友好の証し新鑑真像日本へ

2023-05-29 15:02:00
中日の僧侶らに付き添われて唐招提寺に到着した新鑑真像(写真·于文/人民中国)
中日の僧侶らに付き添われて唐招提寺に到着した新鑑真像(写真·于文/人民中国)

鑑真(688~763年)は中日文化交流の使者である。8世紀、仏法を広め戒律を伝授するために、多大な苦労を経験しながら6回にわたって日本への渡航を試みた。日本で律宗を開くとともに、建築や彫刻、医学、書道、絵画などの盛唐の文化も伝えた。それから千年以上が過ぎた現代。その偉大な功績を記念し中日の仏教文化交流を促進するため、揚州の文峰寺と京都の壬生寺が協力して、新鑑真像の渡日イベントを開催した。「鑑真」は時を越えて、再度日本への旅路についたのである。 

鑑真のふるさとから出発 

揚州南部の古い運河のほとりに建つ文峰寺は、明の万暦10(1582)年創建で、境内にそびえる文峰塔は大運河が揚州の区域に入ったことを示す目印だ。昔、運河を行き来する船の船員たちはこの塔を見て揚州に着いたことを知った。現在の運河は昔ほどにぎやかではないが、文峰塔は依然として揚州の人々にとって重要な存在であり、大学入試を控えた受験生が塔の周囲を歩きながら祈る姿がよく見られる。塔の前にある埠頭ふとうは「鑑真東渡埠頭(鑑真が日本へ渡った埠頭)」と呼ばれ、6回に及んだ挑戦のうち、数回はこの辺りから出帆したと言われている。

5月12日午前、新鑑真像の開眼法要が文峰寺の大雄宝殿で行われ、中日の僧侶約200人が参列した。厳かでしめやかな雰囲気の中、2体の鑑真像に掛けられた赤い布がゆっくりと取り外されると、けさを身にまとい、目をつぶってあぐらをかき、両手を重ねてほほ笑みをたたえた鑑真の姿が現れた。続いて、法要を取り仕切る僧侶が水をまいて場を清め、諸仏を招き、「大悲呪」や「般若心経」を唱えた。それから鏡で鑑真像の顔を照らしたり、筆で像の各所をついたりして開眼の儀式を行い、中日の僧侶は共に読経し祈りをささげた。

新鑑真像の制作のきっかけについて、壬生寺の松浦俊海貫主は次のように語る。「鑑真和上のご縁で、たびたび揚州を訪れました。鑑真和上は759年に奈良の唐招提寺を建てて、壬生寺はその後991年に京都で創建されました。唐招提寺を総本山として仰いでいますが、残念ながら壬生寺の本堂では鑑真和上の像が正式に祭られていません。それで、中国の伝統的な技法にのっとって2体の像を作り、壬生寺と文峰寺にそれぞれ安置し、双方の友好の証しにしようと決めました」。1年近くかけて、新鑑真像は人々の前にその姿を現した。文峰寺住持の能度法師によると、この像は高さ64㌢、幅59㌢、奥行き39㌢、重さ5·6㌔で、唐招提寺所蔵の国宝である鑑真和上坐像と同じサイズの複製像だ。福建省莆田で制作され、中国の伝統的な「夾紵きょうちょ」という造像技法が採用された。まず粘土で原型を作り、その上に何層もの麻布を漆で覆い固めていき、最後に中の原型を取り去るという方法だ。

開眼法要の後、日本側が鑑真像を迎えて中国側が見送る場面では、「鑑真、日本へ渡る」の歌声が響く中、しっかりと担ぎ上げられた鑑真像が文峰寺を出発し、松浦貫主の引率の下、「鑑真東渡埠頭」へ向かった。日本の僧侶らは埠頭で鑑真像を「東渡号」に乗船させると、多くの人々が見送る中、ゆっくりと川岸を離れていった。

日中文化交流協会副会長で女優の栗原小巻さんはこの乗船式で、同イベントには歴史的な意義があるとして、次のように熱い胸の内を語った。「鑑真和上は日中文化交流の象徴です。鑑真和上が暗闇の中で見た魂の夢は日中の友好です。その信念と勇気に圧倒されます。日中文化交流協会元会長の井上靖先生は松尾芭蕉の句『若葉して、御目の雫、拭ぐはばや』を引用し、毎年5月に鑑真和上像の前に立たせていただくことを念願としていると書かれています。こういう事業が日中友好の基礎になると信じています」

とう不屈の精神で日本へ 

742年、揚州の大明寺の住持だった鑑真は日本から来た僧侶の栄叡と普照の招きを受けて、仏法を広めるために渡日する決心をした。唐代の揚州はどんな街で、日本の僧侶がなぜ揚州まで高僧を招きに来たのだろうか?「鑑真が活躍した盛唐のころ、揚州は長安や洛陽に次いで中国で3番目に大きな街でした。経済や輸送の中心として、広州、泉州、明州(現在の寧波)と並んで四大貿易港と呼ばれていました。長江と大運河、海と陸のシルクロードの交差する場所として、手工業や造船業が発達し、盛んに貿易が行われていました。遣唐使は合計13回にわたって中国に派遣されましたが、そのうち9回は長江の河口付近に到着しており、上陸後は揚州を通って、運河沿いに洛陽、さらに長安へと向かいました。そのため、当時の揚州は外界との接触が多く、発達した開放的な街となり、自然と中日交流の重要な地点ともなりました」と揚州博物館名誉館長の顧風氏は説明する。

唐代の揚州では仏教が栄えていた。史料の記載によると、当時、揚州には40カ所以上の寺院があり、中でも鑑真が滞在した龍興寺や大明寺は重要な存在だった。評判の高い道岸法師の弟子として、鑑真はかつて長安や洛陽で修行し、仏教界で高い地位を得ていた。博学だった鑑真は、律宗や華厳宗、天台宗を修めただけでなく、医学や建築にも精通していたという。「当時、日本の仏教制度は未完成で、正式な『三師七証』制度がなく、正規の資格を持つ伝戒師(僧侶に位を与える人)もいなかった。そのため、日本人にとって、鑑真は渡日して仏法を広めるために最適の人物と信じられました」と顧氏。

揚州に生まれた鑑真は、14歳の時、地元の大雲寺で出家し、26歳で大明寺の住持となった。大明寺にいたころの鑑真について、同寺院住持の能修法師は次のように説明する。「鑑真和上は大明寺で仏法を発揚し授戒を行った以外に、信徒や民衆のために診察や布施などの慈善事業も行いました。56歳の時、大明寺から日本へ出発しましたが、道のりが遠く辛い旅となるため、多くの信徒や弟子が旅立ちに反対しました。しかし、出家した者は仏の教えを広めることを自身の願いとするとして、断固として鑑真和上は日本へ渡ったのです」

6回にわたる挑戦のうち、5回目までは全て失敗に終わった。初めて準備が整った1回目は、出発前に弟子の密告によって挫折した。その後の数回は船が座礁して破損するなどの原因で帰らざるを得ず、5回目には海南島へ漂着し、各地を転々として広東の肇慶に着いた。だが、どれだけの苦難を味わおうとも、鑑真は日本へ渡るという信念を捨てることはなかった。753年、鑑真は遣唐使の藤原清河と吉備真備の要請を受けて、66歳という高齢にもかかわらず6回目の渡日に挑戦した。弟子たちを連れ、経典や仏像、薬草、貴重な書道作品、刺しゅうなどを携えて揚州を出発した。張家港で遣唐使と合流して遣唐使船に乗り込み、1カ月余りの航海を経てついに日本にたどり着いた。

唐招提寺の石田智圓前長老と壬生寺の松浦貫主は今回、共に20余人の僧侶を率いて揚州に赴き、渡日する新鑑真像を迎えた。石田氏は「不惜身命ふ じゃくしんみょう」という言葉で、当時の鑑真が中日交流のためにさまざまな障害や困難を克服して進んだ精神を表現し、「鑑真和上は12年もかかって、仏法のために命懸けで日本へ行きました。最初は東大寺で戒壇院をつくって天皇など500人に授戒を行い、その後、唐招提寺では戒律を命懸けで伝えました」と説明。鑑真が753年12月20日に、九州の坊津(現在の南さつま市)で日本に上陸したことから、石田氏は毎年この日に坊津で法要を開催し、鑑真をしのぶ気持ちを託している。今年3月で任期満了となったが、新しい長老にも坊津に来てこの活動を続けてもらうつもりだ。

鑑真の精神を引き継ぐ 

現在でも揚州の人々は鑑真の精神を受け継いで、日本の仏教界との友好交流を続けている。日本との交流について、文峰寺の能度法師は心に深く感じるところがあるという。2012年に奈良での研修で禅の修行をしていた時、鑑真と同じように中日の仏教交流に貢献したいという願いを抱いた。それに先立つ11年、大明寺住持の能修法師や他の仏教界の著名人に随行して唐招提寺を訪問したが、当時は東日本大震災発生から間もない時期だったため、日本の僧侶と共同でW牲者のために法要を営み、被災地へ義援金を送った。「まるで自分の身に起こったように感じ、微力ながら日本の人々のために何かしたいと思いました。これはある意味で鑑真和上の精神を受け継ぐもので、お釈迦様の本懐でもあります」

開眼法要の前日となった5月11日、新鑑真像は大明寺の鑑真記念堂に安置されている鑑真像と対面した。大明寺をはじめ、文峰寺、唐招提寺、壬生寺の代表者が集まって、読経し祈りをささげた。大明寺は鑑真がかつて住持となり、仏の教えを広めた場所であるため、鑑真の「祖庭」と呼ばれている。70年代に建てられた鑑真記念堂は、著名な古建築学者の梁思成氏が唐招提寺の金堂をモデルに設計したもので、1980年に唐招提寺の鑑真和上坐像が揚州に「里帰り」した時に安置された場所だ。その時、揚州の仏像制作の大家が中国の伝統的な技法で鑑真和上坐像を複製し、今ではその像が記念堂に祭られている。

鑑真の時代の苦労に比べれば、現在の中日間の交通は便利かつスムーズで、両国の仏教交流も大きな成果を得ている。素晴らしいことには、鑑真の精神に感化された「小鑑真」も次々と生まれている。大明寺に隣接する場所に、唐代の建築様式を模した建築群があり、山紫水明の景色と互いに引き立てあっているが、ここは仏教の外国語人材を専門に育成する「鑑真仏教学院」という教育機関だ。93年に中国仏教協会の趙樸初会長が、鑑真の名前を冠した仏教大学を大明寺で創設することを提案した。2006年、鑑真仏教学院は1期生を迎えた。能修法師によると、現在は70~80人の学僧が仏教英語と仏教日本語の2つの専攻に分かれて学んでいるという。日本の正眼短期大学と協定を結び、今までに10人ほどの学生が留学したことがある。

今回のイベントは、日中文化交流協会の創立60年に合わせた記念事業の一環でもある。同協会専務理事の中野暁氏は「60年来、日中関係は度重なる変動を経験し、両国国民の生活にもきわめて大きな変化が起こりました。しかし、文化交流で相互理解を促進するという方法には変わりがありません」と語り、同協会常任委員で同志社大学教授の加藤千洋氏は、「『政冷経熱文温』の『文温』は文化のぬくもりという意味。冷え込んだ日中関係をじんわりと、漢方薬のように柔らかい力で徐々に温度を上げていく。そういう不思議な力を持っているのが文化交流です」と、中日関係における文化交流の意義を説明した。

在上海日本国総領事の片山和之氏は、新鑑真像渡日イベントの一環として揚州で開催された「東山魁夷の石版画と中日高僧の書画展」に出席した際、揚州への思いや鑑真との深い縁について「揚州に関しては、李白の『孟浩然を広陵に送る』という漢詩は日本人の間で愛されており、私自身、高校時代に学んだことを懐かしく思い出します。また、大学1年生の時、井上靖の歴史小説『天平の甍』が映画化されて、その映画のエキストラに出て、鑑真和上が日本にたどりついた時に東大寺で迎える役人の1人として出演しました」と述べた。さらに「鑑真和上がおられた8世紀は、現代的な飛行機やまともな船もなく、天候不良、漂流、失明など想像を絶するような困難に直面しながら、鑑真和上は日本に戒律をもたらしました。当時鑑真和上が日中交流のために困難を克服した不撓不屈の精神を見ならって、直面している日中の問題を乗り越えていきたいと思っています。今後も日中文化交流がさらに深く広く継続することを祈念します」と語った。

新鑑真像は揚州から上海へ運ばれた。5月14日、中日国際フェリー「新鑑真号」に乗船し、中日の僧侶が見守る中、日本へ出航。16日には大阪港に到着し、国宝の鑑真和上坐像と対面するため奈良の唐招提寺へと向かった。

新鑑真像は揚州から船に乗り日本へ向けて出航した(写真·陳克/人民中国)
新鑑真像は揚州から船に乗り日本へ向けて出航した(写真·陳克/人民中国)
唐招提寺所蔵の鑑真和上坐像をモデルに制作された2体の新鑑真像(写真·陳克/人民中国)
唐招提寺所蔵の鑑真和上坐像をモデルに制作された2体の新鑑真像(写真·陳克/人民中国)
揚州の文峰寺住持の能度法師(写真·陳克/人民中国)
揚州の文峰寺住持の能度法師(写真·陳克/人民中国)
日中文化交流協会副会長で女優の栗原小巻さん(写真·陳克/人民中国)
日中文化交流協会副会長で女優の栗原小巻さん(写真·陳克/人民中国)
新鑑真像の開眼法要が揚州の文峰寺で行われた(写真·陳克/人民中国)
新鑑真像の開眼法要が揚州の文峰寺で行われた(写真·陳克/人民中国)

新旧の像が奈良で対面 

当日の唐招提寺はふだんの静けさと異なり、境内のあちこちで僧侶の忙しそうな姿を見掛けた。千葉県我孫子市立白山中学校から来た恵子さんと同級生たちは、寺院の奥から4人の僧侶が鑑真和上坐像を運び出し、正門を向くように正殿に安置する様子を興味深そうにながめていた。恵子さんたちは修学旅行で奈良を訪れていて、唐招提寺に来たのはグループのみんなで話し合って決めたことだった。「歴史の教科書で鑑真和上のことを学び、みんなもっとこの中国から来た高僧について知りたいと思って、見学を決めました」と恵子さん。同行のガイドから、その日、揚州の文峰寺から来た新鑑真像が唐招提寺の鑑真和上坐像と対面すると聞いて、とてもラッキーだと思い、一気にテンションが上がったという。

正午過ぎ、新鑑真像は中日の高僧が見守る中、ゆっくりと境内に入った。12時半、新旧の鑑真像が向かい合うと、著名な雅楽演奏家である東儀秀樹氏の笙の演奏に合わせて、両国の高僧がそれぞれ読経を始めた。

唐の時代、日本の留学僧の要請に応えて渡日し、日本における南山律宗の開祖となった鑑真。では、鑑真と奈良の唐招提寺とはどれほど深いつながりを持ち、所蔵の「鑑真和上坐像」はどのように誕生したのだろうか?唐招提寺第88代長老の西山明彦氏によると、鑑真は日本に到着してから、東大寺などの国立の寺院で戒律を伝えた。当時の日本では民衆の税負担が大変重かったが、出家した人は税を納めなくてもよかったため、「和尚」は誰もが希望する身分となった。しかし、寺院は全て国の資金で建てられるため、一定の地位がなければ出家して僧侶になることはできなかった。鑑真はより多くの悩める民衆が仏法を学べるように、広く資金を集め、民間の力で唐招提寺を創建し、下層の民衆を受け入れてここで修行させた。

鑑真は763年に唐招提寺で亡くなった。弟子たちは鑑真の不朽の功績をたたえるため、彼の姿を模した坐像を制作した。これは日本において僧侶の像を祭る先駆けとなった。千年の時を経てもなお、この坐像は唐招提寺に国宝として大切に保存されており、毎年3日間のみ公開される。実は今回、新鑑真像と対面したのは国宝の坐像ではない。西山長老の説明によると、鑑真和上坐像を拝観したいという参拝客の熱烈な要望に応えて、3年前に国の認可を得て、オリジナルと全く同じ坐像を1体複製した。唯一違うのは色が少し鮮やかなことで、これは300年前の記録に基づいて複製したためだ。

西山長老は、鑑真の日本に対する貢献はとてつもなく大きいという。日本で仏教を普及させただけでなく、唐朝の最新の医学や建築、飲食など、人々の生活と密接に関わる知識を伝え、当時の日本人の生活レベルを飛躍的に高めた。塩や砂糖、味噌の作り方、現地の食材をどのように料理するかということも教えた。「千年かけて改良を重ねて日本人は今日の和食を作り上げ、世界遺産にも登録された。その根本にさかのぼれば、全て鑑真和上のおかげなのです」

壬生寺に安置 

新鑑真像は午後3時に京都の壬生寺に到着した。大殿に通じる道では、2列に並んだ幼稚園児たちが早くから待機していた。中日両国の国旗を振りながら、鑑真像の到着を歓迎するためだ。時間になり、太鼓や鐘を鳴らしながら、付き添いの人々と共に鑑真像がゆっくりと大殿に向かって進んできた。壬生寺の松浦貫主が先頭に立ち、茶道裏千家第15代家元の千玄室氏がその後に続いている。鑑真像が大殿に安置されると、千玄室氏が茶をささげ、僧侶が読経し、松浦貫主が新鑑真像の壬生寺到着を宣言した。

壬生寺は壬生地蔵の通称を持つ、律宗に属する寺院だ。中世以来、京都の地蔵信仰の中心として知られている。松浦貫主は何度も揚州に足を運び、鑑真と深いつながりのある大明寺と文峰寺を訪れた。安置セレモニーの後、松浦貫主は記者の取材に答えて「鑑真和上は日中友好のパイオニア。その精神を引き継いでいきたい」と話した。鑑真は中日両国で高い名声を得ている。記録によると、鑑真は日本で国宝級ともいえる待遇を受けていたという。逝去の知らせが揚州に伝わると、現地の僧侶は全員3日間の喪に服し、龍興寺で大規模な法要を営んで追悼した。1963年は鑑真没後1200年に当たり、中国と日本の仏教界は共に大型記念イベントを開催した。80年、鄧小平氏の後押しの下、唐招提寺の森本孝順長老が鑑真和上坐像の「中国里帰り」を実現。この際、揚州の大明寺が修築され、中日国交史における一大イベントとなった。

インタビューの最後、唐招提寺の西山長老は貴重な書画を記者に見せてくれた。それは、中国仏教協会の趙樸初元会長による「仏心」の2文字だった。病床にあった趙氏を見舞った際に贈られたものだという。「趙会長は鑑真和上の精神と友情を若い世代に伝え、尽きることのない中日友好交流の源泉にしなければならないと念を押すようにおっしゃっていました」と西山長老は当時を振り返って語った。

壬生寺の松浦俊海貫主が人々を率い、仏堂に鑑真像を迎え入れた(写真·于文/人民中国)
壬生寺の松浦俊海貫主が人々を率い、仏堂に鑑真像を迎え入れた(写真·于文/人民中国)
壬生寺では幼稚園児たちが首を長くして新鑑真像の到着を待っていた(写真·呉文欽/人民中国)
壬生寺では幼稚園児たちが首を長くして新鑑真像の到着を待っていた(写真·呉文欽/人民中国)
唐招提寺で新旧の鑑真像が対面した(写真·呉文欽/人民中国)
唐招提寺で新旧の鑑真像が対面した(写真·呉文欽/人民中国)
趙樸初氏の書道作品を紹介する唐招提寺の西山明彦長老(写真·呉文欽/人民中国)
趙樸初氏の書道作品を紹介する唐招提寺の西山明彦長老(写真·呉文欽/人民中国)
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