自分の目で確かめたい
濱出 珠季
大学生になって初めて中国語に触れた。しかし、がっつり中国語を学ぶというものではなく中国文化も取り入れた比較的易しい講義だったため、すんなり取り組むことができた。今まで私にはこれといった中国との関わりはなく、「中華料理は美味しいな」「今や世界をリードする大国だな」といったイメージが一般的であろうか。むしろ個人的には、中国語の抑揚高い発音やメディアによる中国人の買い占めを見て少し怖い印象を持っていた。
そんな中、なんとなく履修した中国語講義1回目。中国人の先生が教室に入ってきた。教室には、高らに声が響く。「你好!我的名字是○○、请多关照!」それから、先生は日本語で中国での生活や名前についてたくさん話をしてくださった。先生の話は本当に面白く教室中が笑いの渦に包まれていた。簡単な中国語紹介が行われ初めて声調記号を知った。独特な発音は私たちを虜にし、それからの友人との会話には中国語風で溢れかえっていた。そこで、はっと気づいた。そういえば先生が中国人であることを、なんの違和感もなく30分間話に聞き入っていたことを。私は、失礼ながらこんなにも愉快な中国人がいるのだと感動を覚えると同時に自分の愚かさを痛感した。民族に対する一方的なイメージのみで抵抗感を抱いていた自分が露わになった瞬間だからだ。「人は関わってみないとわからない」のような言葉では分かっていたつもりでも、結局はこの様の自分に本当にがっかりした。改めて自分の考え方に向き合うきっかけとなった。
中国語講義5回目を終えた週、私は友人とディズニーシーへ遊びに行った。平日ではあるものの多くの人で賑わっており、中にはたくさんの外国人観光客がいた。私たちがアトラクションの列に並んでいる途中、前の親子連れのリュックから日焼け止めが落ちた。正直私は拾って渡すのを悩んだ。中国人だったからである。「うまく話せなかったらどうしよう」「相手も日本人に抵抗感があったらどうしよう」私の頭の中はそんなことでいっぱいだった。それでも、中国語を学んでいるのだという小さな自信をもって、数少ないなか知っている中国語を言ってみた。「给!」相手と目が合う。次の瞬間「谢谢!」と笑顔で返ってきた。初めて会話することができて本当に本当にうれしかった。初めて中国人と繋がることができた気がした。この経験は一生忘れないであろう。
これらの経験から私は、自分の目で確かめることの大切さを学んだ。もちろん、全員がいい人とは限らないが少なくとも民族の違いを理由に自分から勝手なイメージを持つことおかしいのである。思い返せば、私が抱いていたイメージはどれもこれも自分の目で見たことではない、SNSやメディアによって得た情報しかない。そしてその情報媒体に映っていた人は何人であろうか。中国で考えれば、数人/14億人程度の話である。それをあたかも真実のように鵜呑みし、民族単位に一方的なイメージを持つのは不合理であった。現代における便利な情報化ゆえの落とし穴ではなかろうか。
しかしながら、現代において情報を切り離せないのも事実である。そこで私は、目にする情報をもとに「私たちとの違いを見つけるのではなく、同じを見つける」ことを提案する。違いを探したところで、民族の差異を助長する考え方に偏るだけであると思う。同じを探すことは民族を超えて同じを共有することができる。それは「笑顔をもっている」のような小さなことでいい。些細な発見が、固定概念を変えていく第一歩になると考える。
ひょんなことから、大きな学びを得ることができた。これからの大学生活では、経験を大切に考えること放棄しないでいきたい。そして自ら学ぶ機会を掴みとっていきたい。次なる目標は現地に足を運ぶことである。自分の目で本当を知るために。