消えない金閣の美

2023-02-13 14:22:00

楠 華中科技大学

『金閣寺』は、究極の美を追求しながらも、最終的には美と醜が和解した話だと私は思っている。 

主人公溝口にとって金閣の美しさは極まっていた。現実の金閣寺を見たことはなかったが、父の語った幻の金閣ほど美しいものはないと思った。だが溝口自身は美の対極である。吃音で劣等感があり、自分は翼を傷つけられた鳥のように、どんなにもがいても運命の渦から逃れられなかった。修行で溝口は現実の金閣寺に出会った。何の変哲もない金閣を見て「美しいとは、そんなに美しくないものか」と彼は残念がっていた。しかし金閣寺での修行の日が経つにつれて金閣の美はむしろ彼の想像の中でもっと輝いてきた。 

金閣は抽象的で遠いが、身近な「美」は手が届いた。愛していた有為子の純愛の美、修行中の住職の高潔で神聖な美、友人の鶴川は光のような輝いた美、溝口はそれらの美を信じて疑わなかった。それに対し友人の柏木は醜くて障害があった。この友人は、「世界を変えるのは行為ではなく認知だ」と信じ、卑屈の溝口と違い、自分の不足を受け入れた。抽象的な金閣の美が具現化し、溝口の美への憧憬を誘った。溝口は美への追求を通して醜さから逃れようとしながら、自分の醜さのためいつまでも醜と美との闘いに苦しんでいた。 

金閣の美は、時間とともに溝口の心で段々変質していった。 

残酷な現実が美の幻影を打ち砕いてしまった。美とはなんと脆いものなのか。恋しい有為子は彼をあざ笑って裏切り、高尚な先生は花街に入り、その光のように美しい鶴川は醜さに耐え切れず自殺し、闇に投降した。その光には、鶴川が溝口の目を盗んで柏木の機嫌を取っていたという瑕疵もあった。溝口の命の中でたった一束の光が、無様に消えた。「美」と呼べるものには、知られざる一面があったようだ。かつての醜さへの劣等感と美への追求は、結局失望と不幸しか残らなかった。 

金閣は溝口の「魔」となり、究極の美が彼の目と心を覆い、金閣は徐々に溝口と対立した。鶴川の死によって美とのつながりをすっかり失い、極致の美に失望した溝口は、美を追い求めるのではなく、美と一緒に死のうと決意した。究極の美である金閣寺を燃やした。 

しかし美は消えなかった。私は柏木が語った「南泉の猫斬り」の話を思い出した。州はかつての溝口で、美を追求するために醜さと共存する苦痛に耐えた。南泉は金閣寺の焼き払った溝口で、猫を殺して美と醜の衝突の根源を解決しようとした。美は形の滅亡によって神滅することはない。 

『金閣寺』の最後は、「生きることにした」という溝口の独白だった。金閣寺を焼いても美を壊すことはできない、美醜は人の心に存在することを溝口が理解したと思う。金閣と出会った時、溝口が感じたのは正しかったかもしれない。この世に究極の美などない。美を讃えて醜を敵視するには及ばなく、自分自身の不完全を受け入れてこそ、美醜の争いから自己救済を果たすのだろう。 

『金閣寺』三島由紀夫

 

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