神作りについて

2023-02-13 14:37:00

曾銘娟 広州工商学院

『蜘蛛の糸』の物語は因果応報と人間の本性についての寓話のような印象が強いだが、視点を変えることで理解の幅は大きく広がり、以上のような分かりやすい教訓だけではなく現代にも使えそうなメッセージを読み取ることができると思う。この物語は、極楽の釈迦牟尼が蜘蛛の糸を使え、蜘蛛を見逃した地獄の罪人カンダタに報いたことを訴えているというものだ 

この物語を読んで、今の時代と同じようなものを感じた。この時代は、インターネットの発言者は誰でも人を裁くことができる。文中の釈迦のようなものだ。インターネットの発展により、人々は膨大な量の情報を非常に簡単に入手できるようになった。 彼らはネットの写真と文章だけを見って、自分が全知の「神」であると信じ込んで、それで勝手に裁いている。しかし、私は「その人がどういう背景で」「何が起きたか」「何か理由があるか。」を見ることが大切だと思う。この物語より大きな視野で物事を捉えられることを私に教えてくれた。 

物事を見ている人たちは今において皆お釈迦様になったが、お釈迦様はいったいどのような存在であったか。彼は「無意識に」カンダタを見て、蜘蛛を見逃したことを思い出し、自分自身の因果を果たせるため、因果応報の「応報」として蜘蛛の糸を差し出した。私が思うには、釈迦は人を救いたくなかったのかもしれない。人を救うのがただ極楽の釈迦牟尼の因果で、釈迦も「エゴイズム」を持っていることがわかると思う。彼はただの神格化された人だ。 

西洋史における「贖罪状」事件はまさに現実に起きた「糸」であろう。贅沢な生活を楽しむために、当時の教会は贖罪状蓄財の手段として使用していたが、当時絶望していた人々にとって、それは神の蜘蛛の糸のようなもので、地獄への恐怖と極楽への憧れから、他人から差し出した蜘蛛の糸を急いでつかんで、多くの人はそのために全部の財産を注ぎ込んで命さえなくした。私はもともとこの文の釈迦の存在は神の公平性と無私無欲を反映していると思っていたが、釈迦は恣意で蜘蛛の糸を差し出すのは鬼、または人間自身のことを思い出させるような気がする。 

ところで、善悪はどのように判断されるか。 釈迦とカンダタ、どちらの支持率が高いかによるのでしょうか。社会人は大体9割の善と1割の悪なら善人、1割の善と9割の悪なら罪人と見なされる。それなら、100%善人と100%悪人であるはずがないのだと思われている。しかし、これでは被害者が有罪で、罪人が無罪の可能性があるという詭弁になってしまうじゃないか。ここで私は犯罪者を擁護するわけではないが、ネットに判決された犯罪者というのは先入観で判断いただけで、犯罪者=悪人という結論を出すのはナンセンスだと思う。 

この物語に描かれているお釈迦様は実在な人に限りなく近いと思う。人間の本性は複雑で、善悪は明確に定義されていない。人は神性と動物性の総和で、物事に完全に正しいことも完全に悪いこともなけど、もっと全面的と客観的な目で見て判断すべきと思う。 

『蜘蛛の糸』

 

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