私たちの農村へ
康寧 南昌大学
私は、田舎から町への移行を見てきた世代だ。渡り鳥のように、毎年町と田舎の間を行き来している。以前、「私の目から見た中国の農民」という作文のテーマがあり、様々なことを考えた。中日両国の農民は、どのような境遇にあるだろう。
田舎の人々は、「百姓」なのか、「ファーマー」なのか。「ファーマー」は農場主のことを表す。中日の歴史環境に置き換えると、「地主」の方がより相応しいと思う。生産形式から見ると、大規模な機械作業を採用して農作業をする人も「ファーマー」と呼ぶことができるが、「農家」のイメージとはまた違う。
初めて「百姓」という語彙に触れたのは、映画『七人の侍』だった。映画の中の百姓はボロボロの服を着て、ぼさぼさの髪で、侍とは対照的だ。中国の農民を見てみると、彼らと同じく、過酷な税金、戦乱、山賊や自然災害に耐えてきた。国は違うが、境遇には何の違いもない。これが「百姓」だ。
TEDで公開されている日本語スピーチ動画の中で、萩原紀行氏の『集合知の農業へ』を見たことがある。彼が有機栽培に取り組み、革新を続けている姿に、私は深く感動した。残念だが、中国の農村地域は広すぎるので、萩原さんの有機栽培のような新型農業を普及させるのは難しいと思う。
多くの農村地域では、廃棄された農薬の瓶やビニールが散見され、畑の土壌や水質の汚染がある。また現在、耕作をしている人たちは、大きな変化を受け入れようとしない。ドローンによる肥料散布には納得したとしても、新型農業に関する知識を学ぼうとはしない。
しかし、これは彼らのせいではない。彼らの耕作はやむを得ずしているのであって、事業としてではないからだ。私の故郷では、勉強する気がない子を「畑に戻れ」と叱る言葉がある。農作は、情けない、将来性がない仕事だと、自他共に認められている。
残念なことに、政府からの補助金があっても、農作物栽培の利益は依然として低い。若者は町に行って稼ぐことを選び、自己の生活を変えることができない中高年だけが田舎の土地を守っている。今までどおり、彼らの運命は足元の土地と結びついている。だから私は、「百姓」という言葉の持つイメージは、中国社会の農民に対するステレオタイプだと感じている。
日本ではどうだろうか。映画から見て取れる日本の田舎は、静かなイメージだ。歌を歌いながら、自転車で坂を駆け上る少女は名場面になった。映画コメント欄には「幸せ」、「人生の意義」や「自分探し」など、幻のような言葉を用いて日本の田舎生活を形容することが多いが、それは所詮芸術作品の雰囲気に過ぎないと思う。昔から今まで、桃源郷などありはしない。少子高齢化が進むにつれ、日本の農村も中国と同様に、「若者が離れ、高齢者が見守る」というジレンマに直面している。
これからの農村は、いったいどうなるだろう。農村のために何ができるかと聞かれたら、まずこの文章を書くことから始めようと。
(映画 黒澤明「七人の侍」)
(演説 萩原紀行「集合知の農業へ」)