深淵の悪:東野圭吾『悪意』を読む
荘婉琦(広州工商学院管理学院)
高校時代、私は東野圭吾さんの作品に没頭していた。『白夜行』の運命的な絡み合い、『容疑者Xの献身』の極端な守り、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の温かい癒しまで、どれも手放せなかった。その中で最も衝撃を受けたのは『悪意』だ——展開の反転が層をなして進み、あらゆる予想を打ち破り、今でも思い出すと余韻が尽きない。
『悪意』の叙述は見事だ。小説は多角的な視点と日記体で進み、前半は一見「日高邦彦殺害事件」の真相を少しずつ明らかにしていくように見えますが、後半は覆すような反転で、この「真相」を完全に引き裂く。最初、私は野々口修の手記に沿って読み進み、彼の作り上げた虚像を完全に信じていた。日高は作品を盗作し、友人をいじめ、さらに残酷に猫を殺す偽善者で、野々口修は我慢できなくなった被害者だと。物語の終盤になってはじめて、自分が悪意の伝達役として巻き込まれ、野々口修の「共犯者」になっていたことに気づいた——その時、本当の悪意は人を殺すことではなく、人の名誉を破壊することだと理解した。
この本は現実を映す鏡のようで、本の中の人物の暗さだけでなく、情報が溢れる時代に私たち一人ひとりの心の中で膨らむかもしれない闇も映し出している。野々口修の悪意には理由がなく、ただ「彼が気に食わない」ということだけだ。日高の成功が気に食わない、日高の優しさが気に食わない——この理由もない憎しみは、まさにネットワーク暴力の縮図だ。現実では、多くの人がネットワーク暴力に加わるのは、被害者とトラブルがあるわけではなく、単に他人の幸せを嫉妬したり、生活の不満を発散したり、存在感を示したりするためだけだ。
野々口修の手記は、彼が世論を扇動する「武器」だ。叙述のトリックで自分を装い、日高を非道い悪人に仕立て上げ、文字の行間にある委屈は容易に共感を呼び起こす。偽造したビデオテープや原稿は、ネット上の深度偽造コンテンツや悪意のある編集スクリーンショットのようで、「確かな証拠」を持って嘘を非常に真実に見せかける。最終的に、日高は命を失うだけでなく、「偽善者」のレッテルを貼られてしまう。これは現実でネットワーク暴力によって「社会的死」を迎えた被害者たちとどんなに似ていることだろう。
さらに驚くべきことは、本の中で野々口修が苦心して行った中傷が、ネット時代ではただ一つのボタンを押すだけでできることだ。何千何万もの「野々口修」が悪意を簡単にコピーし、伝播できる。雪崩の時、無実の雪片は一つもない。
『悪意』を読んで悟ったのは、情報の流れの中で、私たちが最も守るべきは理性と思慮深さだということだ。一方的な情報に惑わされず、自分の心の中に生まれる可能性のある「小さな悪意」に警戒し、さらに「言葉には重みがあり、随意な評価の一言が、他人を押しつぶす最後の一筋のわらかもしれない」ということを忘れてはいけない。