対岸への小さな旅――山口仲美著「日本語の古典」を読んで

2022-01-07 11:30:37

復旦大学 中国語言文学学部 博士1年 麦嘉倩

 

中国古典文学を専攻するものとして、日本の古典にも深い興味を持っている。同じ東洋の世界とは言え、海の向こうの人々は、どんな風景に感動し、どんな喜びや悲しみを感じて生きていたのか、好奇心が湧き出る泉のように尽きない。

中国では、東洋諸国の古典文化を中国古典の分枝と考える人が多い。近年、「盛唐の風景を見に行く」と言って、日本の神社仏閣をまるで中国の文化遺産かのように見て回る中国人観光客も少なくない。そこに日本文化に対する好意ある一方で、すべての東洋文化を中国文化の産物として捉える「傲慢さ」も見え隠れしている。

書店では、「源氏物語」の中訳本を「日本の『紅楼夢』」というタッグをつけて宣伝しているし、「源氏物語」に「紅楼夢」の面影を求めて読む人からは「この程度のものは中国の古典の比にもならない」という感想もよく聞く。和歌の訳本も同じ運命である。唐詩宋詞を絶対視する人の目には、31 文字という短小繊弱な詩体は、とうてい森羅万象の漢詩に敵わないし、読み比べの対象にすらならないだろう。このように、我々は多かれ少なかれ自国文化に対する優越感をぬけきれないところがある。

だが、それでいいのか。私は原典に一度向き合ってみようと、山口仲美作岩波新書の「日本語の古典」を読み始めた。奈良時代の「古事記」から江戸時代の「春色梅児誉美」まで、 歴代の古典から三十作を取り上げ、電車の中でもゆっくり楽しめる小さい本だ。この本に惹かれたのは、各作品の紹介は、題名通り「日本語」の特徴を切口として、 日本の古典の魅力を案内してくれたところである。例えば、「竹取物語」の作者は男性なのか、女性なのか、文法と語彙から分析する。「堤中納言物語」に登場する漢語を愛用する姫君は周囲の人からどのような女性と見られていたのか。「落窪物語」に主人公を虐待する継母はどう二枚舌を使い、敬語と下品な言葉遣いの間に転換するのか。

いずれも、原文を読まないと分からない日本語の面白さである。そして、この本を通して、私は日本の古典のある特徴に気づいた。それは中国の古典文学(士大夫の文章ではジェンダーの違いはあまり感じられない)に欠如する女性の声と顔が多彩にあるということである。著者の案内で日本文学の独自の魅力を知ることができ、古代日本人の独特な美意識や生き方を垣間見ることができた。

一国の文化は一国の言葉によって持ち運ばれており、どんなに優れた訳本でも、伝えきれない妙味がある。日本の文化を知るには、日本語の原典を読むのが一番。日本語の古来の特徴と習慣を知らなければ、日本の文学の魅力が理解できない。訳本は便利なスケッチなら、言葉は橋だ。スケッチを見て満足しない外国人読者は、自分の力で橋を掛け、川を渡り、対岸へ一度行ってみるが一番。山口仲美著「日本語の古典」のおかげで対岸への小さな旅ができた。今後もなるべくそうしたい。

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