誇りと愛

2023-10-23 16:40:00

佐藤 史織


小さい私から見て中国は物理的に日本は心理的に非常に遠い存在だった。私の母は中国から来た。私の知らない何十年も前にである。母の日本の大学に通っていた時の成績表を見せてもらったことがある。非常に優秀な成績で最高評価以外見当たらなかった。私はそんな母が子供心に誇らしかった。異国に来てこんな成績をとれる母は世界で一番であると思った。

小学生になった私はクラスにはあまりなじめなかった。私は家族について聞かれたときに誇らしく母は中国から来たのだと言っていた。しかし、私が小学生の時にはpm2.5についてや、島の問題、漁船の衝突事故などテレビニュースでは連日中国が悪であるという報道が繰り返し流れておりクラスメイトはそれを鵜呑みにし、すなわち中国人も悪であると思っていたのだろう、私にも悪意をむけることがあった。色々なことを言われたがその中でも私に非常に怒りを覚えさせたのは唐突に聞かれた「どうして日本語を喋ってるの」という言葉である。もしかしたら悪意はなかったのかも知れない。しかし私はどうしても許すことができなかった。私はほとんど中国語が喋れない。生まれてこの方使ってきた言語は日本語であり、愛着もあった。この言葉を聞いてから日本に対しての愛は音を立ててしぼんでしまった。

高校生になっても私は怒りを忘れていなかった。その時、目をつけたのが小説のコンクールである。三学年の生徒全員が宿題として提出しなければならず、読書が好きだった私はこれ以上ない好機だと思った。それから、課題の提出日まで策を練り何度も書き直しを重ねた。最高の出来だと思い結果を何か月も待った。結果は佳作入選。しかし、私が高校一年生だった年はコロナウイルスの流行り始めであり、何をするにも制限があった。本来ならば表彰式に呼ばれるはずだったものが、帰り際に先生におめでとうの一言と共に表彰状が渡された。悔しくて、悔しくて母に報告するのもためらわれた。母は私を褒めてくれた。しかし、その言葉は私を満足させてはくれなかった。だれも、誰も私のこの結果を知らない。私になんで日本語を喋っているのかと言い放った同級生はこの結果を知る由もない。それから半年後同じ課題が出た。前回の改善点をこれでもかと直し、自分でも前回より面白いと思った。提出の日の私の顔は恐らく目も当てられないものだったと思う。結果は会長賞上から三番目の賞であった。それでも私は満足していた。二年生の終り頃にはコロナウイルスへの対策も前よりは緩やかになっており、表彰式こそ開催できないものの、学校のホールでの賞状授与が行われた。表彰状を受け取った瞬間の嬉しさは今後忘れることはないと思う。母に見せるととても喜んでくれ、小さいときに母に感じた誇らしさを自分に感じることができた。母は毎日のように中国にいる親戚たちと連絡をとっているWeChatでこのことを報告してくれ、ビデオ通話で伯父たちも自分のことのように祝ってくれた。家族の笑顔を見ていると怒りの気持ちはだんだんと薄くなっていった。ここにきてようやく他の入賞した作品も読んでみようという気持ちになり、入賞者に配られる冊子を開いた。そこには未来や夢や友情を芸術的に描いた小説が並んでいた。私はここで久しく触れていなかった柔らかく優しい日本語に触れた。もしかしたら自分で触れることを拒んでいたのかもしれない。思えば、私の周りには優しい言葉はあったのかもしれない。おはよう、いってらっしゃい、うれしいときの言葉、楽しいときの言葉、悲しいときでさえも優しい言葉はきっと近くにあった。これに気付いた時から私の中の愛はまた少しずつ膨らんでいる。

三年生になったときまたコンクールに応募した。人生そう上手くはいかないもので、あの冊子に私の名前が載ることは叶わなかった。しかし、それでも構わない。私は日本語で文章を書き隣には母もいる。これだけでいいと私は思える。


 

 

 

 

関連文章