『古都』の鏡――選択の中に存在の光を見出す

2026-01-04 10:52:00

曾朶(東南大学外国語学院)

 

川端康成の『古都』の文中に身を置くと、私は雅な情景に酔い、そこに宿る哲理に深く心を打たれる。双子姉妹の物語はプリズムのように、人間が世界という荒波の中に放り出されて生きることの本質を映し出す——運命は生まれながらに定められているわけではなく、いつどこにいても、個人は己にとって本質的な選択を通じて存在の光を見出せるのだ。 

千重子は箱入り娘として育ち、窓外の松影にすらはるか届かぬ郷愁を醸し出す。苗子は北山の寒風に根付き、荒れた手で生命の本質をつかむ。境遇は異なれど、二人は勇敢に己の本質を求めた。物語を越えて現実を見れば、同様に本質的な選択から毅然と前に進む人々の姿が見えるだろう。 

長野の田舎に、かつて「裸足の画家」山下清と呼ばれる人物がいた。知的障害を抱えた彼は貼り絵と不思議な縁を結び、紙切れを思いのままに貼ることから始め、やがて細かな図柄を組み立てるようになった。玄関の花、祭りの花火、遠く山頂の寺院まで、彼は色紙の断片で世界を描いた。その貼り絵は、障害に対する見方を変え、運命に見放された人々が選択を通じて価値を再生できることを日本社会に示した。彼は純粋な芸術眼で貼り絵に夢中し、紙切れに命の温度を宿らせた。 

中国湖北、稲畑に住む余秀華は、脳性麻痺で震える指をもって、文学界を揺るがす詩を打ち出した。出生時の医療事故で身体に障害があり、農村女性という立場から解放されることも難しいだろう。しかし彼女は詩にこう書く。「私の体内の列車は決して脱線しない、それゆえ雪も、嵐も、土石流も不条理も許そう」と。これは運命への妥協ではなく、己の意志を明確に示す宣言である。泥の中から生まれた詩は、彼女の自由な魂を乗せて田んぼの畦を越え、文学の殿堂へと至る。《朗読者》の舞台に立つその瞳の光は、無数の人が選択を恐れて閉ざした心の隅々まで照らしてきた。 

一人は紙切れで満天の星を紡ぎ、一人は誤字で驚嘆の詩篇を綴る。『古都』の双子のように、運命に見放されたようでも、己を見出す選択から自らを照らす光を見出した。山下の貼り絵に完璧な対称は不要であるように、余の詩に格調高い平仄も必要ない。人生は不完全なゆえにこそ尊いのだ。その不完全さを通して私たちは知る。生きる意味は出発点にはなく、困難に直面した時、、自分であることを選び、己の存在価値を実現する勇気があるか否かにあるのだ。 

川端の描く古都は移ろうが、双子が選択で書き上げた人生の回答も、山下や余のような光を追う者たちも、「選択の中に光を見出す」という精神の下に、勇気と執念で生命の不全を埋め続けるだろう。人生は荊棘の道だが、心ゆくままに歩むことを恐れなければ、たとえ暗闇にでも一筋の光は灯せる。この光こそ、『古都』が数多くの光を追う者たちに贈った物であり、無常の世の中で人間が持つ最も輝かしく、健気な生きる力であるのだろう。 

 

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