芭東-神農伺船ひく人

2023-05-26 14:01:00

岩壁の高い所では船を岩壁に寄せ、竹竿の先につけた鉄かぎを岩の裂け目にひっかけながら船を進める
岩壁の高い所では船を岩壁に寄せ、竹竿の先につけた鉄かぎを岩の裂け目にひっかけながら船を進める

へさきで船をあやつる船頭の宋文剛さん
へさきで船をあやつる船頭の宋文剛さん

右端の一人が縄をまるめていき、三人がひっぱる。
右端の一人が縄をまるめていき、三人がひっぱる。

テイアオサルホ(跳喪)
テイアオサルホ(跳喪)

水車は今でも健在
水車は今でも健在

巫峡を出て長江の北岸を主キロほど行くと、西壌口という小村がある。澄み,きった小河がこの村で長江に注いでいる。この小河が神農架(しんのうか)に源を発する神農漢だ。神農架はそのむかし医薬の祖、神農氏が薬草を採取した所という。近年、巴東県は神農漢を旅遊区に指定した。観光客は車で上流に来て「えんどう豆のさや船」に乗り、漢流下りを楽しめるようになった。切り立った岩壁、早瀬、きれいな水。岸にあがって村の民家を訪ねれば、製粉小屋の古い水車が石臼をごっとんごっとんひいている。ときには村人が死者を弔う「ティアォサルポ」

(跳喪)の太鼓に合わせて「あいー、あ、あ、あ、あいー」と歌う声がきかれるだろう。

県旅遊局の鄭(てい)さんの案内で、記者は西壌口からさや船で神農漢をさかのぼる旅に出た。船頭は宋文剛さん、土地の人で今年四十四歳。もう二十八年もこの仕事をやっている。船には助手が一人と船のひき手が四人いた。われわれが腰をおろすと、小船はすぐに岸を離れた。

ところがものの五百メートルも進んだかと思ったら、ひき手の四人は長ズボンをぬぎ、竹製の縄を手に船からとびおりて川岸に行き、船をひっぱり始めた。縄を肩にしばらくひっぱるうちに断崖で道が途切れた。対岸には道がついている。と、ひき手たちは腰まで水につかりながら、後ろの一人が縄をまるめ、三人が綱ひきの要領でぐいぐい船をたぐり寄せて船ばたをぐっとつかむ。船頭も助手も竹竿をしなわせて全力で船の向きを定め、流れにまきこまれないようにしている。突然かけ声がして、ひき手が船にとびのると、竹竿の二人は船を対岸に寄せていく。流れの中で後退したり岸に近づいたりするうちに、ひき手がまた川にとびおりて、じゃぶじゃぶと川岸に向かっていく。ひき縄がまたぴんと張って船が前進する。とびおりて、ひき始めるまでほんの十秒くらいのものだろう。その動作は見事なもので、まったく不安がない。機敏さ、力の強さ、技量がマッチして一気呵成だ。

三時間後に、われわれは五·七キロの竜昌峡を抜けた。G船河村で一泊し、翌朝早く出発。鵬鵡(おうむ)峡を過ぎて、昼ごろ三つめの峡谷、綿竹峡に着いた。ここは狭くて水が浅く、船底が石コロをこすってゴロゴロ音をたてる。水上船ではなく石上船だ。そのうちとうとう進めなくなった。ひき手たちが水にはいってじゃまな石をどける。これでやっと前進。その作業を「検河道」といっていた。こういう場所で船を進めるのはまた一段と力がいる。ひき手はしぶきと汗でぬれた服をさっさとぬいで頭にのせ、はだかで船をひく。鄭さんは「神農漢じゃ暑いときはいつもこうですよ。船頭は別ですが、水にはいって仕事をする人間は、他人様がいなければいつでもはだかです。水の抵抗が少なくて、それが一番なんですね」という。

わたしも遅ればせながら靴とズボンをぬぎ、カメラを差しあげて流れにはいってみた。一枚とろうと思ったのだが、はだしで水中を歩くのはなかなかむずかしい。石があたって足のうらが痛いし、滑る。一歩ずつおっかなびっくりで、とてもひき手のスピードに追いつかない。ともで舵をとっていた宋さんが、わらじをぬいで貸してくれた。これがあるとまるでちがう。

宋さんが、「いえー、いょー、いよー、お。へいょ、いょi、お」とかけ声をかける。野太いがひびきのいい声だ。ひき手も低く「おー、ほ、おー」とかけ声に応えながら船をひく。峡谷中にこだまが響き渡る。この世でいちばん美しいのは人間自身だ、目の前に展開されているのは人間がもっとも美しい瞬間だった。わたしはテープをまわして心をゆすられるそのかけ声を録音しながら、休む間もなくシャッターをきりつづけた。

船で簡単な昼食をすませ、帰途についた。

宋さんは舳先(へさき)に立って船をあやつる。

「えんどう豆のさや船」は流れにのって下る。時にはゆったりと、時には激流にもまれ岩礁をぬって飛ぶょうに走る。ひき手は体を丸めて船倉でねている。わたしの目は両岸の景色を見ていたが、心はあの流れをさかのぼる船の中にあった。

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