大河ドラマと歴史の「感性」

2023-02-10 15:32:00

程暁紅 華東師範大学

恐ろしい顔は悪を懲らしめる為じゃ!不動明王は優しい仏様じゃ!外見と異なり慈悲深い!篤と御覧じよ!虎哉禅師の厳しい戒めで、幼い梵天丸は黙って不動明王像を振り向いて見つめた。しばらく考えた後、喜多、梵天丸も斯くありたい…」と。 

これは大河ドラマ独眼竜政宗』の中で非常に有名な一コマ、私にも深い印象を与えた。おそらく、そのような壮語をしたとき、その後どんな波乱万丈な生涯を送るのかは彼自身も想像できなかっただろう。父と決別し、実弟を殺し、母を追放せざるを得なくなり、時運にめぐまれず野望も水の泡になった。結局、不動明王に肖る夢は実現できなかった。しかし、彼は生き生きとした真実さを備え、その不安や迷い、葛藤などに何度も深く共感させられた。「馬上少年過ぐ世平らかにして白髪多し」というセリフも人生の無常を私の心に刻みつけた。 

確かに、伊達政宗は「天下人」になれず、時代の主人公でもなかった。様々な角度から賛否両論るのも事実である。このような人物を主人公とするドラマがこんなに素晴らしいとは思わなかった。私の印象では、中国の歴史劇や映画は常に「文章合為時而著」という理念を貫き、善良で正義感の強い物が主人公になる場合が圧倒的に多い。また、人物の運命が時代の縮図として描かれており、民族の存亡、世の盛衰などマクロなテーマにつながっているものが多い。これに対して、日本の大河ドラマは、よりミクロな視点で物語を捉える傾向があると思う。「時代の物語」より「人間の物語」が語られているのだ。 

そして、光を照らす角度によって影の形がかわるように、光の当て方によって歴史人物への解釈も変わる。例えば、かつて私は石田三成という武将をあまり好きではなかった。特に『独眼竜政宗』では、石田三成は秀吉の政権を転覆させた悪役として描かれた。しかし、『関ヶ原』や『真田丸』を見た後、新たな認識が生まれた。大谷吉継との深い友情を知り、無理な戦争だと分かりながらもやり遂げる決意を感じ、何百年経った今でもその勇敢さに感服した。複数のイメージのうち、一体どちらが真実なのか。その全貌を知ることは難しいが、様々な視点から見ても別の楽しみではないだろうか。そして、日本語学習者である私にとって、歴史の事実が黒か白か二者択一だが、大河ドラマからその両方に介在するある種の「感性」を感じてきた。 

縮図ではなく、拡大図の視点で見れば、わずか100年余りの戦国時代に、大きな流れが決まっていると言っても、その中の不思議な人生、切っても切れない人と人の絆など、数えきれないほどあるだろう。大河ドラマは評価が分かれることがあるにもかかわらず、長年にわたって日本の伝統的なドラマとして存在し続けている理由の一つだと思う。おそらく、まさにこのような感性的な視点のもとで、日本の歴史文学奥深さが見えてくるのであろう。 

 

注:作文に言及したドラマ・映画は、独眼竜政宗』(1987放送されたNHK大河ドラマ第25)、『真田丸』(2016年に放送されたNHK大河ドラマ第55)、『関ヶ原』(2017年制作の日本映画)。 

 

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