きみの瞳が問いかけている
李妍希(大連民族大学外国語学院)
私が好きな日本の映画は、『きみの瞳が問いかけている』という視覚障害者をテーマにした映画だ。映画館で映画が始まっても、最初はしばらく画面は真っ暗なままで、映画館には音声だけが響く。それは日常にあふれている音声であり、足音、呼吸音、車の流れる音などである。これにより、映画館の人々は否応なく視覚障害者の世界がどんなものかを体験させられる。もし突然に視覚を失った時、私たちはどのようにして世界を感知すればいいのだろうか。
劇中の明香里は、事故で両親を失い、さらに視力を失いつつある孤児である。しかし、彼女の世界が暗間に帰した時、それは彼女の他の感覚の鋭敏さを呼び起こした。彼女と男主人公の格司の出会いは、外見を通してではなく、彼の足音、呼吸音、匂いといった方法を通して知り合うのである。このような場面により、視覚障害者が感知している世界を、私たち健常者も追体験することができる。
柊司も同じく「不完全」な存在であり、彼の傷痕は身体の表面ではなく、心の深くにある。かつてある事故で人を亡くした罪の意識を背負った彼は、ボクシングという肉体的な痛みを通して精神的な苦痛を麻痺させることを選んだ。興味深いのは、明香里は柊司の外見上の傷は見えないけれど、彼の魂の悲しみを「見る」ことができる点である。映画の中で非常に感動的な場面がある。明香里の指がそっと柊司の顔を撫でるが、これは慰めではなく、一種の「見る」方法なのである。彼女の指先はスキャナーのように、彼の顔の筋肉の緊張、口元の震え、さらには見えない感情の波動まで読み取る。この瞬間、視覚の欠如はもはや障害ではなく、むしろ心の深層に直結する通路となっている。
この作品の中で、指の触感は全く新しい言語を創造しており、視覚的表象に依存しない情感の伝達なのである。柊司が最終的に「俺が君の目になってもいいか?」と言う時、このセリフはロマンチックな告白を超越し、二つの不完全な魂が互いに癒し合うことを意味する。彼は明香里に代わって世界を見るのではなく、自分が見ている世界を彼女と分かち合いたいのである。そして明香里も本当の目は必要としない。なぜなら彼女はもう一つの方法で生活の美しさを「見る」ことを見つけたからだ。愛を通して、つながりを通して、生命の不完全さを受け入れることを通して。
視覚的刺激が溢れる現代社会において、この映画はすべての人々が深思すべき問題を提起している。私たちは物理的な視覚に過度に依存するとき、むしろより深い「見る」能力を失っているのではないかと?『きみの瞳が問いかけている』が私に悟らせたのは、本当の「見る」ということは、決して単に網膜上に映し出された画像ではなく、心と心との深い理解なのであろう。