言葉の力を信じて

2022-10-25 16:28:00

池谷 実悠


日本には「言霊」という考え方がある。「言葉」には神秘的な霊力が宿り、言葉の使い方次第で、未来も変わると考えられている。その「言霊」を信じて、アナウンサーの仕事の合間に、独学で中国語を勉強し始めて一年半。ついに目標としていた試験に合格した。

きっかけは大学4年生の時、卒論の資料収集で訪れた中国でのことだった。当時、私が中国に抱いていた印象は、幼いころにニュースで見た、抗議デモの影響が強かった。人々が大通りで口々に日本企業への不満や、日本政府への批判を叫んでいた。中国語は分からなかったが、横断幕に書かれていた言葉の意味はすぐに理解できた。横断幕に真っ赤な字で書かれた「日本鬼子」という言葉は、それまで外国人といえば、日本好きで、日本人に友好的な人にしか出会ったことがなかった私にとって、かなりショッキングな出来事として記憶されていた。だから、中国行きは、正直に言うと、乗り気ではなかったし、行きの飛行機に乗るという時でさえ、「日本鬼子」という言葉が思い出されて、とても不安になったのを覚えている。

しかし、中国に着いて最初に乗ったタクシーで、私の不安は払しょくされた。運転手さんは、私の拙い中国語に一生懸命耳を傾け、私が話した何倍もの「言葉」を返してくれた。ほとんど聞き取れなかったが、その表情は、日本から歴史を学びに来た学生に、よく来てくれたといわんばかりだった。幸先よくスタートした一週間の旅の中で出会った人々は、まるで昔からの知り合いのように、皆、親切でおおらかだった。そして私を最も感動させたのは、「ようこそ中国へ。」「いい旅にしてね。」など、中国の人々が私にくれた、たくさんの温かい「言葉」だった。中でも、「日本人の若い子がよくここにきてくれた。」と、南京の本屋さんでかけられた一言は、幼いころテレビで見た「言葉」が原因で、不安を感じ、固まっていた私の心を、同じ「言葉」で安心させ、柔らかく溶かしていった。

初めての中国で、人々の温かさ、思いやりの深さを知り、あっという間に、私は、中国を愛する日本人になり、それと同時に「言霊」の強さを身をもって感じた。そして、中国の人々の「言霊」が、人と人が顔を合わせて、優しい気持ちで言葉を交わせば、憎しみは生まれないのだということを教えてくれた。

学生から社会人になり、テレビ局のアナウンサーとして働くようになってからは、多くの人に自分の想いを、自分の「言葉」で発信できる機会が増えた。番組内ではもちろん、公式のSNSアカウントで中国語講座の動画を配信したり、中華コスプレをしてみたり、北京五輪ではスタジオ進行を務め、少しでも日本の人々に、中国の本当の姿が伝わるように努力した。コロナ下で中国に行くことが難しい今、私たちはSNS上で、中国の文化に触れ、直接会えずとも、言葉のやり取りをすることで互いに理解を深めあっている。最近では、中国インフルエンサー「ワンホン」のメイクが話題になったり、本格的な中華料理店である「ガチ中華」が人気になったり、若者を中心に、少しずつ日中の心の距離が縮まっているように感じる。

そんな中、先日私の投稿に、幼いころ私を傷つけたあの言葉が返ってきた。今でも、時々そのような人に出会うこともある。しかし、もう私は負けたりはしない。

言葉一つで、誤解が生じ、互いに憎みあうこともある。しかし、私が中国で経験したように、言葉が、会話が、分かり合えないと思っていた人々を打ち解けさせ、互いに閉ざしていた扉を開ける鍵にもなるのだ。言葉は使い方次第。

現地の人と、現地の言葉で、中国語で、会話をしたいという思いから、忙しい仕事の合間を見つけては、必死で勉強をして、目標とする試験に合格した今、私は「言霊」を、日本と中国の人々をつなげていく為に使いたいと思う。

人と人とが直接に知り合い、言葉を交わせば、憎しみは生まれないのだから。


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