代と、たえず専門家や名士たちが架橋を建議し、各種の工事案も出されたが、いろいろの理由で、すべて空文になっていた。
新中国成立以前、黄浦江を渡るのには主に手こぎの小舟が使われ、四人から六人乗るのがやっとで、しかも危険だった。転覆、死亡事件がよく起きていた。
新中国成立以後、上海市政府は一貫して黄浦江の渡江条件の改善に力を入れてきた。それで、すでに乗客を運ぶ十いくつの航路と、フェリーの航路が五つとトンネルが二つできた。だがそれでも日ましに増える需要をみたすことはできない。いまでは毎日のべ百万人余りの人と、二万二千台の自動車が、黄浦江を渡るのだ。黄浦江両岸の交通膨張病は重くなる一方だ。
どうしても橋が必要だ。この声は市長、市の建設部門、各市民の間にずっとこだましていた。
そこで中国政府は歴代上海市長と準備を重ねた。ついに、一九八八年十二月十五日、最初の五二メートル鋼管が打ち込まれ、工事が始まった。上海の人びとの願いが実現したのだ。いままた、第二の斜張橋楊浦大橋の架設工事も始まっている。この橋は最長支間が六〇二メートルで、一九九三年に完成の予定だ。
(陳啓甸·陳肇莘)
地下鉄工事は急ピッチ
いまの上海は都市としていささかかっこうの悪い点がある。とくに繁華街で、車が迂回させられたり、道路を掘り返していたり、建物を壊していたり。だが、市民はべつに不満をもらさない。それは、いまにここに地下鉄が通るからだ。そうなれば、交通は便利になるのだから。
一号線の前期工事
上海にできる地下鉄第一号線の工事は、南の新竜華から始まって北の鉄道の新駅まで、上海の最も繁華な地区を通る、全長一四·五七キロの部分だ。
計画では、上海の地下鉄は七つの線でネットワークされ、総延長一七六キロ、全部が完成するのは、次の世紀に入ってから、となっている。
地下鉄一号線の前期工事の沿線には、十二の駅が設けられ、徐家滙駅が最大クラスだ。折返し線が設けられ、乗客の流量によって、必要な場合に鉄道新駅との間に区間運転ができる。
徐家滙の現場を参観したとき、駅の基本の工事はほぼ終わりに近く、大体の様子がよく分かった。
深さ一七メートル、幅二二メートル、長さ二三〇メートル余で、上下二層になっている。上が駅のホールで、地上への通路が五つ、切符売り場、案内所、電話などがある場所だ。五つの通路は地上のバス停と連絡する。下は乗り場で長さ一八六メートル、幅一四メートルのプラットホームに、八両編成の列車が止まれる。電光表示の案内板などもある。
上層と下層との間は、エスカレーターと階段があり、エスカレーターは上り専用だ。
地下鉄の駅と駅の間は、内径五·五メートルの双管単線円形トンネルで、シールド工法が採用されている。これだと地面の建築物や交通に影響を与えない。新竜華から漕宝路駅までの一·五キロのトンネルはもう掘さくが終わり、他の部分のトンネル工事が続けられていた。
どうしても要る地下鉄
千三百万の人口を擁し、その上に二百万の流動人口がある上海。三五〇平方キロの都市部には千四百余の通りがあって、道路が少ないとはいえないが、道幅がせまい。自動車が通れるような道路は三分の一しかない。車道の幅が一二メートル以下というのが半分を占めている。毎日二百万台の自動車と、七百万台の自転車と、動力車でない一万台の車、上海の道路に詳しくない他の地方からの車両などが、限られた道路にひしめき、渋滞がいたるところで起きている。
上海市の建設部門の統計では、上海の道路の総延長は、新中国成立以前の四倍になっている。それは主に郊外地区での増加だ。
動力車でない車両は二十四倍、自動車は十八倍に増えている。
超負荷の道路と公共交通が、上海経済の持続的発展と対外開放の進度を制約していると、統計は訴えている。
一九五〇年代の末、上海市政府は専門の部門を設けて、地下鉄の建設計画を立て、交通体系の立体化によって、交通難を緩和しようとしていた。しかし、その後いろいろな原因で、ずっと実現を見なかった。一九九〇年代に入り、上海の地下鉄一号線の前期工事がついに正式に始まった。一九九四年に開通、テスト営業を始める予定だ。
一号線は、路面の交通量がきわめて大きい所を経由し、十六の路面交通線と連絡ができる。毎日二百万の人口が流動する場所だ。
地下鉄が開通すれば、そのうちの約半分、百万がこちらに吸収されるので、路面の交通状態が、改善されるだろう。
立退き五〇万平米
地下鉄一号線は、一つの県と、四つの密集居住区、商業地区を通るので、立退きになる家も多い。
申江機械工場に勤める銭仲華さんたちは、徐滙区衡山路に住んでいたが、徐家滙地下鉄駅ができるので、家をとり壊すことになり、引っ越さなければならなくなった。
徐滙区のほうでは、立ち退くことになった区民たちと相談の上、同じ区内の竜華西路にある一戸三〇平方メートルのアパートに移転をすすめた。みなキッチン、トイレが別についている。
世帯人口が少なくて、住宅分配の基準では二五平方メートルの所しかもらえないケースでも、五平方メートルぶんは入居者が区から買うという形をとった。
区は一平方メートル当り七百元という特別安い値段にした。銭さんもそのケースだったが、半分は自分で支払い、あとの半分は工場が出してくれた。区の合理的な方法に銭さん一家は大満足で、まっさきに新居に移った。
立退き世帯五千七百九十四戸は、みな期限内にアパートに移った。
地下鉄一号線工事では、大小三百四軒の商店や企業も立ち退かなければならなかったが、地下鉄のために、少しも不平をいわずに繁華な地区から別の所へ移った。
工事は入札で
地下鉄一号線は三十億元を要するプロジェクトで、そのうちの外貨は三億ドルだが、これはドイツから四億六千万マルク、フランスから二千百五十万ドル、アメリカから二千三百万ドルの借款だ。
上海地下鉄指揮部では、工事は内外に公開入札の方法をとった。これは「世紀の契約」と称され、多くの国が入札に参加した。地下鉄一号線の総工事費の半分で、将来、落札した国から設備を購入するという条件がついている。もう一つの条件は、今回落札した国に、一号線の後期工事の優先権があるのだ。
激しい競争の末、ドイツが落札した。ドイツが提示した価格が他の諸国より低かったのだ。
(本誌·陳肇莘)
蘇州河もやがて清流に
一九八八年八月、合流汚水処理第一期工事、つまり蘇州河の整備工事が始まった。上海市民は大よろこびだ。これは全市民と子々孫々に、しあわせをもたらす大きなできごとだ。
その日以来、人びとは、黒変して異臭を放つ蘇州河が清流に変わる日を、首を長くして待っている。
もう放置できない
蘇州河は全長一二五キロ、太湖から出て、上海の繁華な中心地を通って黄浦江に入っている。かつては上海に美観を添えた川だ。
工業が発展し、工場が増えるにつれて、一九二〇年代から蘇州河の汚染が始まった。
現在、上海の都市部の工業廃水と生活廃水は、毎日五〇〇万トンを超えるが、その五分の三は未処理のまま市内の河川に排出され、蘇州河とその支流の十四の川は、年じゅう真っ黒で悪臭を放っている。
蘇州河は黄浦江に注いで、また黄浦江を汚染し、黄浦江下流は、毎年百五十日以上が「黒臭期」となり、心配されている。
蘇州河の整備は毛はや一刻の猶予もならない。
ぼう大な工事
上海の工業廃水、生活廃水、雨水の、合流下水の処理は、二期に分けて進められる。第一期は蘇州河、第二期は黄浦江だ。
蘇州河の工事では、旧市内に現在ある合流式の下水道管のシステムをできるだけ利用するが、工業廃水は、各工場内であらかじめ処理をして有害物質や重金属を除き、PH六~八程度におさえる。同時に、新しく大口径の管を埋めてそれを集め、ポンプ場を増設して、処理したのち、直接長江に排出する。蘇州河にも黄浦江にも排出しない。下水の流れをすっかり変えるわけだ。
蘇州河ぞいの一千五十二の企業が排出する工業廃水と、二百万住民の生活廃水、一日一四〇万トンがコントロールされる。
この工事は、西は普陀区の丹巴路から、東は川沙県の竹園の排出口まで、全長三三·三九キロの大プロジェクトで、八つの区と一つの県を通過するほか、大下水管は黄浦江をも横切る。
これで七〇平方キロの範囲の、二百五十五万の人口が恩恵を受けることになる。
蘇州河整備のプランは、内外の専門家が、現在の中国の条件下で上海の下水問題を解決するには、良い方法だと認めている。総工事費は十六億元で、そのうち世界銀行からの借款が一億四千五百万ドルとなっている。
内外に公開入札
「3·1工程」と呼ばれているトンネルを参観した。これは下水を集めて長江の方向に流すためのメインの大口径管を設置する工事の一段だ。
工事用の階段をつたって地下十二、三メートルの現場に下りる。内径四メートル、外径五メートルの管がすでに二·一キロにわたって敷設され、この一段の工事は完成間近だった。
ここは、日本のNKK鋼管と鉄建建設の二社と、上海基礎工程公司が三者共同入札で、工事を担当している。日本から入れたシールド掘進機で施工していて、一九八八年の八月二十五日の着工以来、地面の諸施設にはなんの影響も出ていない。
メインの下水管のルートには、中山北路と普善路の交差地点に、ポンプ場が設けられる。彭越浦加圧ポンプ場だ。この工事はイギリス、ドイツ、上海の三社が、共同入札で請け負っている。蘇州河整備プロジェクトでは、内外公開入札を採用した。規模が大きく、社会効益もあるので、各方面から注目され、外国からも多数が入札に参加した。
全工程は、科学的に二十九の項目に分けられていて、その中の十五項目は、ドイツ、イギリス、日本などの有名な建設会社が落札し、十四項目は中国国内で実力のある建設、トンネル、鉄道建設などの公司が落札した。現在、ほとんどの項目の工事が始まっていて、一九九三年に完成し使用する予定だ。きれいになった蘇州河が近く実現するだろう。
長江は汚さない
蘇州河の整備が終わると、その水質は三級地面水の標準に達するとされる。川の水一リットルの中の溶解酸素の含有量が四ミリグラムで、魚が生存できる。だが、長江のほうにもっていった汚水は、こんどは長江を汚染しはしないか。
長年この事業にたずさわっている鄭谷賢さんは「今年四月末に長江の排出口である竹園地区で、専門家による鑑定が行われたが、蘇州河の下水を排出口から長江に拡散させるプランは、鑑定を通過した」と紹介した。鄭さんはこのプロジェクトの副指揮を担当している人だ。
長江への排水口の手前には、浮遊物や、無機質の砂などを取り除く簡単な設備を設けて、もう一度物理的処理をする。それから、長さ一·四六キロ、内径四·二メートルの放出管二本を通じて、長江に放出するが、放出管は長江の水面下一五メートルに敷設され、管の末端部には、たてにならぶ噴出管が取り付けられていて、そこから処理済みの下水を噴出して、東流する長江の大量の水の中へ拡散、希釈する。この「深水排放」プランは、中国水利科学研究院、上海環境保護研究所、同済大学、河海大学でのそれぞれのテストの結果、排出口から一~四キロの範囲内で、排出下水は長江の水で百倍に希釈されるし、長江の水の自然浄化能力もあるので、危害をひき起こすことはなく、長江の漁業資源への影響は大したことはないと認められている。 (本誌·陳肇莘)