「怪物」を見て:偏見という名の怪物
黄貞花(長春理工大学外国語学院)
映画「怪物」は、見終わった後、しばらく言葉を失うような衝撃があった。最初はただ、息苦しい気持ちでいっぱいだった。母親の早織の目線で進む物語。息子の湊が学校で理不尽ないじめに遭い、教師はそれを隠蔽し、母親の必死の訴えは届かない。この第一部では、僕は完全に母親の味方になり、無力で不誠実な教師と学校こそが「怪物」なのだと決めつけていた。
ところが、第二部で視点が教師の保利に移ると、世界は一変した。僕はそこで、自分がいかに簡単に、一方的な情報だけで人を「怪物」とレッテル貼りしていたかに気づかされた。保利先生は無能でも冷酷でもなく、ただ不器用で、状況に翻弄されるひとりの善良な人間だった。学校も単純な悪ではなく、保身と形式的な手続きに溺れた官僚組織の縮図だった。僕は画面の前で、自分が早織の怒りに完全に同化し、教師を断罪していたことを思い、少し恥ずかしくなった。真実はいつも、一方向からだけでは見えないのだ。
そして、物語は核心の第三部へと向かう。湊と星川依里という二人の少年の視点だ。ここで初めて、僕たち観客は「真実」を知る。大人たちが「いじめ」や「問題行動」と騒ぎ立てていた一切合切が、実は二人だけの秘密の、かけがえのない世界を守るための行為だったのだ。彼らはただ、自分たちの感じるままに、人を好きになる気持ちを、世間が決めた「普通」とは違う形で育んでいた。彼らを苦しめたのは、直接的な暴力以上に、その関係性を理解しようとせず、「変わり者」「気持ち悪い」と決めつける周囲の空気、つまりは偏見そのものだった。
映画の題名である「怪物」とはいったい誰なのか。いじめっ子か?無能な教師か?冷たい学校か?違う。そうして安易に「怪物」をでっち上げ、断罪することで安心しようとする、僕たち一人一人の内なる偏見の目こそが、真の怪物なのではないか。映画はそっと、しかしはっきりとそれを問いかけている。湊と依里が廃車になった電車を「宇宙」に見立て、自由に遊ぶあのシーンは、僕たちの固定観念や先入観から完全に解放された、純粋な心のユートピアだった。
ラストシーンは解釈が分かれるだろう。暴風雨の後、草原で再会した二人の少年が、陽の光を浴びて走り回る。あの光景は、彼らが死後の世界で自由を得たのか、それとも現実の災害を奇跡的に生き延び、新たな人生を歩み始めたのか。どちらにせよ、あの場所には、彼らを「怪物」視する視線は一切ない。僕はこのラストに、深い切なさと同時に、静かな希望のようなものを感じた。自分の中の「怪物」=偏見に気づき、それを飼い慣らすことから、すべては始まるのだと教えられた気がする。
「怪物」は、単なる社会派ドラマではなく、見る者自身に鋭く突き刺さる、鏡のような作品だった。僕はこの映画を通して、自分がいかに無意識のうちに他人をジャッジしていたかを思い知らされた。真実を知ろうとする努力と、異なるものを理解しようとする寛容さの大切さを、心から考えさせられる体験だった。