故郷、記憶と現実の交響曲

2025-01-16 16:01:00

趙一帆(山東師範大学外国語学院) 

涙を流しながら『平成狸合戦』を観終えた。本当に感情が湧いてきた。私は人間の中で暮す狸のような存在ではなく、私の生活経験は、狸たちが経験していることのすべてを体験させてくれるという意味である。 

自分の故郷は無情に別の勢力に奪われた。時代の変化を経て、周囲の環境が変化し、自分たちの生活の痕跡が減り、生活空間が狭まるという感触、私はそれを理解できる。ただ、私が理解しているのは、自分の過去に残した生活の痕跡が減っていることである。どんなに言っても、この国では、どこか住むことは問題ではない、ということだろうか。 

故郷の青島は、とても美しい地域である。あるいは、以前はとても美しい地域であった。確かに、今でも何らかの評価やランキングで常に上位に名を連ねている。しかし、それが上位にランクインする理由は、かつての時代の美しい景観や植民地時代の建築物によるものである。もちろん、東部の開発が進んで摩天楼が立ち並び、見る者を経済の発展の成果に感じさせる。人々が称賛するたびに、私は心から喜びを感じる。なぜなら、私は青島の人間だからである。しかし、彼らが見る青島は私の故郷であるか? 

私の故郷は青島の北部で、比較的に繁華していない場所である。小さい頃から野坊やのような暮らし方で、荒々しくて、粗末で、青島の人々のすべての性格を持っていて、自由奔放で、細かいことにこだわらず、体面ばかり気にする。遊ぶものもすべて青島の子供たちが好きなものである。例えば、羽根つき、砂袋投げなどである。夏になると、命を懸けて泳ぐのである。夜になると、街灯の下でカードをするのである。こんな感じで、ぼんやりと二十歳まで生きてきた。突然振り返ると、自分が育った場所が見つからなくなっていた。 

ぬるま湯でカエルのように、この街はいつも補修や改造が行われている。一時的に道が修理され、また新しいビルが建てられる。少し時間が経つと、全てが変わったことに気がつく。カブトムシを見ることもないし、子供たちが日差しに当たってそれを捕える姿も見なくなった。ホタルやハチなどの昆虫も少なくなったが、人間は減っていない。  

私はどうしてこうなったのか分からない。以前の心地よくてのんびりした感じはない。もしかしたら私は大人になったのだろう。しかし今ただ街をぶらついて、買い物をして、レジの前の人たちを見るだけで、頭が痛くなる。これは青島の人々がお金持ちになったからだろう。お金持ちなのに、数えるほどしかないスーパーがどうして一か所に集中しているのだろう。以前の町は、完全に姿を消してしまった。寂しくて、一番多いのは、多分駅から外へ乗車する人たちだろう。 

これは青島であるか?私の記憶の中の青島であるか?これは本当に現実の青島であるか?それともこれは夢だろうか。 

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