「自由」を目指して

2022-10-26 11:29:00
楠山 晴香

私は極度の飽き性だ。幼稚園の年中さんの時に始めた水泳は一か月でやめて、体操は半年でやめた。好きな曲は一週間で飽きる。しかし、唯一続けていることがある。それは、書道である。書道は私の人生の随所にいる。

最初に筆を執ったのは小学二年生。母に連れられて、受けた習字教室の体験の時だ。先生と一緒に書いた美しい字を見て、一足大人になったような気分になった。「わたしも大人な字を書きたい!」自分が初めて打ち込めるものを見つけた瞬間だった。

中学校では書道部に入部した。理由はただ一つ。スタート地点が人よりも有利な場所だと知っていたからだ。家から学校まで1時間半かかる。運動部だと毎日の部活に疲れ果て、勉強する時間はなくなってしまう。習字なら4年間習ってきた布石がある。そのような浅はかな考えは一瞬にして砕け散ることになる。ある日、顧問の先生からカレンダーに自由に書作する課題を出された。「自由」は難しい。自由に表現するための技術や想像力が必要だからだ。そこに、正解はない。「お手本を真似する習字と全然違う。」書道の本質を知った瞬間だった。それ以来、私は書道に真正面から向き合い、様々な作品を創作し、多くの古典を臨書した。そう、最近までは。

最近の私は、苦しんでいた。高校1年の時に、学年一位になって以来、私は成績に囚われてしまった。「次もくすちゃんが一位でしょ。」「くすちゃんが一位なんて当たり前じゃん。」褒められているのに、嬉しくない。感じる必要のない重圧を背負ってしまう。「一位を取るために勉強するわけではない。勉強がすべてではない。」頭ではわかっていても、心がついていかない。一位の称号は恐ろしい呪いを纏っていた。

燻ぶった状態が続いている中、今年も書の甲子園に参加することになった。まず、自分の書きたい古典を選ぶ。エンジンのかからない私はボーっと過去の優秀作品を見ていた。すると、ある作品が目に入った。『開通褒斜道刻石』の臨書作品である。何物にも囚われない奇想天外な筆運び。ネガティブな思考を吹き飛ばすには十分だった。早速、私は調べた。これは褒斜道という交通上重要な険路を修復し、開通したことを褒めたたえたものだという。デコボコの摩崖が生み出すざっくばらんな雰囲気と素朴で壮大な情懐。そこには、道を切り開いた達成感と未知を切り開くワクワクに満ち溢れていた。まさに、自由だった。

現在の日中関係は自由だろうか。ハッキリ言って、窮屈だ。大気汚染、偽商品、新型コロナウイルス、島の問題。中国に対して良いイメージを持つ日本人は少ない。なぜなら、メディアから発信される一面的な事実によって、知らず知らずのうちに色眼鏡をかけているからだ。言い換えれば一方的な考え方しかできなくなっているのである。この状態を窮屈に感じてしまうのは私だけだろうか。日本と中国の間には先人が置いてきぼりにしてきた問題がある。これらは必ず解決しなければならない。しかし、硬化した思考を持ち続ける限り、解決できる問題も解決できない。牽制してもプレッシャーをかけても、何も変わらないのである。それならば、付け焼刃な固定観念を捨てて、まっさらな状態で向き合うべきだ。

ある人は言う。「中国人はマナーが悪くて、滅茶苦茶だ。」私はそうは思わない。遊び心溢れる『開通褒斜道刻石』を生み出した人々に悪い人はいないはずだからだ。生きる時代は違えど、同じ中国人だ。書道という素晴らしい文化を創り上げてきた人々だ。一部の事実だけで、批判することは間違っている。

私は書道に救われ、励まされてきた。今度は恩返しをする番だ。感謝の気持ちとともに、中国の人々が大切に育ててきた書道の魅力を伝えていきたい。私は今日も「自由」を目指して筆を執る。

 

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