死から生へ
丁奕臻 浙江大学
「今こそ蒼海の底に沈まんとおぼしめし候ふとも、つひには紫雲の上にこそのぼらせ給はんずれ。」
『平家物語』「維盛入水」の章にあるこの一文が、山田尚子監督によって監修された同名のアニメではビジュアル的に表現される。人々の誦経が響く中、維盛は穏やかに水に沈んで行く。その姿は、宛ら那智の海が紫雲を映し出す空へ舞い上がっていくかのようだ。
平維盛は平清盛の嫡孫で、十九歳の時、桜と梅をかけて宮宴で「青海波」を舞った。その清らかな姿に驚いた人々によって、「桜梅少将」と名付けられた。宇治橋で平家と平等院が激突した際、黒ずんだ兵士の中に白馬に騎乗した維盛の姿はひときわ際立った。アニメは橋合戦の結末を直接語っておらず、出陣を余儀なくされた維盛の個人的な感じを際立たせて描く。川越しを急ぐ喘ぎ声と死傷による泣き声に伴って、維盛が目にしたのは天に広がった烽火と、地面に散らばった死骸だけだった。急に音声が止まり、画面は暗闇の中で維盛の片目に固定され、そして戦場に立った維盛の姿に切り替わり、しばらくすると再び彼の潮垂れた目に戻る。
では、軍記物語をベースにしたアニメで、なぜ戦争に苦しんだ平維盛を描くためにこれほどの工夫が凝らされたのだろうか。その理由は、維盛に代表される戦争中の個人の浮き沈みを通して、「死に向かって生きる」という道理を明らかにしたい
からだと思う。
アニメのテーマ曲の歌詞「最終回のストーリーは、初めから決まっていたとしても、今だけはここにあるよ」とあるように、平家の意気軒高たる姿勢を目の当たりにすると、私たちは結末を知っているが、アニメで一人一人の「死に向かって生きる」という意志は壮美で力強く見える。また、恐れは勇気と同様に、絶望は希望と同様に、そして死も生と同様に記録される価値があることを思い知らされる。
さらに言えば、もっと長い時間尺度の下で私たちも平家が滅亡する運命のような予言の中にいる。私は死について初めて考えた時、「生きている者は必ず死ぬ」という言葉に恐怖と無力を感じた。教科書も先生も、死とどう向き合うべきかを教えなかったから、私は死に関するあらゆることを意図的に避け、「耳を掩うて鐘を盗む者」になってしまった。しかし、『平家物語』はこの人生の必修科目を補う。
実際に、死は人を絶やすが、死における思考は人を救う。「死から生へ」は、私たちを恐怖と憂鬱の悲観的な存在に追いやるのではなく、生の喜びを増やし、また「いかに生きるべきか」という問題に積極的に答え、より正直な生き方へと引き込んでくれるのだ。死のおかげで、過去と未来の間にある「今の瞬間」の大切さを発見させてくれた。だから、私たちは自分の人生を見つめ、希望を持ち続け、一瞬一瞬をつかみ、たとえ結末が分かったとしても、しっかりと進んでいかねばならない。
死が先にあることを知っていても、平然と「大丈夫」と言い、「今じゃない」と笑顔で返そう。