社会に潜む女性嫌悪

2022-01-07 10:58:58

                                          南京信息工程大学 文学院日本語科四年生 雨濛

 

最近上野千鶴子の『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』という本を読みました。本書では、「女性嫌悪」という社会現象をめぐって深刻な議論が交わされています。先日の東京オリンピック委員会で発覚した、女性に対しての不当な言論も、「女性嫌悪」と関係があるのではないでしょうか。

 「女性嫌悪」とは、文字通り、女性に対する偏見であり、悪意と圧迫を加える行為です。それは社会の至るところに存在しています。女性自身でも気づきにくいです。この種の人々は、露骨に女性への嫌悪感を示すだけでなく、多くの場合、主体的な女性に対して攻撃を加えます。簡単な例を挙げると、女性と男性が同時に組織のトップに立った時、彼らに対する評価は全く違っています。男性に対してはその成功をほめながらも羨ましく思うでしょう。しかし女性に対しては、家庭と仕事のバランスがとれるかどうかなどという質問が来るに違いありません。職業人として成功する前に、まず立派な妻と母にならなければならないのです。女性はいつもこのような悩みを持っているようです。

  このような現象が現れる要因は複雑です。まず、社会が長い間持ち続けている、女性に対するステレオタイプのイメージです。日本だけでなく、アジア全体、ひいては世界中の女性が男性の付属品と見なされています。男性は外で働き、女性は家で子供の世話をします。この社会的分業は人々の共通認識になっているようで、女性自身もそれに対して意見がありません。私の家でもそうです。父は仕事が終わって家に帰った後、いつもソファーで寝ていて、母は忙しく掃除を始めて、食事の支度をします。大半の家事は母一人が引き受けています。

  幸い、時代の進歩につれて、社会は昔のような遅れた姿ではなくなりました。性別はもはや人々の社会進出を制限するものではなく、自分の才能こそ競争力の源泉です。女性も間違いなく社会的競争力を持っています。そして自分のライフスタイルを追求する権利があります。

  ところが、一部の人はやはりそれを無視します。彼らは女性の外見を女性の価値を測る基準としていて、外見で価値をきめます。外見がその基準に合わない女性を軽蔑の目で見ます。オリンピックの開閉会式のクリエイティブディレクターで、66歳の男性はある侮辱的な提案をして物議をかもしました。女優の渡辺直美氏を開会式で豚に扮させるというものです。ただピックと「ピッグ」とをかけたものです。彼が自慢しているユーモアはまさに「女嫌い=ミソジニー」の現れです。

  嬉しいことに、若い世代では、多くの人は次第に男女平等意識に目覚め始めています。自分の言葉を反省して、注意するようになっています。中国でも平等な恋愛関係を考える若者が増えています。料理の腕前がいい男性も珍しくありません。このような人が増えて初めて、日本は男女平等を実現し、ジェンダーフリーを実現する可能性があります。

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