雨にも負けず
王雲樵 四川軽工業大学
「雨にも負けず、風にも負けず、欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている」。
宮沢賢治の手に書かれたその僅か数語に、私は絶口した。
静まり返った部屋に座り、自分の影を黒い文字の上に重ね、『雨ニモマケズ』の詞藻をしんみりと心に沁み込ませていた。何の欲望も意地もなく、ニコニコ笑ってばかりいるなぞ、ただの変人ではないか。それに、何をされても頭にこないのは臆病ものに相違ないのでは。そう思いながら、眉を顰めていた。
「あらゆることを、自分の勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして忘れず」。
この数行に記憶の糸が手繰られ、ぼんやりと自分のことを思い出した。
私は自分のことをよく笑う人より、怒りやすい人だと自覚している。周りの人はそうに見えないと言うが、自分には分かる。他人の注目を浴びた時の苛立ち、自分の誤りにより醜態を晒された時のむかつき。いずれにせよ、そう感じるたび自分で自分が嫌いになる。そうやって己の悪癖を脳内に彷徨わせ、片手で顎を支えつつ、手を止めることなく最後のページまで捲った。
「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなにデクノボウと呼ばれ」という後半まで進んだ時、記憶の糸が何かと絡み合ったようだった。そして読み終ると、背筋をすっと伸ばし、両手で本を捲り、最初から最後まで何度も読み返した。
その糸先に結ばれたのはアドラー哲学の論点であった。さらに潜ると「全ての悩みは対人関係」という理論に辿り着いた。本来は一括りにし過ぎで最適な見解ではないと考え頭に留めていなかったが、『雨ニモマケズ』のこの詩句に合わせると色合いが一気に変わった。
「欲はなく、決して怒らず」。
所詮私の怒りも自分の欲によって生み出され、他人の視線によってもたらされた悩みに過ぎない。「らしさ」のまま生きていると自負しつつ、本当は世間に散々左右されている。そして他人の目線や論いを言い訳とし、私は思込み、まるで望んでいるかのように自分を競争という欲の檻に閉じ込め、怒りを捏造いした。
目から鱗だった。そこまで読み進めてようやく詩の深みを理解した。闇夜の部屋に詩の世界から飛び出した黒い文字が輝き、私の目に焼き付いた。
たとえ「みんなにデクノボウと呼ばれ」たとしても、「あらゆることを自分の勘定に入れず、よく見聞きし分かり、そして忘れず、欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている」でいいのだ。目の前に聳え立つ困難に気付いていたのに知らないふりをし、ただ逃げずに微笑んで立ち向かう。それこそが真の勇気と強さではないか。
私たちの存在には必ず価値があり、焦る必要はない。ただ「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」、今、この道を真剣に生きればいいのだ。強靭で忍耐強い心を持ち世間の流れから一歩引いて、匿名な傍観者でいるのも悪くないだろう。そうすれば、俄か雨に打たれて勝てぬとしても、負ける気がしない。
月明かりが窓からこぼれてきて、ふと欠伸をすると宵の月に目が行った。「褒められもせず、苦にもされず、そういうものに、私はなりたい」、私はそう口ずさみ、本を閉じた。
『雨ニモマケズ』 宮沢賢治