「音符」ではなく、「楽曲」を聴け
王鋭蘭(江西科技師範大学外国語学院)
我々の人生には、様々な困難が不意に訪れる。では、逆境に直面した際、どのように突破口を見出せばよいのだろうか。隣人に相談するのか、それとも自身の経験で判断するのか。実際のところ、いずれも有効だが、多種多様な人々を理解するにはどうすればよいのだろう。
噂に頼るのか。映画『千尋さん』では、弁当屋に来る男性客の多くが、店員の永井から千尋が風俗業界で働いていたことを聞かされていた。そこで一部の客は「色眼鏡」で彼女を見て、軽薄な言葉でからかった。近所の高校の男子生徒たちも、彼女の過去を知って、彼女が販売した弁当が「不潔」だと疑った。
自身の経験で判断するのか。劇中、岡治の母親は深夜に娘が台所でおにぎりを握っているのを見て、まず心配するのではなく、思いやりがなく台所を汚すだけだと叱責した。これは「娘はわがまま」という先入観に基づく決めつけであった。実際は、娘が友達に温かい食事を届けようとしていたことを、母親は知らなかった。
自己紹介や面接では、名前や経歴から第一印象が形成されがちである。これは、効率が重視される現代社会において、素早く関係を構築するための不可欠な方法と言える。私もこの方法に慣れ親しんでいるため、千尋が彼女を盗撮していた岡治と名前や目的を聞かずに会話をした時、私も岡治と同じ疑問を抱いた。「どんな人が分かんないって、不安じゃないですか?」。千尋によれば、名前は偽り得るものであり、相手がどんな人か知りたければ、その目を見ればよいというのである。
この言葉は、あっさりとした口調ながらも衝撃的であった。私が慣れ親しんできた「レッテル貼り」的な認知がいかに脆いかを明らかにしたからである。名前、職業、過去の経験といった「身分証明」は、作られたレッテルでしかないのである。また、「レッテル貼り」的な認知がいかに偏っているかを私に気付かせてくれた。劇中の弁当屋の客たちは「千尋」に「元風俗嬢」というレッテルを貼り、彼女を見る目は常に性的な暗示に満ちていた。岡治の母親は「娘」に「わがまま」というレッテルを貼り、彼女の行動を全て迷惑行為としか見なかった。レッテルは世界を単純化するが、同時に私たちの視野を狭めてしまうのである。
自分を振り返ると、少し後ろめたい気分に駆られる。SNSの投稿から、友人が簡単に成功できると思い込み、その背後にあった努力を見過ごしてきた。また、ネットの断片的な情報のみで、事件の当事者に善悪のレッテルを貼ってきた。しかし、真の理解には、断片的な情報から離れ、評価を急がず、ひたむきに観察し、耳を傾ける必要がある。
すなわち、一人の人間は一つの音符ではなく、一つの楽曲なのである。名前や経歴は、その楽曲を構成する一つの音符に過ぎない。それらの断片に拘る限り、人という楽曲全体を聴き取ることは、永遠に叶わないだろう。