死から照らされる生への感謝――『おくりびと』が繋ぐ中国と日本

2023-02-07 16:28:57

林子晗 福州大学

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」 

これは、図書館で偶然出会った村上春樹の小説「ノルウェイの森」の一文だ当時の私は、「死は終わり」「死ぬとすべてが意味を失う」と思っていたので、その言葉の意味がよく分からなかった。しかし、2008年の日本映画『おくりびと』を見て、生と死についての考えが変わり、村上の言葉の意味が理解できるようになった。 

物語は、失業した小林、故郷の山形に戻る場面から始まるそこで「旅のお手伝い」という広告を見た小林は旅行代理店か何かと思い、さっそく面接に行ってみる。しかし実際は、旅は旅でもあの世への旅」をお手伝いする「納棺師の仕事だった。最初はその仕事を嫌がっていた小林だが、少しずつ納棺師という仕事に誇りをもつようになっていく。 

映画のなかで、印象的だった台詞がある。「死とは一枚のドアと言えるかもしれない。逝くなるというのは終わりを意味するのではなく一種の超越かもしれない。…〕次の世で私たちはまた再会できる」。なるほど、ご遺体を美しく、愛情を込めて扱うこと。それは、故人には「生きていた時の姿であの世へ行ける喜び」を与え、遺族には「いつかまた故人に出会えるという希望」を抱かせる行為だ。そう考えると『おくりびと』は、死を扱いながらも生きることの掛け替えのなさ」を伝えていると思うのだ。 

またこの作品は日本人の死生観に満ちている。日本人死に対する態度は冷静で、悼むことはあっても悲しむことはない。それは『おくりびと』の台詞にもあるように、冷静であり正確でありそして何より優しい愛情に満ちている。故人が尊厳を持って死後の旅続けられるよう、全身を丁寧に清める納棺師の手さばきそこには日本人の命に対する敬意が感じられる。 

他方、への敬意という、中国と日本には共通点ある。中国の人々は古来より、万物を愛する「仁」という儒教の教えや、森羅万象の尊重を唱える荘子の影響で、生命への畏敬の念を育んできた。そのため、『おくりびと』からひしひしと伝わる「生きることの掛け替えのなさ」は、中日両国の人々の心にきっと響くことだろう。死を想うことで生感じられるのだそれはまさに「死から照らされた生への感謝」である。私はここで、「死は生の一部」という村上の言葉をやっと理解した。 

1972年の「中日国交正常化」以来、両国では、無差別殺人や若者の自殺などのニュースが後を絶たない。そのため私は「中日国交正常化50周年」を機に、『おくりびと』から学んだことを両国の人々に伝えたいと思う。それは、各々の死生観の核心にあった「生命への畏敬」を取り戻してほしいということであり、掛け替えのない人生を生きる大切さを知ってほしいということだ。そして、急速な経済発展や世界情勢のなか、こうした「命を巡る対話」が、今後の中日間を結び付ける一本の糸になることを切に願っている。 

(日本映画:滝田洋二郎監督『おくりびと』)

 

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