黄河流域の麺食文化

2023-05-29 15:54:00

陝北の日常の麺食品 

陝西省には、独特の麺食文化がある。つまり小麦粉で作られた各種の食品が生活に密着して存在する。

南河底は陝西省北部の佳県の黄河近くのごく普通の小さな村である。一九四七年毛沢東が陝北に転戦する時、ここに数十日泊まったことで、この小さな村が有名になった。一九八〇年、中央美術学院の学生だった私は同級生と一緒にここで卒業創作をやったが、住んだのは毛沢東がかつて住んでいたという窰洞ヤオトンである。あの十数日、素朴な劉維国生産隊長が毎日朝早く門を敲き、朝ご飯を作ってくれた。黄土高原は日照りで水不足のため、農民たちは旱魃に強いアワを植えていた。加えて当時この辺はまだ非常に貧しく、一般の家庭は年に十数斤(一斤は五百グラム)かの小麦粉しか手に入らないので、旧正月やお祝いごとの時にしか食べない。ところがどんなに説得しても、劉隊長は生産隊の限られた小麦粉で、毎日私たちのために麺を作ってくれた。心の温かい陝北人はいつも一番いいものをお客さんに食べさせる。あの時は麺食品が一番のご馳走だった。ほかほかの麺が出来上がるといつも、理由をつけて劉隊長は帰ってしまう。自分は幹部なので、みんなのものに手をつけるわけにはいかない、と言った。夕方、隊長はまた来て火をおこし、大鍋に水を入れて、アワ、そして“銭銭チエンチエン(大豆)”と呼ばれるぺちゃんこに引きつぶしたものとナツメの三種を鍋に入れて粥を作る。甘くておいしくて、その味は今も忘れられない。

二十八年の歳月が過ぎ去った。二〇〇八年の旧正月後、私がそこに戻って会った劉隊長はずいぶん年寄りになっていた。「改革·開放」後、彼の家もずいぶんと変わっていた。窰洞も十数年前に新しく建て、明るくて広くなっていた。息子一人と三人の娘もすでに結婚し、息子と嫁は近くの道教の聖地·白雲山でお土産品の小さな店を開き、いつもは山に住み、元気なかわいい孫が彼らと一緒に暮らしている。私たちが泊めてもらったあの数日、老夫婦はあれこれとおいしい料理を作ってくれた。もちろん、ほとんどは白い小麦粉で作った餃子やマントー、烙餅ラオビン(小麦粉をこねて油や塩を加え、丸く伸ばして鍋で焼いたもの)、包子バオズ(肉まん)などであり、麺の造り方はいろいろ、麺棒でうすく伸ばすか、引っ張って伸ばすか、つかんで引っ張るかである。陝北の旧正月の定番「油糕」というのは、粘りけがあるアワの粉をこねて丸めて揚げたもので、旧正月前にたくさん揚げて作り置き、正月中これで客をもてなす。今は普通の食品になった白い小麦粉も、ここでの生産はきわめて少ないので、ナッメを売った金や観光などで稼いだ金で買う。他にもアワで作った撈飯ロオファン(八分炊きしたアワをすくいだして別の釜で蒸したもの)や粥、トウモロコシで作ったマントーや粥なども主食として食べる。ジャガイモは野菜にも主食にもなり、蒸しても炒めても味が良い。昔は食糧が少なかったため、ジャガイモが主な食べ物で、野菜といえばカボチャだったが、今はどの季節でも新鮮な野菜が食べられる。ここは県都から五キロメートルしか離れていないので、なんでも手に入る。

窰洞では、寝るカン(中国式オンドル)が食事を作るかまどとつながっているため、料理する時の余熱を使って床を暖めることができる。お客が来ると主人はいつも炕の上に招くので、私はよくあぐらをかいて座っていた。隊長は地面の小さい腰掛に座ってふいごをリズムよく引き、奥さんはかまどのそばに立ちニコニコしながら湯気が上がる釜に麺をつかんでは投げ込む様子は、一幅のめでたい家庭を描いた絵に見える。劉隊長は若い時は朝早くから夜遅くまで、山で石材を切り出しては河の堤を修理し、黄河では棹をつっぱっては波風と戦い船を進め、毎年のように繰り返し黄土高原を耕して、わずかばかりの糧を得、いつも空腹を抱えていた。ここ十何年、黄河流域のナツメが全国に売れて収入が増え、生活もよくなった。今では衣食も足り、テレビで世界のできごとが見られるし、電話もあって外と連絡が取れる。祝日には家族全員そろって一緒においしい料理を食べたり、村の住民と大いに盛り上がる。劉さんはそれ以上の高望みもないので、それなりに満足し幸せだという。

黄河の河辺の小さな村――南河底の一角
黄河の河辺の小さな村――南河底の一角
自宅の窰洞前の劉隊長と小さな孫
自宅の窰洞前の劉隊長と小さな孫
旧正月の村の農民はどの家もみな、例年通り盛りだくさんな料理を神様に捧げる
旧正月の村の農民はどの家もみな、例年通り盛りだくさんな料理を神様に捧げる

肉挟饃ロウ ジア モー」と鴨肉スープ 

潼関は陝西、山西、河南の三省が交わるところにあり、ここから西へは西安を経て宝鶏まで全部「八百里秦川」(秦嶺の北側にある渭河いがの沖積した谷や平原)に属する。陝西省の豊饒な農業地区であり文化の中心でもある。

黄河の河辺に残る潼関古城跡の城垣がなんとも物寂しい。後漢(二五~二二〇年)末に曹操が潼関を築いて以来ここはずっと軍事的要衝として歴代の兵家の争奪の場となった。二十世紀前半の戦火とその後のダム建設で、潼関古城ももはやいにしえの面影はなく、街の通りもひっそりとしてしまった。

ある小さな料理店に入り、「肉挟饃」(四十九ページの写真参照)と鴨肉スープを注文した。女主人が料理を作っている間に、主人とそのお父さんとしゃべり始めた。主人のお父さんが言うには昔、潼関は商業が盛んで、三つの省が接し、水路も陸路もここで交わり、舟や馬、南北から往来する貨物で、旅館や料理店は大繁盛だった。

潼関料理の特色は陝西の人にはよく知られている。潼関の「肉挟饃」の白吉饃」と呼ばれ、サクサクして、もろく、香りもよい。その肉は「腊汁肉ラージーロウ」で、脂身なのに脂っこくなく、赤身なのに口中に油が広がる。噛まなくても口の中で自然に溶け、食べた後も香りが消えない。饃を鉄板で焼いた後、さらにコンロで焼く。こうすればガワが薄く食感がさくさくで、中が柔らかくなる。肉へのこだわりはもっとすごい。まず脂身と赤身が適度な豚肉を念入りに選び、冷たい水で洗う。長方形に肉塊を切り分け、その肉をだし汁の入った鍋に入れ、水を加えて食塩、料理酒、糖色、さらに八角、桂皮、花椒、丁子など十数種類の調味料を詰めた袋を入れて、まず強火で沸騰させ、それから弱火で煮る。二時間後、とろ火にして蓋を閉めて三時間ないし四時間煮る。肉が完全に柔らかになれば取り出す。さらに小さな肉塊に切り分け、特製の汁をかけ、出来上がったばかりの饃に挟む。これで出来上がりだ。

伝説によれば唐の太宗李世民は初めて潼関の「肉挟饃」を食べて、「素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らしい! 天下にこんなうまいものがあったのに、知らなかったとは!」と激賞したそうだ。

「肉挟饃」と一緒に味わう「鴨肉スープ」が、実は鴨肉で作ったものではない。豚のヒレ肉を薄切りにして卵白を加え、鍋で炒めて白くし、キクラゲや青ねぎなどの食材や薬味を入れ、スープと水と香油シャンヨウを加えたものだ。言い伝えによると八カ国連合軍を避けて西太后が北京を離れ、その戻り道潼関にさしかかった折、当地の役人が宴を設けて接待した。このスープを飲んだ西太后は宮廷の料理人が作った鴨肉のスープとよく似ていると言ったので名付けたという。「鴨肉スープ」はこうして一躍名を挙げた。

何とまあ、こんな簡単な軽食が二人もの歴史上の大人物と関わりがあるとは思いもよらなかった。おなかいっぱい食べて、気分も上々。さてお勘定をしてみると、鴨肉スープが八元、肉挟饃一つ一·五元が二つで三元、合わせて計十一元と聞いて二度びっくり。

陝西省の人の一番好きな食べ物は何かと主人に聞くと、「そりゃもちろん麺だよ」という答えが返ってきた。潼関から宝鶏へ、陝北から陝南に至るまで、麺館がレストランよりも多い。西安だけでさえ、数千軒もの麺館がある。にぎやかな都市部はもちろん小さな村にも、金持ちも百姓も、お祝いも悲しみにも、麺は欠かせない。

専門家の考証によれば、五千年前の西安半坡仰韶文化遺跡の中からすでに小麦が出土し、麺の起源は陝西という。現在陝西の麺の中で、名前があげられるものだけでも数百種類ある。渭南地区だけでも「華県ジャガイモ麺」「猿頭麺」「渭南衡香麺」「韓城扇麺」などがあり、もっとも細いのは髪の毛ぐらい、一番幅広の麺は六センチもある。

陝西人が麺を食べるときの調味料はいたって簡単で、主に唐辛子、ねぎ、油と酢である。陝西人は唐辛子のことを「辣子」という。俗に「陝西人は変だ、おかずは辣子だけ」という。陝西の唐辛子は赤くて味わい豊かである。食べる時に熱した油をかけて、それから食べるので、「油かけ辣子」とも呼ばれている。現地の人は「油かけ辣子は食べれば食べるほどおいしい」という。

黄河の河辺にそびえる潼関古城遺跡
黄河の河辺にそびえる潼関古城遺跡
「白吉饃」をこねて焼く女主人
「白吉饃」をこねて焼く女主人
肉挟饃と鴨肉スープ
肉挟饃と鴨肉スープ

気持ちがこもる「花マントー」 

旧暦の正月十五日、渭南地区は大雪だった。この日、華県杏林鎮李家坡村のある農家がちょうど嫁をもらうところであった。花嫁を迎えに行った花車が帰ってきた。にぎやかな音楽が喜びの雰囲気を盛り上げ、新郎の親戚や友人が玄関に集まる。新郎側の介添えの女性が車にかけよりドアをあけ、お盆の上の小麦粉で作ったペアの虎の形の「麺花(小麦粉で作った菓子)」を花嫁の首にかけ、花嫁をつれて玄関前に置いてある椅子に座らせた。この時爆竹が四方で鳴り、新郎が急いで駆けて行き花嫁を体でかばう。爆竹が鳴り止むのを待って、花嫁を家に迎え入れる。

ふつう花嫁が新郎の家に入ると虎の麺花をつけられ、爆竹を鳴らす。隣の県では火鉢を跨ぐ。いずれも邪気を祓い二人の幸せと健康を祈る意味がある。

新郎の家の庭は本当ににぎやかだ。臨時に掛けた日除けの下に丸テーブルが十幾つきちんと並んで、親戚友人や村の女性たち、若者が料理人の手伝いをして野菜を洗ったり切ったり、鍋や食器を洗ったり、宴席の準備にいそしむ。新郎新婦の部屋のリビングルームが式典の会場である。その正面の壁に貼られているのが大きな赤い「喜」の字で、机の上は親戚や親友が送ってきた麺花でいっぱい。その中の最大の二つは、「大谷巻ダグゥジュアン」という。虎の頭、龍の体、魚の尾の形をしていて、上下に何種類の花や果物、動物の形をしたものが添えられている。この「大谷巻」は結婚式で一番尊い客――新郎の母方の叔父からもらったものである。新郎に何人もの叔父がいれば、いくつかの「大谷巻」がもらえる。「大谷巻」の上には何百もの小さい小麦粉人形が挿してあって、いつでもはがして子どものおもちゃにできる。

村の人によると、昔の華県では結婚式場の両側に「高饃盤」を飾る風俗もあったという。普通は主人の直系親族からもらう。「高饃盤」は、コウリャンがらで柱のようなものを作り、その外側を赤い紙で包み、このコウリャンがら柱に、赤い糸に巻きつけられた箸を九層か十一層挿す。その箸にさまざまの形の麺花が縛られる。蝙蝠の形の麺花は「福は内」の意味の「福喜臨門饃」で、蓮花瓶の形は夫婦が仲良くして早く「子どもを授かるよう祈る」意味の「平安如意饃である。

一つの「高饃盤」の上の麺花はおよそ五十キログラムもあり、俗称「四斗麦」といわれている。「高饃盤」は、陝西地方の結婚風俗の奇習といっても過言ではない。

麺花は、いろんな形の「花マントー(花饅頭)」であり、また「礼饃」とも呼ばれている。食べるだけではなく、人々の気持ちや期待をこめてやりとりする贈り物でもある。黄河流域の農村では麺花を贈る民族風習が普通に見られる。これはある一家が大きなイベントをする時の食べ物にもなるし、美しい飾りにも費用の節約にもなる、特別な意味をこめたものなのである。渭南地区では、出産から結婚、長寿の祝い、葬式など、人生の儀礼活動それぞれにちがった麺花があり、人間関係のバロメーターや美しい祝いにもなるという。

昔は農村の女性は誰でも麺花を作った。その出来のよさで、あの嫁は賢くて手も器用という評判が立った。今では農村生活のリズムも変わり、若い女性も出稼ぎに出て、麺花を作ることのできる人はますます少なくなった。人々の昔を懐かしむ気持ちを、今やビジネスチャンスに結びつけるものも現われた。「花マントー(花饃」が必要であれば注文して買えばいい。都市部の人もお土産やコレクションとしてよく買って帰るそうだ。

ペアの虎の形の麺花を花嫁に飾る
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新郎に引き連れられて家に入る花嫁。新郎の家の迎えの儀式
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クルミ、ナツメ、クリ、落花生は子宝に恵まれるというめでたい意味がある。ゲームでこれらを「奪い取る」
クルミ、ナツメ、クリ、落花生は子宝に恵まれるというめでたい意味がある。ゲームでこれらを「奪い取る」
親戚からもらった小さい麺花
親戚からもらった小さい麺花
新郎の母方の叔父から送られた「大谷巻」。もっとも美しい
新郎の母方の叔父から送られた「大谷巻」。もっとも美しい

女性がひねり出した芸術 

華県瓜坡鎮の農村主婦、今年六十二歳の鄭引弟さんを訪ねた。彼女は十一年前にもう一人の女性と一緒に小さな「麺花手作り作業場」を作った。看板もなく、設備といえる大した設備もない。小型の小麦粉捏ね機と製麺機を除けば、まな板ぐらいである。道具は極めて簡単で、包丁とハサミ、くし、それにナツメ、緑豆とすこしの食用顔料である。

麺花作りはそれほど複雑ではないが、うまく作るのはそう簡単ではない。どこかのちょっとしたミスが出来上がりのよしあしに影響する。まずは極上の小麦粉を使うこと。柔らかくてコシがあるので可塑性がある。小麦粉をよくこねることが麺花作りでは肝心である。発酵が過ぎるとひび割れるが、足りないと形がくずれて、蒸し上がった形がふっくらとしない。これらはすべて経験によるものだ。

二人の女性の麺花作りはまるでマジックを見るようである。何の下絵も参考にするものもない。小さな団子が彼女たちの両手で揉まれ、つままれ、圧され、巻かれていろんな形の生き生きとした麺花が作られる。例えば小鳥を作る場合はまず雛鳥の体を指でこねて形作り、それからくしで押したり、ハサミで切ったりしてから、ふた粒の豆で目をつける。いくつかの簡単な動作で、天に向かってさえずる小鳥が出来上がる。麺花を作ってから、すだれの上に置いて、布団をかけてオンドルに置き、オンドルのぬくもりで麺花をほどよく発酵させる。二時間後、鍋に入れて十数分蒸す。鍋を開けてちょっと形を整えて、さらに蒸す。麺花を取り出してから、熱いうちに筆で、描いたり塗ったりこすりつけたりのばしたりしながら、色をつける。最後に花や動物のばらばらの麺花を一つに組み合わせる。これで生き生きとした麺花の完成である。

鄭さんは麺花を作り始めてもう四十年以上になる。十一年前、出稼ぎで北京に行ったが、年齢が高過ぎたためわずか四カ月で帰ってきた。世間を知った彼女は、自分の麺花作りの腕を生かして暮らそうと、麺花の商売を試みに始めた。思った以上によく売れて、お祝いごとがあると麺花といったように注文が相次ぎ、彼女は自信を深めた。二〇〇八年のオリンピックの期間、彼女は自分が作った麺花を北京の著名な七九八芸術区に持ち込みいろんな流派の芸術作品と一緒に並べて、国内外のアーティストや観客に中国の農村女性の麺花芸術を見てもらった。今や華県の麺花は、中国国家級無形文化遺産に登録認定され、中国人の国宝となっている。

鄭さんとパートナーが工房で麺花を作る
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農業の主婦の手によって作られた各種の美しい麺花
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こねて作られた麺花をオンドルに置いて温める
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麺花作りに使う道具。このような簡単な道具と材料で作る
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竹の枝でつないで組み立てる。一つの動物が出来上がった
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