永井荷風『日和下駄』中の環境美学思想についての簡単な分析

2023-02-13 17:17:00

白礼文 武漢大学

21世紀の今日、生態系の問題はますます各分野の研究者から関心が集まっています。文学の領域では、エコクリティシズムが新しい文学批評の流派として文学作品の分析に用いられ、伝統的な文学批評に新しい視角を提供しています。日本の文学者、永井荷風は自然描写に長じていますが、長らくその散文作品の研究では耽美主義作家であることに焦点が当てられ、作品中の審美の風格と特質についての分析が多く、その作品に含まれる生態の思想に関心を持つ分析はほとんど見られません。本文ではエコクリティシズム理論と結びつけて、永井荷風の随筆集『日和下駄』中の環境美学の観念について簡潔な分析を試みます。 

『日和下駄 一名 東京散策記』は、永井荷風が東京の路地を散歩しての見聞や所感を記録したものです。本の中で、荷風は伝統的な低炭素の交通手段についての好感と尊重を表現しています。明治時代にはすでに電車がとても発達していたものの、荷風は依然として徒歩という最も古くて原始的な交通手段を愛用しており、『日和下駄』には歩くことに対する感情が託され「日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返す霜解も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通、やたらに溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい」とあります。 

荷風が歩くのを好むのは、電車、汽車などの近代化した交通機関と比べ、古くからのこの交通手段のほうが自然を味わいやすく、道中で自然な美を発見して賞できるからです。このことは環境美学の観念と偶然にも一致しています。中国の生態批評研究学者、王諾が生態批評の美学の原則を3つ挙げていますが、その中に「溶け合いの原則」があります。「生態の審美は高みに立って遠くから見回すのではなく、身心を自然に投じること」です。閉鎖的な現代の交通機関は人と自然の間に隔たりを造っているため、徒歩でなければ荷風は妨げるものなく自然の中へ身を投じ、自然の美との出会いに喜ぶことはできないのです。荷風は本の中で、自分と友人が長距離を歩いて東京市内の古跡「有馬の猫塚」を訪ねた経験を記録しています。猫塚は想像していたほど大きくなかったものの、2人は隠された空き地の美しさに気づき、「私は実際今日の東京市中にかくも幽邃なる森林が残されていようとは夢にも思い及ばなかった。……樹木はいずれもその枝の撓むほど、重々しく青葉に蔽われている上に、気味の悪い名の知れぬ寄生木が大樹の瘤や幹の股から髪の毛のような長い葉を垂らしていた。……私たち二人は雑草の露に袴の裾を潤しながら、この森蔭の小暗い片隅から青葉の枝と幹との間を透かして、彼方遥かに広々した閑地の周囲の処々に残っている練塀の崩れに、夏の日光の殊更明く照渡っているのを打眺め、……たとえ衣服や持ち物に土や露が染みついても、荷風と友人は森の中を通ることを選んで、身心を自然に投じて感じ取っていたのです。こうした自然とのとても親密な交流は、現代人と自然の疎遠さとははっきり異なっており、環境美学の溶け合いの原則の体現です。 

伝統的な低炭素の交通手段を尊ぶと同時に、永井荷風はスピードと手軽さを追求した新型の交通機関に対して深い懸念を抱いており、ひねもす利益を追いかけている現代人を見下げ愚弄する態度をとっていました。彼は本の中で「市中の電車に乗って行先を急ごうというには乗換場を過ぎる度ごとに見得も体裁もかまわず人を突き退け我武者羅に飛乗る蛮勇がなくてはならぬ」と書いています。我武者羅という貶しようから、現代人が便利さを追求するあまり自然を鑑賞する心をなくしたことの対する荷風の感慨が分かります。荷風の感慨は、彼の生態学的全体論の審美思想を体現しています。生態を研究する学者は、生態審美は生態全体主義とするべきであり、伝統的な人間中心主義を基本思想としない、生態世界観で道具的理性の世界観を置き換えたものと捉えています。そのため、環境美学の審美基準は必然的に、人を中心として人の利益を尺度とするそれまでの美学とははっきり異なります。荷風が尊ぶ昔ながらの交通手段はスピードを求めず、時間を争わずに、道中で利益を考えることなく自然の景色を鑑賞します。反対に工業文明が発達してから大量に出現した新型の交通手段を見ると、たとえば電車、鉄道などは徒歩よりずっと速く手軽です。その目的がスピードと効果の追求なので、人々は道中の時間を省きに省いて、会社や工場へと急ぎ、経済利益の生産活動に身を投じます。明治時代、日本の資本主義経済が盛んに発展して、人々は道具的理性の支配するもとで、ひねもす忙しく物質と金銭を求め、伝統的な東洋の美学にある人と自然の調和した付き合いの詩の境地を捨てました。永井荷風は生態全体主義の視角に立ってこの現象に悲哀を感じ、同じ道理で「およそ近世人の喜び迎えて『便利』と呼ぶものほど意味なきものはない」という感想を記しています。 

新しい交通手段に対する批判のほか、荷風はまた工業文明が大量のエネルギーを消費し生態環境を破壊することに対する心配と不満も述べています。「今や工揚の煤烟と電車の響とに日本晴の空にも鳶ヒョロヒョロの声稀に」、「深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く煤烟と絶間なき機械の震動とによりて、やや西洋風なる余裕なき悲惨なる光景を呈し来った」。上述の批判はいずれも環境美学の「否定的な価値づけ」を明らかに示しています。荷風は本の中で自然生態への賛美と称賛を表現するだけではなく、むしろ工業文明による生態環境の破壊に対する批判と否定を多く述べていますが、それはつまり環境美学者バーリアントの言う「環境を犯し傷つけることの批判」であり、環境美学の中でとりわけ重要です。 

上で述べた『日和下駄』の簡潔な分析を通して、永井荷風が長期にわたり関心を集める耽美派の作家、文明批評家であるのみならず、環境審美の目を持った作家で、その作品にも環境美学の研究価値があることが分かります。前世紀の日本で生活していた荷風が本の中で表現した、炭素排出量の多い現代人の交通手段、極端なエネルギー開発と生態環境の破壊への憂慮は、今日の東アジアひいては世界で、無数の人が共に関心を寄せる問題になっています。環境審美の目で、生態批評の視角に立って古典作家の文学作品を見ると、文学と生態保護の領域に新しい啓発を提供できるかもしれません。 

 

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