天言はずして四時行われ、地語らずして百物生ず

2023-02-07 16:30:35

宋家興 上海対外経貿大学

まだらの残陽は黄砂に染まり、簫索の枯れ枝は銀色に輝き、遠くの途切れた壁と崩れ残った垣根は死のような静寂にたたずみ、聞こえるのは黄砂と白い雪が入り混じって空でヒュウヒュウと鳴いているだけで、息苦しい不安と恐怖が漂っている。「また村が一つ死んだ」という低い声が響き、映画『風の谷のナウシカ』が徐々に幕が開いた。 

まるで長年に伝わる予言の歌謡を聞ように、重厚で悠々とした叙事詩を味わって読むように感じられている。宮崎駿は常に神の関心事を気にかけていると言われている。『風の谷のナウシカ』は彼が思想家と予言者の姿で創作した作品で、人類の行く末を考え、人類の将来を予言し、重い憂慮を凝縮している。1984年に制作されたこの映画は、今日でも示唆に富み、警鐘を鳴らし、深く考えさせる物語である。 

古代の野蛮時代から近代文明、そして映画で描かれる未来の世界まで、自然はいつまでも愛に満ちた母のように、万物を静かに育てている。しかし、この母の無私と慈愛に人類はどう応えるか。映画では、トルメキア軍司令官である皇女クシャナは傲慢の代表として、巨神兵を無理やり孵化させ、王蟲たちを死滅させようと試み、いまだに覇権と戦争、烈火によってのみ大地の主導権を取り戻すことができると固執している。このような傲慢と無知が、私たちにはあるのではないだろうか。見て、戦争の炎は古代から今まで消えることはなく、権力と欲望、征服、破壊、どれだけの命が砲火の下の怨霊になり、大国の競い合いの碁盤の上に消えてしまったか。聞いて、私は北極熊の悲鳴を聞いた。やせこけた北極熊はすでに海にどのくらい漂っているかわからなく、足元に残った氷もだんだん溶けてしまう。果たしない海に向かって叫ぶが、それに応えるのは死亡だけである。過剰な資源採掘、無節制な排気ガスにより、地球温暖化、高温電力制限、干ばつ、山火事……これは自然の怒気である。嗅いで、昔の馥郁たる花の香りは嗅げず、マスクの中の汚く息苦しい空気しか嗅げない。新型コロナウイルスが発生してから、今まで三年も猛威を振るっており、誰もがコロナの恐怖の下で生きている。このような日はいったいいつまで続くのだろうか。 

「明日は良くなるのかな」と、人類の何世代もの人々が災害に直面してこの質問を発してきたのではないだろうか。しかし、この世界は人類あってのものではなく、人類は衆生の一部であり、世界の一角に存在することを許されている。自分が創造主だと思っている人類は、ただ自然に育まれた生命に過ぎないのである。人類は自らの手で文明を葬ったが、太陽は千億年前と同じのように昇り続けている。青き衣のナウシカがゆっくりと降臨し、王蟲たちの金の触手に支えられながら歩き出すとき、その質問の答えが見つけられたようで、謙虚と畏敬こそが、この満身創痍の世界を癒す良薬である。 

宮崎駿--『風の谷のナウシカ』

 

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