二十三にして天命を知る

2022-10-25 14:42:00

宮下 大河


私がこの世に生まれ「大河」という名前を授かったその瞬間に、将来中国と深く関わっていくことが決まっていたかのように感じる。

「大河」と聞いてまず何を思い浮かべるだろうか。おそらく多くの人は、日本では大河ドラマを、中国では黄河や長江を思い浮かべるだろう。そうは言っても、私の名前の由来は歴史ドラマや中国河川とは全く関係ない。両親は日本人で中国との関わりは皆無と言ってよく、強いて言うならば、母方の家系に在上海日本国総領事がいたぐらいである。そんな私は成長に伴い中国との関係を深めることになった。

7歳の夏に、父と兄に勧められるがままに卓球をすることになり、思いのほか楽しくすぐにクラブチームに通うようになった。今日でも、卓球といえば強豪中国を連想せずにはいられないのではなかろうか。実際に通っていたクラブチームにも中国人コーチが4名在籍しており、そこで初めて中国人の知り合いができた。その後も卓球を続け、16歳のときに高校の卓球部の中国遠征で河北省霸州市を訪れ地元チームの練習に参加した。このとき、通訳無しでは中国人選手とコミュニケーションが全くとれず、言語の壁を実感したことで、「中国」と「中国語」への興味が湧いたことを今でも鮮明に覚えている。

その影響もあり、大学は中国語が学べる学部に進学をした。半強制的な英語の勉強とは違って、中国語はどれだけやっても飽きることは無かった。20歳のときには、大学のプログラムを利用して4カ月間上海市に留学をし、本場中国で中国語を学んだ。留学先大学の図書館は常に満員で、早朝には開館を待つ行列すらできていた。そんな現地学生の学びに対する姿勢を目の当たりにし刺激を受け、私も図書館で勉強するようになった。学期末には全留学生から30名しか選ばれない優秀学生賞に選出され、奨学金をいただいた。これがきっかけとなり、将来は自身の中国語を活かした職に就きたいと考えるようになった。

帰国後も中国語の勉強に励み、2020年に感染症の蔓延から誰もが留学・旅行ができない中、21歳で重慶市に勤務することとなった。自分自身ここまで早く中国に戻って来るとは思っていなかった。長江下流の上海から上流の重慶へと流れに逆らう鯉のように歩みを進めることとなったのだ。そして、その中国駐在中に自身の天命を意識する出来事があった。局地的な豪雨が長江上流で発生し、下流の都市を守るためにダムを堰き止めた結果、止む無く重慶が「百年に一度の大洪水」の被災地となったのだ。幸いなことに、私は休暇を取って旅行に出ていたため被災しなかった。SNS上で拡散されている動画で住まいのアパート一階部分が冠水したことを知り、アパートの中から救助隊によってゴムボートで助け出される住人を見て、自分はとんでもなく運が良いと思った。「もしかすると長江が私を危険から遠ざけ守ってくれたのかもしれない」、そう感じさせるほどに。重慶に帰った後、一カ月は高台のアパートでの生活だったが、これは川が原因だけに水に流しておこう。

そんな中国駐在から帰国して数カ月経った今改めて人生を思い返すと、街々に流れる川のように人生のあらゆる出来事を線で繋げることができる。どれが欠けていても、今日の自分は無かったと思う。「家族が卓球をしていなければ」「留学に行っていなければ」「コロナ蔓延の時期が少しでも早ければ」など、ここまで来ると私の人生は天文学的な数字の上に成り立っており、中国と関わるために生まれてきたと考える他ないのだ。

 

乱世ではなく現世に生を得た日本人として、そんな私にしかできないことがある。私はこれからも中国と関わり続けて行くだろう。天命は避けることができないのだから。


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