気付いていたのに、何も知らないふり

2023-02-13 14:53:00

張秦愷 温州大学

ある夏の日、灼熱の太陽の下、蝉が絶え間なく鳴いていた『吾輩は猫である』読み終えて本を閉じと、私の心は凍った湖に置き去りにされたようで、誰も気にされなかったのだ 

この小説の中から夏目漱石が当時の日本社会を批判することを見つけるよりも、猫としての一生を描写するところを楽しんでいる。猫が生まれたときの喜びから、水槽で死ぬときの悲しみまで、簡単な閲読体験であったが、読み終わると一種の孤独が襲ってきた 

そのような孤独感は、この以前に『夏目友人帳』という漫画を見たときの気分を思い出させている。物語は単純である。主人公の夏目貴志は祖母の遺物、妖怪の名前が書かれた友人を手に入れた。これを持っている人なら誰でも妖怪号令できが、夏目は自分の妖怪仲間である猫先生と一緒に、妖怪たちに名前を返し、彼らが望む自由を与える選択した。 

ツンデレな猫先生と内面的に控えめな夏目とのコンビが面白い。寂しさに耐えながらもお互いを守り合う二人の温かい姿を見ると、寒い真冬にも私の心がほっこりしていた。しかし、人間としての夏目がいつの日か妖怪を見る能力を失い、猫先生が見えなくなってしまうと思うと、寂しい気持ちになる 

かつて私は、「悲劇」というのは作家の悪趣味に過ぎないと思っていた。しかし、は「人間は孤独になる運命にある」と作者たちが婉曲に世界に伝えたいだけかもしれないと信じている。 

一生のほとんどを主人の家で過ごす猫は孤独で、親友を失う運命にある猫先生と夏目貴志も孤独だ。傍観者でしかなく、永遠に作品の登場人物と実際に触れ合えない私たちも孤独ではないだろうか。子供の頃親が保守的だと感じていたので寂しかったのですが、親になると子供の未来が永遠に見守ることができないと考えたら寂しくなる人の友とり見方が違ったり、人の夫や妻となり生活の些細なことで口げんかをしたりして寂しくなる。このような「孤独」の根源は、私たちの人生がそれぞれ違うことにあるのではないだろうか 

確かに、孤独は人生の避けられないことだが、それでも愛を見つけるべきだと思う。一話の物語が終わるたびに、夕日の残照の画面とともに、「気付いていたのに何も知らないふり」という主題歌の歌詞が鳴り響いて来る。 

初めて聞いた時、日本語が分からなかった私はただいいなと思って、その後中国語訳を読んだ「心有所覚、亦作不解」と書いてある。そして日本語を専門として勉強して、今、この歌は孤独に直面した時の態度を歌っているだと思う。それは、私たちはお互いの違いを理解しながらも、その違いを受け入れるということである。 

生まれも育ちもバラバラなわれわれは、孤独の檻から抜け出せない運命にあるかもしれない。しかし、『吾輩は猫である』や『夏目友人帳』のように、国境を越えて文化を疎通させる作品が存在するからこそ、山川が異域であっても、私たちは心の面において無言の交流をすることができる。このようなコミュニケーションをする上で、人種や民族の垣根を突破し、人類の普遍性より客観的に見えてきてさらに人類運命共同体の実現を推進できるのではないかと考える。それは、私の夢だけではなく、中日両国和解と交流の道を歩んできて、手を取り合って明るい未来へ邁進していくことの基盤でもある。 

――『吾輩は猫である』夏目友人帳』を読んで

 

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