母は強し」神話を打ち破り、支え合いの坂を共に築く
黎晴晴(広州工商学院外国語学院)
「母は強し」という言葉は、一見すると母親への賛美のように聞こえる。しかしその裏には、女性を「完璧で無私な存在」として縛り付ける、冷たい枷のような側面も潜んでいる。ドラマ『坂の途中の家』は、まさにその社会的神話の陰で苦しむ母親たちの姿を、現実的かつ繊細に描き出している。
本作は角田光代の同名小説を原作にした2019年のドラマである。物語は「母親が幼い娘を溺死させた事件」をきっかけに始まる。主人公の里沙子は平凡な主婦だが、偶然その事件の陪審員候補に選ばれる。裁判を通じて、被告の水穂が、子どもの世話に疲れ果て、夫に理解されず、周囲の無理な期待に押し潰されそうになる姿を目の当たりにし、自分の生活と重なって深く共感する。里沙子は、法廷と家庭の狭間で崩れていく自分の心を追うように体験する。
『坂の途中の家』は、単なる「悪い母親」の物語にとどまらず、母親に課せられた社会的重圧がどのように孤独と絶望を生むかを鋭く描いている。里沙子は水穂を通して、母親が陥りやすい孤独を体験する。育児という坂道の上で、夫は仕事に追われ、友人や親族の助けもなく、ひとりで家事と育児に向き合う。その恐ろしさと痛みを、静かに、しかし確実に伝えている。
このドラマを観て、私は社会が母親に求める「完璧で無私な存在」という役割が、時に母親を過酷に追い詰めることに気づかされた。水穂の悲劇は、現実に多くの母親が直面する問題の極端な例にすぎない。日本であれ中国であれ、現代の多くの女性は教育を受け、キャリアを持っている。そして、もは
「男は外で働き、女は家庭を守る」という旧来の価値観に縛られることなく、仕事と家庭を両立させようとしている。しかし、家父長的な価値観はいまだ根強く残り、女性に大きな負担を強いているのが現実である。
劇中では、母親の負担がきめ細かく描かれている。例えば、朝子という別の母親とその夫は、育児休暇をめぐり何度も衝突している。最初は二人で育児を分担することにしていたが、夫はなかなか休暇を取らず、仕事を優先してしまう。また、里沙子も育児と仕事の両立に苦しみ、夫に助けを求めても「無理しなくていい」と言われてしまう。こうした描写は、現実の多くの女性が出産後にキャリアを断たれ、社会から孤立していく状況をそのまま反映している。
しかし、このドラマが訴えるのは、「結婚や育児を避けるべき」とする悲観的なメッセージではない。むしろ、「母は強し」という理想像を捨て、母親にも脆さや支えが必要であることを認めることである。父親が育児に積極的に関わり、社会全体で母親を支える仕組みを作ることが大切だ。母親一人で坂道を登らせるのではなく、家族も社会も手を取り合い、ともにその坂を築いていく。そのとき初めて、命の誕生は本当に希望に満ちたものになるだろう。