「余白」を駆使する鬼才
丁永恒 華東師範大学
横光利一の『蠅』は簡潔でドラマチックだ。舞台は真夏の宿場である。車夫はただ饅頭を食べたいがために出発しようとせず、乗客たちは待ち呆けていた。そしていよいよ馬車は出発したが、皆は崖の下へ墜落する運命を迎えてしまった。出発前、厩の蜘蛛の巣から抜け出した蠅だけが、唯一の生存者となった。
この小説は独特の風格を備えており、「余白」が最も目立つ特徴だと思う。
その一つ目は人の「余白」について。墜落死前の事件が主要な部分を占めているが、墜落死までは、人の間の会話は出発をめぐる議論と自分の状況の説明に止まり、これ以上はない。これは人の間の「余白」だ。一方、それぞれの人に属するストーリーも、会話の中にほのめかされるだけで、前後関係がはっきりしない。これは人それぞれの「余白」だ。この二重の「余白」が重なっているが、皆は運命に強制的に縛られ、一緒に墜落する、という避けようのない事故を迎え、小説は一見荒唐無稽のように見える。
二つ目は蠅の「余白」について。実際に、蠅の存在意義はすぐに現れるものではない。詳しく言えば、蠅は最初から最後までただの傍観者で、いなくても小説は成立する。更に、小説は全部で十章に分かれており、第一章は蠅を簡潔に描いているが、後はすべて人のストーリーだ。終わりに向かう第九章になり、やっと蠅が再び現れる。それ以前は、蠅の役割がはっきりしないと言える。しかし、この「余白」は逆に人と蠅を関連付けると思う。最初に登場したが、すぐに退場したという蠅の特性は、読者が人の部分を読んでいる時、「人」の背後に「蠅」という存在があることを暗示する。また、人々は自分のことだけを訴え、他人への関心は表面的であることから、本質的には車夫と同じく、また蠅とも同じく冷たく傍観する存在だとも言える。言い換えれば、蠅と人は重なり合い、蠅の存在意義の「余白」は人の「余白」と交差する。
「余白」はキャラクターを除き、事件にも作用する。車夫は確かに利己的に見える。しかし、そう断言できるのだろうか。作者は主婦の口を借り、「先刻出ましたぞ」という台詞で答えた。つまり、いつ発車するかを明らかにせず、すでに一便発車したという事実を伝えただけだ。これは情報の「余白」だ。なので、再び乗客の数が適切になるまで待つのも理にかなっているようだ。一人のために早めに発車すると、かえって後から来る乗客の利益を犠牲にすることになるだろう。実際、乗客たちの催促も自分の都合によるもので、合理的な発車時間に基づいているものではない。創作動機から見れば、純粋な利己性を表現したいなら、この台詞は不要だ。この「余白」は正に「皆利己的である」という皮肉だ。
横光利一は、すべての細部を詳述せず、大胆に「余白」を駆使して小説を構成している。これは天才的な作家である証だ。