「不滅」の芸術
王海燕(初盟教育)
日本のドラマといえば、まず何を思い出すのか。私なら、まず出てくるのは「昭和元禄落語心中」だ。文字どおりに、このタイトルは「昭和元禄の時代に落語と心中する」という意味だ。「昭和元禄落語心中」は人が去った時代に敬意を払い、哀悼の意を表す作品だという一説もある。
これは弟子の与太郎の視点から、昭和時代における落語という伝統芸能(芸術とも呼ばれる)の栄枯盛衰と落語の名家「有楽亭」の師弟祖孫4代の人生物語を語るドラマだ。その中で、落語の栄枯盛衰に直面した人の異なる扱い方が深く考えさせられる。また、「昭和元禄落語心中」を契機に、私は落語に関心を持ってきました。
落語は江戸時代から生まれた日本の伝統芸能で、中国の「单口相声」と「评书」に似ている。これはただ一人で多くの役を演じ、出演に必要な様々な物事を代わりに扇子や手ぬぐだけを使い、身振りや手振りでいろいろな物語を語るというものだ。落語には華やかな舞台装置も、立派な衣装も、音響効果もないので、最後の舞台効果はやはり落語家の技量と落語を聞く人の想像力次第だ。だから、それは観衆にとっても、落語家にとっても大きな挑戦だ。どう自分の技量を高め、観衆に臨場感を持たせるのかは落語家が避けられない難題なのだ。しかし、落語家にとって、これこそ落語の魅力なのではないかと私は思う。
ドラマの主人公たちはその魅力に心を奪われて、落語に夢中になったのだろうか。同ドラマで、八代目有楽亭八雲がなぜ落語を習い、どう自分なりの落語スタイルを見出し、第二次世界大戦後の落語の最盛期に目立ちたがり屋になったのかが描かれる。そして、日本の経済成長に伴い、落語が衰退しつつあった。その背景のもとで、落語の大家の八雲が悩んだあげくに、落語と心中することにした姿も描かれる。その一方、落語が同じに好きな弟子の与太郎は八雲とまったく違う道を選択した。彼は時代の変化に負けず、諦めずに自分なりの落語のスタイルを発掘した。結局は彼が融合を通じて落語に新しい生命力を注いだ。この二人は異なる選択をしたが、落語への愛情は疑う余地がない。それでは、一体落語などの伝統芸能をどう扱えばいいのか。
「芸術は不滅である」という言葉がよく聞かれる。この言葉は芸術が時代の変遷とともに自然と消えていくものでもないという意味のようだ。しかし、芸術もいつまでもそのままにあるものでもないと私は考える。この落語が証であるし、京劇といった芸術も同じである。国によらず、芸術が生きていくように、芸術そのものの見事さはもとより、新時代に応える革新も必要だと私は思う。芸術は革新なしに、いずれ時代遅れで消えていくのではないか。
「芸術は不滅である」とは「革新あっての芸術が不滅である」といっても過言ではないのではないかと私は思う。「不滅」の芸術が新時代の人々のニーズに応える革新があってこそ、生まれるものだと私は深く信じている。