天津の朝食に垣間見る、文化の昔ながらの味ーー大学者の記憶の中の朝食

2018-08-21 10:35:46

「朝食」は一つの都市の味覚の記憶であり、起きぬけの一口はことのほか重要である。小さな店を探して、並んでお金を払い、食券を受け取り、料理を受け取る。腰を下ろすとさじがお碗に当たる音、口からはむしゃむしゃという咀嚼音がし、知り合いを見つけると頭を挙げ挨拶をして席を移る。これが天津の早朝の日常で、漫然と、淡々としている。 

天津の朝食は、基本的に一カ月間ずっと違うものを食べ続けることができる。みんながよく知っている老豆腐(餡かけ豆腐、豆腐脳ともいう)、豆乳、餜子(油条、つまり揚げパンのこと)、茶卵(茶と醤油や香料などで煮た卵)のほかに、天津の昔ながらの朝食には極めて特色あるご馳走がある。すべて味わい深く、昔ながらの味が残されている。 

 

大学者の記憶の中の朝食

 

国学の大家である張中行は、かつての天津での生活に素晴らしい印象を抱いている。張中行は1935年に北京大学を卒業した後、天津にある南開中学に国語の教師として赴任した。彼は天津の濃い豆乳と、それにやわらかな豆腐が加えられた子豆腐がとてもおいしいと思い、毎日早朝からさまざまな豆腐屋さんの前の長い行列に加わった。彼によるとどの豆腐屋さんでも席に座ることができ、「上品な人は子(豆乳)を頼み、食いしん坊は子豆腐(豆腐入り豆乳)を頼む。注文品が来るとどれも雪のように白く、熱が冷めて固まったばかりのように濃厚で、味は残念なことに言葉では表現できないほどでした」と語る。

張中行の記憶の中では、食べることに執念を燃やす天津人は、さらに豆乳の上に凝固して浮かびあがった湯葉を油で揚げて餜子(揚げパン)のようにして食べるという。こうした「贅沢」な食べ方を彼はとても珍しいと感じた。彼自身は自分が豆腐店に入る機会は多くなく、そのため毎回入るたびに「これが最後かもしれない」と思って、心ゆくまでその味を楽しんだという。張中行はその生涯を多くの場所で過ごしてきたが、彼は朝食の豆乳から言えば天津が唯一無二の素晴らしさだったと考えている。

さらに相声(中国漫才)の大家である侯宝林がいる。彼は1940年に天津にやって来て、たちまち人気を博し、1945年に北京に再び戻ったときには、すでに名高い芸人となっていた。彼もまた天津の子豆腐が大好きで、「あのコク、天津人と一緒だよ、実に重厚だ!」と言っている。煎餅餜子(餜子を挟んだクレープのような軽食)については、侯宝林は「天津人は賢いことに、もともとの山東や東北の農家の食べ物を改良し、トウモロコシ粉ときな粉を緑豆粉に変え、こうした食べ物の品位とランクをあげ、さらに餜子と卵を加えることで、いわゆる画竜点睛となった」と語る。

張中行は何度も天津の旧フランス租界にあった小さな食堂の肉末焼餅(ひき肉入り焼きパン)を食べ、その焼餅は北京・北海にある倣膳飯荘と作り方が同じで、それからずっと食べたいと思い続けてきたことをはっきりと記憶している。侯宝林は天津大餅(大きなクレープのようなパン)を特に称賛していて、「全国各地どこを探しても天津に叶うところはない」と語っている。(毎日新報記者王晨輝=文 L=編集)

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