太古の母系家族制を保つ摩梭(モースオ)人―濾沽湖(ルークーフー)
昭覚―イ族の文化
涼山(リアンシャン)は中国最大のイ族居住区である。イ族の総人口は545万人だが、四川省涼山には、その内の135万人が集中している。昭覚(チャオチュエ)は西昌(シーチャン)から東へ百キロほどの所、涼山の中部にある。人口は約20万人、イ族が90%を占める。
標高2800メートルの碗廠郷(ワンチャンシアン)にある深い森には「布石瓦黒(フシワヘイ)と呼ばれる」所があり、そこに散在する巨石の表面には、93点もの絵が刻まれている。絵の面積は延べ440平方メートルにも及び、最も大きな画面には、6人の騎馬人物が描かれ、その内の一人は際立って党々としたいでたちで、前後を刀剣を持った衛兵とのぼりを掲げた侍従に取り囲まれている。これらの絵は、唐時代の8世紀に南詔王(なんしょうおう)が描かせたと言われている。
岩石画の近くにある村で、わたしはイ族の葬式に参列した。正午近く、人々が山合いの小道のあちこちから弔問に現われ、長い葬列が上がった。弔問客が着ているのは、喪服ではなく盛装である。イ族の伝統衣装は多くの色彩を用いる鮮やかのもので、特に女性の装いは豪華である。地域によって、また異なる家系ごとに異なる様式があり、服装を見れば、どこのイ族のかが判別できるそうだ。四川涼山のイ族の服装も千差万別だが、共通しているのは老若男女を問わず、フェルトのマント「披氈(ヒーチャン)」か毛織りのマトン「察爾瓦(チャールワ)」を羽織ることだそうである。
さて、葬列がそろそろとりでの門ちかづいた。弔問客の各グループが猟銃を空に向けて撃ち鳴らすと、とりでの中からも空砲を撃つ音が聞こえる。門を入ると、とりでの娘と若者がのぼりと儀仗(ぎじょう)を持って葬列を出迎え葬列はまず霊廟(れいびょう)に赴き死者の霊を弔う。それから広場に設けられた宴席に向かい、喪主は酒、国のごちそうとタバコで弔問客を歓待する。
涼山のイ族は火葬を行う。死者は家の中に3~5日安置された後、「畢摩(ヒーモー)」、お経を読んでもらい弔いをする。「畢摩」はイ族の宗教儀式を司るシャーマンで、イ族の文字に通じている「畢摩」は親から子へと世襲され、手書きや木刻版の経典が代々伝えられる。器に似た岩があり、そばにいくつかの廟が建てられ、人々の崇拝を集めている
その夜、わらしたち遠来の客は、村の各家庭に分散して泊まった。わたしが泊まった村長の家は、典型的なイ族住居だった。イ族の住居には窓がなく、馬屋に四分の一ほどを占め、馬と人が一つ屋根の下で暮らすのが普通である。客は屋内に入ると真ん中にあるいろりをぐるりと囲んだ。わたしだけがベッドで休ませてもらい、村長やほかのイ族の客は、いろりのわきで「察爾瓦」を身に巻き付けて横になった。村長の話だと、こうして寝るのがイ族本来の休み方で。ベッドを使うようになったのは最近のことだ。またこのごろ、イ族の不衛生な習慣や伝統を改めようという運動が繰り広げられるが、なかなかうまくいかない。イ族に人々は、馬と人が離れて住んだりしたら馬は病気になると心配する。馬をそれはそれは大事にしてるのだ。
塩源
塩源―潤塩古道
西南シルクロードは、西昌から二手に分かれる。一つは安寧河(アンニンホー)に沿って南に向かい。徳昌(トーチャン)、会里(カイリー)、攀枝花(ハンチーホナ)、大姚(ダーヤオ)を経て大理(ダーリー)に至るルート。もう一つは西の雅礱江(やーローチャン)を越えて塩源(イエンユアン)、麗江(リーチャン)を経て大理に至るルートである。明(みん)代に「古潤塩道」と呼ばれた二番目のルートは、シルクロードの支道であると言われる。塩源は涼山の中心部にあり、四川、雲南、チベットを結ぶ要所である。古くから大きな町があり、前漢の元光6年(紀元前129年)には定県が置かれた。塩源と呼ばれるようになったの清(しん)代に入ってからのことである。
塩源という名の通り、ここは塩の産地。塩源にある塩鉱は世界でもまれに見る大規模なもので、埋蔵量は27億トン、岩塩の平均含塩量は87.6%にも達するそうだ。食塩は西南シルクロードの重要な交易品一つであった。この潤塩古道一帯には、塩源のはかにも塩道(イエンタオ)、塩辺(イエンヒエン)、塩津(イエンチン)、塩興(イエンシン)、塩豊(イエンフォン)などの地名があり、食塩の生産と流通の歴史を雄弁に物語っている。塩業は古代からずっとこの一帯を支える産業であり続けた。
この地方の塩を最初に発見したのは摩梭人の女羊飼いだという。昔々、塩源の南側が深い森だったころ、ある女羊飼が自分の放牧していた羊の群れが、塔爾山(タールシャン)のふもとにある泉の水を飲むのが好きなことに気が付いた。そこで彼女もその水を口に含んでみたところ、なんとこれは塩水であった。女羊飼いがこの発見をさっどく首領に告げたところ、首領は塩の発見を秘密にするために、なんと彼女を殺してしまった。人々はこの女羊飼いを憐れんで、彼女を記念する廟(びょう)を建てた。
濾沽湖
最後の母系制部落
塩源から麗江(リーチャン)に向かう途中、四川省と雲南省にまたがる高山に神秘的な水をたたえる濾沽湖(るークーフー)を訪れた。ここにすんでいる摩梭人は、太古の母系家族制を今も受け継ぐ珍しい人々である。
摩梭人の住居は、木造のコの字型で真ん中に中庭がある。正面が母屋で、普段食事をしたり、語り合ったりする。客を接待したり、儀式を行う場所でもある。母屋の中心には神を祭る場所といろりがしつえらてある。いろりの両側には太い二本の柱が立ち、その一つが男柱、もう一つが女柱と呼ばれている。摩梭人の家庭のほとんどが女性を家長とした大家族である。一家族は少なくて十数人、多ければ数十人になる。
摩梭人の婚姻はいわゆる通い婚だ。成人した女性はそれぞれ個室を持ち、通ってくる恋人「阿注(アーチュー)」と夜を過ごす。二人の婚姻期間はそれぞれであるが、最後まで家庭は作らない。生まれた子供は母方に属し、血縁も母系が重んじられる。
二日目の朝、鮮やかな民族衣装をまとい、馬にまたがった摩梭人の娘と青年がわたしたちを濾沽湖に案内してくれた。標高2600メートルの高山にある濾沽湖は、面積72平方キロ、山に囲まれた水面は静まりかえり、湖畔には摩梭人の住居が点在している。摩梭人の船は太い木をくり抜いただけの丸木舟で、わたしたちはそれに乗り込んだ。美しい景色を堪能しながら、わたしは舟をこぐ中年女性とおしゃべりを始めた。彼女は今年40歳。「あんたの所も通い婚なの?」「ねえさんの今の恋人は何人目?子供はいるの?」「4人目さ。子供は3人」「通い婚はいい?」「いいね。うまく愛し合える」
舟をこぐもう一人の男性は、今年36歳。彼の所も通い婚で3人の子供がいる。恋人はずっと同じ女性だという。彼は「女はやっぱり一人の方がいい」とつぶやいた。