星、燃ゆ
張鑫婷(浙江越秀外国語学院)
数日前、卓球女子シングルスの決勝が話題となったが、驚くべきことに、「ファンクラブ文化」という言葉が、我が国の二人の卓球選手の名前の間に突如として現れた。「ファンクラブ文化」という言葉は普段軽視され、ネット上では大騒ぎとなっている。多くの人が自分を裁判官に見立て、ファンを批判の対象としている。しかし、私は「被告」の視点から彼らの世界を理解したいと思った。
そこで、以前から読みたかった第164回芥川賞受賞作『推し、燃ゆ』を手に取った。心を打たれたのはその受賞の栄光ではなく、宇佐見りんによるZ世代文化の繊細な描写であった。かつての「被告」の一人として、私はこの本を通して自分を見つめ直した。
「推し」という言葉は日本のネットスラングで「本命」を意味し、アイドルを唯一無二の存在とすることを指す。一方、「燃ゆ」は古語で「燃え尽きる」という意味だ。時代を超えたこの二つの言葉を組み合わせることで、奇妙な雰囲気を醸し出している。さらに、「推し」の発音は中国語の「追星」の「星」の発音と似ており、これにより人々が華やかなものに対する渇望の気持ちが表れる。
16歳の明里は心理的な問題を抱える高校生で、ピーターパンの舞台劇を見た後、アイドルのファンになった。しかし、アイドルが次々と「ファンへの暴力」や「恋愛スキャンダル」などの問題を起こすと、明里は落ち込んでいた。ついに彼女はアイドルの家の前で痛みを抱えながら推しを終えることにした。
多くの人は、明里の行動が最初から間違っていたと考えるかもしれない。不平等で不安定な関係を追い求める理由は何だろうか?しかし、「推し」という行為自体が、失敗した現実から息をつくための緩衝材であるかもしれない。アイドルの作品を見たり、グッズを買ったり、アイドルのすべてに触れたりすることが、「星」という理想に近づく唯一の方法であるように思える。
「星」を追いかける時、明里は何も得なかったわけではない。彼女は歴史の試験に合格し、新しい人間関係も築くようになった。しかし、これらはすべて社会の基準に合致した場合にのみ認められるものだった。理想は常に想像の領域に置かれ、アイドル――この「想像」の集合体は、現実の中で露わになり、刺々しく、残酷になる。その「星」の輝きも結局他人のものである。たとえファンが一生懸命アイドルのすべてを集めても、身近な人がアイドルの靴下を洗うのには及ばない。
私もかつて「理想」と「想像」の違いが分からずアイドルに出会い、いわゆる「裁判官」の審判を受けた。推しの大きな起伏を経て、私は次第に生活の本質を認識するようになった。それは、絶えない痛みと不確実である。この経験が、自分の心理状態を再構築してくれた。最も重要なのは、他人が見せる輝きに期待を投影するのでなく、自分の本心に立ち返り、不完全な自分を受け入れて、自分の世界の星になるのだ。