低炭素社会の発展の啓発――日本の伝統的自然観の現代における意義

2023-02-13 15:03:00

王一冉 雲南大学

「低炭素社会」という観点は最初に日本の学者が打ち出したもので、日に日に世界中で広く関心を受けるようになってきました。今や「低炭素社会」は確かに再考の視角を提供しており、機械論的自然観のもとで人類が次第に自然から離れていき、自然に対する略奪が環境と人の心に対して二重の衝撃をもたらした経緯について気づく契機となっています。 

人類と自然はひとつの世界に属しています。自然の占有と破壊が人々の膨張する欲求の現れだと言うならば、人々の心深くの困惑と脆さ、人々の閉鎖的な個人主義も、人々が自然の占有に囚われた原因かもしれません。たとえ当今の物質的文明の極度で発達している時代の中で、自然がますます客体の地位に置かれ人類と分かれつつあっても、自然の問題と人の心の問題の解決が同時進行できると考えてみることはできます。しかも人と自然との関係、「低炭素社会」の発展を考える過程で、学者らは現代の環境における東洋の伝統的自然観の重要な意味に気づきつつあります。彼らはそうした東洋の思考法を「自己組織化した宇宙観」と呼び、その宇宙観の中では人と自然はもう機械的に対立することなく、融合して共生しているというのです。そこでは、自然はその本来の姿を維持して、人と自然が溶け合うとき心の豊さが得られるといった雰囲気が醸し出されています。こうした雰囲気や世界観はいずれも日本の伝統の自然観念の中で裏付けを得られるものです。 

日本の伝統的思想の中で、自然が重要な地位を占めていることに疑いはありません。大西克禮が「あはれについて」で述べているとおり、「民族の生活や文化が一種独自の仕方に於いて、自然に即し、自然に順応し」ているのです。太古から中世、そして近世、近代に至るまで、自然感の要素はずっと日本民族の思考モデルの中に存在しています。もっと重要なのは、この過程の中で、自然についての敏感な観察、包容や共感が、すでにある種の重要な人格の要素になって確立されていることです。自然の中の個人として、彼らは最も明らかな四季の変化を感じることができ、誠実できめ細かい心を維持すると同時に、千変万化する万物の中に魂を通い合わせることができます。彼らは自然を詳細に観察し、また自然へと流れ込むことによって「物我同一」の境地に達するのです。しかも現代の視点から見ると、こうした人格要素の確立は非常に貴いものだと気づきます。当今の社会環境の発展と向き合うとき、トップダウンの強硬な措置は効果が微々たるもので、一人一人が自然と内心から発する尊重、許容のほうがより根本的な要素かもしれないからです。日本では、伝統の文化、芸術など多くの面にこのような要素が浸透しています。 

まず、日本の伝統の自然観は和歌の中に見られます。「歌は人にとって不可欠なもので」、歌の中で、人の心や世事と自然がともに表現されています。しかも日本の歌人にとって、自然と向き合う者の人格や精神などの要素は自然と融合したものです。人には自然の四季の移ろいが敏感で多情だと気づく感覚があり、人類の存在と自然の存在は不可分で互いに平等です。ちょうど『古今和歌集』に見られるように、四季の自然の中の様々な風物が誠実に描写され、本来の状態をとどめていると同時に、人の精神が深まる段階も自然の景色と共に表現されています。「春は鶯が花の中で囀り、秋は蝉が樹上で鳴き、特に意図はないものの、それぞれが歌を発している。物には皆そうしたものがあり、それは自然の理である。」自然は人と同様に感動を呼び起こす生命力を持っています。機械的な、硬直したものではなく、人類と同じように感嘆を歌に詠み、生命の活気を振りまいているのです。和歌などから伝わる自然の感慨の中で、人々は自然による喜びを感じ、自然に近づく自由を感じて、自然を慈しみその完璧さを感じるため、そうしてものを内心から発するのです。ここから推測できるのは、こうした自然観のもとで、人々が環境中の万物に配慮することは、内心に順応しており少しも抵抗がなく、自然を愛することは自分を大切にするようなものだということです。こうした観念のもとで、意識的に寛容で利他的な発展モデルを築くことには支障がありません。 

また、日本の伝統的な自然観は俳諧という芸術に織り込まれて深められてもいます。「天地を尊重して、万物、山川、草木と人倫の本意を忘却せず、落ちた花、散った葉の間で遊び戯れて、その過程で古今の道を貫く。」自然と俳諧の主意は密接な関係にあり、その基礎の上で、自然に対する尊重がさらに深まっています。中世以前の自然に対する態度が多くの主観的な要素を含むと言うならば、俳諧の中の自然はより純粋なものです。人々は真に自然の諦観に耽溺し、自身を十分に自然の中へ浸して、狭い自己の枠の中から飛び出して、自然な万物のリズムを体得しようとするのです。「像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ふ。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化ひかへれとなり」。日本の俳人は自然との深い同化に至っています。松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」、「雁さわぐ鳥羽の田面や寒の雨」、小林一茶の「初雪は竹にふる也痩竈」、「悠然として山を見る蛙かな」、与謝蕪村の「さくら狩り美人の腹や減却す」、「春雨の中を流るる大河かな」などの中からは、きわめて清浄な自然のリズムを感じることができ、深く心を動かされるのです。俳諧の中で、自然は様々に変化していますが、それはその活力あふれた生命の十分な体現であり、客観的に自然から学ぶという態度さえ俳諧では絶えず強調されています。自然に対する畏敬は、自然についての心からの理解を基礎に成り立ってこそ、このように、人と自然が溶け合う境地へ徐々に向かっていけるのです。 

「低炭素社会」の発展を追求するため、日本の伝統的自然観から啓発がもらえるかもしれません。それは東洋の思想の中の貴重な財産です。おぼろげで深遠な和歌から風雅の心である俳諧まで、いずれも自然と一体化する人格の特質、人類が自然と共有する生命力を体現しています。日本の伝統的自然観は「自己の欲求という狭い空間の中から出て行って、より広大な天地を尊重し受け入れる」きっかけをくれます。また、そうすることで、現在きわめて緊迫している環境問題に重要な解決の道を提供できるかもしれません。 

関連文章