日本語教師としての我が使命

2023-02-13 14:55:00

李楊 南京師範大学

時は明治三十六年、37歳の松本先生は国立学校を辞職し、宏文学院に転任した。その年から逝去まで、松本先生は中日教育交流と中国留学生教育のために、四十余年の苦労歳月を過ごした。従って、今年は中日国交正常化の50周年に当たり、さらに来年も松本先生が中国留学生教育従事の100周年で、この機会に、拙者は再び松本先生の功績と中日友好関係について述べたいと思う。 

松本先生の業績が、中国近代日本留学の発展に重要的な意味を持ったことは万人の認めるところであろう。松本先生は「近代日本教育界において最もすぐれた先生の一人」と中国の日本語教育界の共同認識である。戦時下の厳しい弾圧の時代には、日本の知識人が全面的に後退したにも関わらず、先生はあらゆる弾圧に屈せず、毅然として中国留学生に友好の意を示しており、日本教育界の良心の証となる。苦難に満ちた戦時下の中国留学生たちに激歴の励ましを送り続けた。 

周知のように、中日両国民の二千年以上にわたる悠久な友好往来は、近代において半世紀余りの痛ましい不幸な歴史によって断たれたことがある。所謂歴史は必ずしも平坦な道を進むものではないが、歴史の教訓を銘記することで、よりよい未来を切り開いていくことができる。 

私はかつて国際高校で日本語教師として数年間日本語教育事業に従事した。今は再び学校に戻り、勉学の道を辿っているが、往事を顧みると、感無量である。百年前、松本亀一郎先生は教育家として中日友好関係と教育事業のために東奔西走した。松本先生の率先垂範なご姿勢は私たち後輩の憧れである。教育は本来容易なことではない。中国では「教師は祖国の園丁、生徒は祖国の花」という言い方がある。教師の使命は謂わば「国家建設の棟梁を育成」することと「社会促進の人材を養成」することである。その責任の重大さは誰にでも分かる。青少年は国の未来と希望であり、中日友好の未来と希望でもある。私は日本語教師の一人として、常に自分の生徒に「中日永遠友好」という理念を強調している。両国将来の友好関係はまさに「90後」と「00後」世代によって構築されると言い切れる。 

日本には「風は吹けども、山は動かず」という諺がある。中日両国友好関係の発展は、多年にわたって風雨や紆余曲折をたどってきたが、中日両国民の友好の土台は泰山と富士山のように決して動揺することはない。中日関係の美しい未来を切り開くために、われわれ両国の教育者は他の業界よりまず一歩先んずる必要があり、その上たゆまぬ努力を続ける必要もある。 

千里の道も一歩から、中日国交正常化50周年以後も、両国の友好交流は世界時勢により時々多少の齟齬が生じることがあるかもしれない。それでも、松本先生の精神を継承して、その後足を踏めば、いつしか両国の国民は本当の意味で理解しあえると私は信じている。将来自分も後輩に胸を張って日本語教育のバトンタッチができるよう、微力ながら頑張りたいと思う。 

『松本亀次郎伝』

 

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