変わらないもの、変えてくれたこと

2022-10-26 10:14:00
葛 里華

おかずが足りなければ開口一番「塩卵」。夏はとにかく西瓜三昧。大好物はひまわりの種。

私にとって、父と暮らす生活は、毎日が異文化交流の日々だった。

19歳の時、留学生として父は日本にやってきた。父は母と出会って結婚し、私が産まれた。

幼い頃、私は父が中国人であることをよくわかっておらず、「私の家族はやけに中国に行くなあ」とのほほんと思っていた。

だからと言っていいかはわからないが、幼い頃から、私は正直、父のことがよくわからなかった。理解に苦しんだ、という言い方のほうが合っているかもしれない。

「怒っていない」と言いながら、ものすごく大きな声で話すし、語尾が強いし、人に「すいません」というと「謝るな」と怒られるし、謝らないと「調子に乗るな」と怒られる。

父はとにかく教育に熱心で、いつも私の成績を気にし、口うるさく勉強しろと言っていた。

こんな調子だから、父と私は物心ついた頃から口喧嘩ばかりしていた。

ある日、母から「これ読んでみて」と一冊の本を渡された。

それは、父と共に日本にやってきた留学生仲間たちの文集だった。

そこには、当時の私と同じ19歳の時の父の日記が載っていた。

ページをめくる度、私の知らない父の姿が浮かび上がってくる。日本のことをよくわからずに中国からやってきて、同級生たちと親元離れて勉強に励む父の姿。

中でも印象的だったのは「今日、面白い遊びを発見した」という日記だった。

「僕が“つくえ”と言い、次に単語の終わりの言葉から始まる言葉を言います。この場合は“えんぴつ”が正解です。これは、単語を覚えるのにとてもいい遊びです」という内容だった。

きっと、かつての父にとっての日本こそ、毎日が異文化交流だったのだろう。

この文章を読んだ時、父が事あるごとによく私に言っていた中国語の意味が頭の中に浮かび上がってきた。

「好好学 天天向上」。よく学び、絶えず進歩せよ。

父が学生の頃、中国はまだまだ貧しかった。

勉学に励んだことで、日本に留学に来られて、職業の幅に恵まれたと言っていた。

文集には、父含め留学生の人たちの“今”も描かれていた。

父は私と弟との写真を載せており“家族ができて幸せだ”と書いてくれていた。

19歳の私は、父の“強さ”に打ちひしがれた。

私には、父のように一人で孤高に勉学に励むほどの強さがあるだろうか。

父の姿を理解しようとしていなかった。そう思い、私は父の故郷・中国について学ぶことにした。中国の文化を知るために、中国語を学び、中国のドラマを観るようにした。

すると、怒っていると思っていた父の語尾などは、彼らの文化の一つであることがわかった。

家族思いで、何事も諦めない中国の人々のことを知る度に、父の私への態度の理由が紐解かれていくのを感じた。

今では私は父と中国語で会話するようにしている。

そうすることで、父のことが少しだけ理解できるようになった気がする。

私たち家族は、中国に帰ると必ず立ち寄る場所がある。

浙江省寧波市。父が産まれ育った街であり、父の両親、私のとっての祖父母・アヤとアニャのお墓がある場所。

幼い頃から行く場所だが、お墓に行く道中はこの10年で見違えるほど変わった。

最先端の街並みにたかが10年で変わるなんて、当時は思いもよらなかったが、父から教えてもらった、中国の人々の不屈の精神を考えると驚かない自分もいる。

ただ同時に、昔のような深い緑に囲まれた中国の街並みを懐かしいと思う自分もいる。

変わらないものはないのかもしれない。

物事も人も、変わり続けるものであるということはわかっている。

けれど、いつまでも脈々と受け継がれている「変わらないもの」は確かに存在する。

それこそが「文化」だと思う。

中国の人たちの強さ、明るさ、諦めない心。

「好好学 天天向上」が彼らの中には脈々と受け継がれていると、日々発展する中国を見てしみじみ思う。

私もこの精神を受け継ぎ、何事も前を向いて生きていきたい。

 

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