お後がよろしいようで―アニメで触れる落語の世界―

2025-01-16 14:50:00

江蘇師範大学 鐘宇晨 

私は幼い頃から伝統芸術が好きで、日本語という道を歩む今も、そのこだわりは変わっていない。和歌、俳句から筝曲、切子細工など、伝統美に彩られたものと出逢うたびに、まるで宝石箱を抱える子供のように、心を奪われてしまう。そんな私が、『昭和元禄落語心中』というアニメをきっかけに、江戸時代から輝き続けてきた落語という宝石に出逢った。 

このアニメは精緻な演出と声優の意匠を凝らした演技によって、落語という日本の伝統話芸を忠実に再現している。さっきまでしゃれた世間話が続いた舞台は、いつの間にか一変し、侍や隠居さん、江戸風情を漂わす風物、三味線の音色、下町言葉……あたかも目の前に浮世絵が次々と描き出されるが如く、昔ながらの日常風景が目まぐるしい速さで駆け巡っていく。でたらめな茶番劇に抱腹絶倒したり、又はささやかな人生のエピソードに泣き笑いしたりと、 

扇子と座布団で築かれた方寸の結界で、落語家の巧みな演技と観客の想像力が無限に触れ合い、色とりどりの人間模様を織りなしていく。 

物語の伏線として、主人公の一人である助六が「芝浜」という古典落語の名演目を演じるシーンがあったが、その笑い話の余韻に浸りながら、私は落語の本質について考えさせられた。歌舞伎と文楽では、「忠臣蔵」が有名な演目でありながら、落語家の立川談志は「忠臣蔵で仇討ちに参加しなかった家来達こそが、落語では主人公なんだ」と語っていた。落語に偉い人物や壮大な場面は少ないけれど、完全な悪役も殆ど見つからない。みんな平凡でぎこちなく、時おり小さな過ちを繰り返しながらも許し合い、明日に向かって精一杯生きている。そういう現代人が忘れかけた人間味にあふれた優しい眼差しは、まさに落語の世界に宿っているのだ。 

落語は元禄時代に芽生え、長い年月をかけて発展してきた。そして中国の京劇、古琴のように、たとえ一番厳しかった戦時中でも人々に守り抜かれて難局を乗り越えてきた。しかし現代に入ってから、日中両国の伝統芸術はほぼ同じ挑戦に立ち向かっている。時代という大いなる流れを前に、果たしてこのまま流行り廃りに衰えてゆくのか、それとも私たちの手によって新たな命が吹き込まれていくのか、という伝統芸術への問いかけに対して、このアニメは斬新な可能性を提示してくれている。 

日本と中国は、古くから切り離せない深い絆で繋がっている。昔、中国から渡来した笑話集『笑府』をもとに、「まんじゅう怖い」「松山鏡」など今でも有名な落語の演目が形づくられた。では今の時代においては、私たちも日本の経験を手本として、アニメを活かして言葉の壁を飛び越え、世界中に中国文化の趣きを発信できるのではないだろうか。「お後がよろしいようで」という落語の決まり文句のように、伝統芸術に「おしまい」でなく、「次の人の準備が整った」と胸を張って言い切れる時には、きっと前人未到の芸の世界に辿り着けると信じている。 

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