中国の養父母に愛され育てられた残留孤児が語る戦争の記憶

2025-09-02 16:14:00

今年は中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利80周年にあたる。終戦から1世紀近くが過ぎたものの、戦争によって引き裂かれたあの歳月を経験した一人一人の心に刻み付けられた記憶は今も決して消えてはいない。人民網が伝えた。 

日本にある介護施設で手の運動をする清野明さん(写真左)と若生豊美さん(写真右、撮影・許可)。

中国残留日本人孤児もまた戦争の被害者であり、戦争によって家族を失い、異国に取り残された。そんな彼らは善良な中国人に引き取られ、愛情を受けながら、平和な環境で育てられた。清野明さん(84)は、「戦争によって多くの家族が離散し、多くの人が亡くなった。これはとても残酷なことだ」と悲しみに満ちた声で語った。清野さんの父親は戦争で亡くなり、母親に連れられ、妹と共に逃げたものの、その妹は道中、不衛生な水を飲んだことで赤痢となり、山の中で最後を迎えたという。

若生豊美さんは5歳の時に、両親と姉2人と共に中国に渡った。しかし、戦争は無情にも、彼女の母親の命を奪い、父親も徴兵され戦地に行ってしまい、幼かった彼女と姉たちは帰る家のない孤児となってしまったという。白髪となった若生さんだが、「今でもこの話をすると、涙がこぼれそうになる」と声を詰まらせていた。

戦争の暗い影に覆われながらも、愛の光が消えることは決してなかった。中国残留孤児たちが、それぞれの中国の養父母について語る言葉には、感謝と敬愛の情に満ちていた。NPO法人中国帰国者・日中友好の会の池田澄江理事長は、「養母のことは永遠に忘れない。それは常に思っていること。本当は日本人の子だと、8 歳の時に初めて知った。その時はとても悲しく、恥ずかしいと感じた。でも養母は日本人が皆悪いのではなく、軍人や政府が悪かったのだと優しく諭してくれた。養母は学校に行ったこともなく、字も書けなかった。でもとても心優しく、人生において色々なことを教えてくれた。もし養母がいなかったら、今の私はいない」と涙交じりに語った。彼女はこれまで中日友好の第一線で活躍し、中国残留孤児を積極的に支援し、中日友好交流イベントの企画などを行ってきた。

中日の国交が正常化して以降、中国残留孤児たちは次々と肉親を捜し、日本へ戻ってきた。しかし言葉が通じなかったり、生活習慣の違いから、残留孤児たちが日本の社会に完全に融けこむことは難しかった。残留孤児2世が立ち上げた介護施設「一笑苑」は、こうした残留孤児のために、自由に交流したり、安心して老後を過ごしたりできる場所を提供している。「一笑苑」の代表取締役である佐々木弘志さんは、「残留孤児2世である私たちは、中国人でもなく、日本人でもない生活を経験してきた。人並みに生活するためには、他の人の何倍も努力しなければならなかった」と話す。

こうしたあらゆる苦難は、最終的には平和であってほしいという極めて素朴な願いへと変わっていった。残留孤児たちは口々に、「平和が一番。戦争が無ければ、皆幸せに暮らすことができる」や「世界が平和であることが一番の願い。世界中の人が兄弟のように付き合い、皆笑顔で暮らしてほしい」と語る。これは戦争を実際に経験した全ての人の心の声であり、未来への心からの願いだ。

中国残留孤児の生涯と経験は、軍国主義が両国の国民にもたらした大きな苦難の縮図であると同時に、中国の人々の善良さと心の広さ、寛容さをも映し出している。こうした戦争を経験し、生き残った人々が経験したことは、戦争がもたらした傷が消えることはないということを私たちに教えてくれている。私たちは、歴史の教訓を心に銘記し、平和を大切にしなければならない。そうすることこそが、人類全体の根本的な利益に適うと言えるだろう。(編集KN)

「人民網日本語版」2025年9月2日

 

 
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