余生を満喫できる常春都市 製鉄が支える民族の多様性

2019-03-07 09:18:57

王浩=文 馬耕平=写真


攀枝花市を流れる金沙江(写真・王東)

 攀枝花は太陽の都市で、1年の日照時間は2300~2700時間もある。

 攀枝花は中国で唯一花の名前を持つ都市で、春夏秋冬に花が咲き誇る。

 攀枝花は果物の宝庫で、マンゴー、ビワ、ドラゴンフルーツなどの甘い香りが人々をとりこにする。

 攀枝花は「三線建設」と「百里にわたる鉄鋼都市」が都市の歴史を築き上げた。たゆまず上を目指す創業気質と情熱的で包容力のある性格は、攀枝花の人情と文化の下地だ。

 「雄々しい攀枝花、太陽の養生リゾート地」というキャッチボールを持ち、54年間の開発と建設によって、今日の攀枝花は中国西部の重要な新興工業都市と国家戦略資源革新開発試験エリアにまで発展した。
 この都市は味わい深い歴史を持ち、将来人々をより驚嘆させられるだろう。

都市の記憶 三線建設と「百里にわたる鉄鋼都市」

 攀枝花市は「三線建設」の影響を受けて栄えた。60年代、「三線建設」の呼び掛けに応じた数万人が、攀枝花市に来て製鉄所の建設工事に携わった。彼らは困難にめげず努力し、進んで開拓する精神をもって「百里にわたる鉄鋼の都市」を築き、中国の鉄鋼業の構図を変えただけでなく、その奮闘ぶりも攀枝花の人々の記憶に刻んだ。


攀枝花中国三線建設博物館を見学する小学生たち

 金沙江沿いにある攀枝花は、もともとは上下壩村と呼ばれていた。清代同治8(1869)年前後、村の入口に古い攀枝花の木が高くそびえていたことから、「攀枝花村」と呼ばれるようになった。

 都市発足の物語は地下に埋蔵するチタン磁鉄鉱と「三線建設」から始まる。攀枝花市は鉄鉱で有名な中国四大都市の一つで、豊富な鉄鉱資源を有する。そのほか、バナジウムの埋蔵量(6)が世界3位の1020万㌧で、チタニウムの埋蔵量が世界1位の4億3900万㌧だ。中華人民共和国成立後の1953年に行われた地質調査で、ここに豊富な鉄鉱資源が眠っていることが明らかになった。鉄鋼は国家建設の基礎となる重要な資源だ。58年、中国政府は攀枝花市で鉄鋼の採掘を始めた。その後国際情勢の変化が攀枝花市の発展をさらに加速させた。


攀枝花中国三線建設博物館15年に開館。ここでは、当時「三線建設」に関わった13の省・自治区での建設の過程、成果、歴史的意味などの資料が展示されている。

 60年代初期、米国、ソ連、インドなどの国々と中国は緊張関係にあり、摩擦が頻繁に起きていた。戦争に備えるため、毛沢東氏は「三線建設」の概念を提唱して、中国全体を三つに分け、四川省、雲南省、貴州省、甘粛省などの内陸地域が「第三線」に入った。それ以降、政府は工業、軍需、科学技術企業や研究機関などを「第三線」に次々と移し、全国各地から人材を集めて建設工事に従事させた。攀枝花製鉄所(以下は攀鋼)は当時、三線建設における国家重点プロジェクトの一つだった。

 1965年2月5日、中国共産党中央と国務院の正式な認可を得て、攀枝花特区が設立された。4月22日、機密保持のために国務院は「攀枝花特区改称問題に関する回答」を下部に配布し、攀枝花特区を「渡口市」の名前に改めることを認めた。3月4日、毛沢東主席は、冶金部の呂東部長と攀枝花特区の徐馳総指揮が呈上した「攀枝花工業区建設を強化する報告」を「良い文書だ」と褒めた。これにより、攀枝花市はこの日を「攀枝花開発建設記念日」に定め、攀枝花都市建設の記念日にした。

 「三線建設」に感銘を受けた全国各地の人材が次々とここに来て、鉄鋼生産事業に身を投じ、数年間で従業員が数万人にも上った。当時、国家重点プロジェクトだった攀鋼について、毛沢東氏は党内の書類に「攀鋼を建てないと、私は眠れない」と書いている。指導者の大きな関心と従業員たちの努力のもとで、攀鋼は誕生した。初めて製鉄してから全国各地に出荷するまでになり、攀枝花市は徐々に中国の重要な鉄鋼生産拠点(7)になった。その後、人口の増加と都市の規模の拡大につれ、1987年1月23日、国務院の認可を得て、渡口市は「攀枝花市」に名前を改めた。

都市エピソード 一杯の水に半分の泥。艱難辛苦の鉄鋼都市建設

 薛啓奎さん(71)はかつて攀鋼の運輸部門の主任だった。69年に遼寧省鞍山市から攀枝花市に移り、定年退職するまでの三十数年間、ずっと攀鋼で働いていた。人生の約半分をここで過ごしてきたが、彼は依然として強い東北なまりの言葉でしゃべる。攀鋼の初代建設者である彼は、攀鋼のことを語るたびに興奮せずにはいられない。薛さんによると、69年に鞍山製鉄所の上司から、攀枝花市への転職話が持ち込まれてきたという。薛さんは迷うことなく同意し、簡単な身支度を済ませて妻子に別れを告げ、遠路をものともせず西南部へ旅立った。鞍山製鉄所から来た4000人以上の従業者も一緒だった。当時、攀鋼は着工したばかりで、生産設備も生活条件も整っていなかった。「来たばかりの頃、ここにはビルが一棟もなく、私たちは簡易小屋(8)に住むしか他に方法がありませんでした。しかも水道水もなく、金沙江の水しか飲めず、水の半分以上が泥砂でした。数多くの同僚は気候風土になじめず(9)、熱や下痢などの症状に悩まされました」と薛さんは語った。そういった困難な状況にあっても、彼らはくじけることなく情熱を持ち続けた。「生活より生産が先」が当時のスローガンだった。彼らは困難を次々に乗り越え、ようやく攀鋼を建てた。攀鋼は中国鉄鋼業の構図を変え、国の経済発展の支えとなった。「私は攀鋼に生涯を捧げました。今になっても光栄に思います。困難にめげず奮闘する『攀鋼精神』は貴重な宝物で、若者たちに伝承してもらいたいです」と薛さんは語る。


元攀鋼運輸部門主任の薛啓奎さん

 改革開放以降、攀鋼は鉄鋼市場の波に影響を受けたことが何度もあったが、発展のチャンスを見事につかんだ。攀鋼は地元で採掘した高品質の鉄鉱、バナジウム、チタニウムなどの資源を生かして新たな製品を開発した。攀鋼が生産したレールは中国高速鉄道の建設事業に広く利用されているだけでなく、米国、オーストラリア、スリランカなどにも輸出される。


スリランカのバイヤーが注文した製品の生産状況を確認していた。


中国全土にある高速鉄道の線路の70%以上は攀鋼で生産されたものだ

 攀枝花市では、薛さんのような人と彼らの子どもたちがそれぞれ「攀一代」「攀二代」と呼ばれる。全国各地から攀鋼を建設しに来た人々が、異なる方言をしゃべり、違う生活習慣を持っていたことが、攀枝花市を開放的で包容力のある都市にした。ここでは、中国人なら誰でも自分の同郷を見つけられる。攀枝花市は四川省に属するが、全国各地の味が集まっている。開放的で多様性に富んでいることが、移住者が多いこの都市の特色でもある。


二灘水力発電所(写真・蘇波)


都市の特性 体・心・頭を養う

 冬に入ると、中国北部は冷え込むが、南西部にある攀枝花市は暖かくて快適だ。日照時間が長いため、都市は温室のようになり、数々の植物が生気に満ちあふれている。

 攀枝花市は花の名前を冠した中国唯一の都市だ。「木綿」とも呼ばれる「攀枝花」は「市の花」だ。落葉高木で、毎年1〜2月頃に大きな赤い花を次々と咲かせ、赤い海のように町中を覆う。街を散策すると、攀枝花以外に、ブーゲンビリア、デイゴ、ロサ・キネンシス、カエンカヅラなども見られ、季節を問わず色とりどりの花が至る所で咲いている。

 年中花が咲くことは、地理的条件や独特な気候と関係がある。四川省南部にある攀枝花市は雲南省と接していて、北に成都市を遠く望み、300㌔余り南に昆明市がある。中国の西南シルクロード(中国南部から、ミャンマーの北部を通ってインドへ抜けるシルクロード)が通るこの都市は、中国内陸部と東南アジアをつなぐ重要な拠点だった。

 攀枝花市は中国の横断山脈上にある。横断山脈とは中国西部を南北に走る大山脈で、山が高く、谷が深く、多数の大河が流れる。最も標高の高いところは4000㍍以上で、最も低いところはわずか900㍍余りだ。攀枝花市は亜熱帯気候に属し、標高差が極めて大きい高山や深谷を特徴とする地形のため、垂直方向で差があり、同じ時期でも上と下で温度差が大きい。攀枝花市の市街地は平均標高が約1100㍍で、人が生活するのに最も適した場所だ。緯度が低いため日照時間が長く、1年でおよそ2300〜2700時間ある。しかも、年間平均気温が20度前後で、まさに常春の都市だ。一年中気温が安定しており、冬に暖かく夏に涼しい場所と言える。


攀枝花普達陽光国際養生リゾートエリア

 快適な気候は自然に恵まれた攀枝花市の特徴で、観光客からも注目を集めている。近年、「養生ツアー」ブームが起こり、攀枝花市に来て休みを過ごす中高年者も増えている。統計によると、ここ数年間で、攀枝花市を旅行する人数が急速な増加を見せている。昨年では延べ2566万人に達しており、市の観光収入が前年比で20・83%増えた。そのほか、北京、成都、西安などから訪れた中高年者が攀枝花市に家を買い、毎年渡り鳥(2)のようにここに来て日々を過ごす。成都出身の曾克莉さん(65)は冬になると、家族と一緒にここに来て翌年の春まで暮らす。曾さんは「寒くて湿った成都の冬は、年を取るとなかなかこたえます。攀枝花市は気温が快適で、日照時間も長く、住み心地が良いですよ」と言う。曾さんは、どこに家を買おうかと家族と一緒に考えたとき、海南省三亜市などの都市も候補に挙がったが、検討を重ねた結果、攀枝花市に決めたと言う。

「養生ツアー」ブームは都市と産業の発展の推進力にもなった。現在、攀枝花市では「養生ツアー」産業に力を入れて進めるだけでなく、航空、鉄道、高速道路などのインフラ整備も急速に発展し、北京、成都、昆明、西安など全国各地の都市を行き来するのも便利になった。そのほか、医療施設や老人ホームも増えつつあり、ヘルスセンターも日増しに完備されている。人口が100万人以上のこの都市には、三級甲等病院(中国医療機関の中で最もランクの高い病院)が5軒あり、1人当たりの医療リソースが中国で上位に入る。

都市のシンボル トロピカルフルーツの王国

 立体的な気候と十分な日照時間があり、亜熱帯の緯度に位置する攀枝花の果物は恵まれた環境の中で栽培される。攀枝花にはトロピカルフルーツが豊富で、マンゴー、ドラゴンフルーツ、ザクロ、ビワなどがあるトロピカルフルーツ王国だ。


攀枝花のマンゴー(写真・王東)

 マンゴーは攀枝花市で最大の栽培面積を誇る果物だ。市には51万ムー(1ムーは約0・067㌶)の畑があり、海南省三亜市と広西チワン(壮)族自治区百色市に並ぶ、中国におけるマンゴーの3大名産地の一つとなった。2市と比べ、「緯度が最北端」「標高が一番高い」「成熟期が一番遅い」という三つの特徴がある。攀枝花のマンゴーは甘くて繊維が少なく、口当たりが良い。糖度(100㌘当たりの糖質含有量(3))を例にすると、他地域のマンゴーは12〜15%ほどだが、攀枝花市産のマンゴーは17%もある。  高糖度のマンゴーは地形と気候に大きく関係している。開花時期(4)に梅雨がなく、着果時期(5)に台風がない上、日差しが強くて昼夜間の寒暖差が大きいため、デンプンと糖分の蓄積が十分に行われる。しかも、ほとんどのマンゴーは標高1500㍍以下の谷間で栽培されており、高い山と低い谷があり、数多くの盆地が点在する複雑な地形によって風通しも日当たりも良いため、果実は大きく甘く育つ。  攀枝花市仁和区大龍潭郷混薩拉村はマンゴーの栽培村だ。山頂から村を見下ろすと、マンゴーの果樹が一面に広がる。混薩拉村の元党支部書記・李徳さんによると、ここには421戸1400人余りの村民が暮らしており、2万ムー近くでマンゴーを栽培している。マンゴー栽培事業が始まったのは1988年で、それ以前は穀物を主に栽培していたため、農民の収入が低かった。現在では、マンゴー栽培業によって、各家の年間収入は10万元を上回っている。攀枝花市のマンゴーは成熟期が遅いわりに質が良く、毎年まだマンゴーが熟していないときにすでに予約の注文が殺到する。ここ数年、中国のネット通販業界が急速な発展を遂げる中、李さんは村民を率いて商社を設立し、電子商取引を始めることによって、マンゴーを全国各地に販売するだけでなく、海外へも輸出している。  マンゴーのほか、ドラゴンフルーツ、ビワ、アボカドなどのトロピカルフルーツも攀枝花市で広く栽培されている。ここのドラゴンフルーツはジューシーで味が良く、品質も一流で、中国で評価が高い。ここのトロピカルフルーツは中国だけでなく、カナダなど10余りの国・地域にも輸出されている。昨年、攀枝花市はマンゴーの輸出量が2万3000㌧になった。トロピカルフルーツはすでに都市を代表する「甘いシンボル」となっている。

都市の彩り 迤沙拉村と苴却硯

南北に走る横断山脈の鮮明な特徴の一つに、数多くの少数民族が暮らしていることが挙げられる。民族学者の費孝通氏はかつて、横断山脈を「藏彝走廊」と表現した。歴史的変遷の中、横断山脈は漢民族とチベット族の二つの文明を隔て、それらの文化を過度に融合させることなく独自の特徴を保ちながら発展させた。そして、戦争や自然の変化のせいで北方から移動してきた遊牧民族は、深山幽谷という地理的条件の影響を受け、漢民族とチベット族どちらの文化にも同質化(10)されず、独自の特色を保ってきた。横断山脈では、イー(彝)族、ハニ(哈尼)族、ダイ(傣)族、回族など数多くの少数民族が生活しており、昔ながらの生活を守っている。


鮮やかな赤い壁と落ち着いた灰色の瓦のコントラストが映える迤沙拉村の風景

 攀枝花市仁和区平地鎮にある迤沙拉村はイー族の古い村落だ。604戸、2225人が住んでおり、その中の97%がイー族だ。村主任・毛建樺さんの紹介によると、迤沙拉村は600年余りの歴史を持っており、史料によれば明の時代(1368~1644年)までさかのぼれる。「迤沙拉」はイー族語で「水が流れ落ちる場所」を意味する。その名前の通り、村の地下に鍾乳洞が多くあるため、水が地上にたまりにくい。村民のほとんどがイー族だが、イー族と漢民族がここで高度な民族融合を果たしたのも事実だ。村には起、毛、納、張という名字が多く、漢民族の名字が影響を与えている。


イー族夫婦の毛光禄さんと張友蘭さん。村の行事にはいつも参加し、演奏を披露する

 迤沙拉村に入ると、赤い壁と灰色の瓦の家屋が目に飛び込んでくる。軒下や壁の隅などまで、安徽省の伝統的な建築様式である徽派建築だ。毛建樺さんはこう紹介してくれた。明の初代皇帝・朱元璋(1328~98年)は西南地区を鎮めるために、兵を率いてここまで来た。平定後、兵士の多くはここで暮らすようになり、その中にいた多くの安徽省出身の職人がここに家を建て始めた。白い壁と灰色の瓦は徽派建築の典型的な様式だが、村で白い石灰が見つからなかったので、代わりに赤土で壁を覆った。そうして、赤い壁に灰色の瓦という組み合わせが生まれた。


「談経古楽」を演奏する攀枝花市仁和区平地鎮「中心小学」の児童たち。同校は長年、児童たちが伝統文化を継承するよう取り組んでいる

 数百年間、迤沙拉村のイー族は代々ここで暮らしており、今でも独特な生活習慣と風習を守っている。客が訪れれば、イー族は「談経古楽」という、道教の特徴を持つ古い民俗音楽を披露する。道教の儀式でよく見かける木魚、鈸、磬などを使った演奏は、古雅な趣を帯びた明るく澄んだ音が響き渡る。そのほか、迤沙拉村のイー族は「羊皮鼓舞」という民族舞踊を行う。踊り手は羊の皮でできた太鼓を手に持ち、リズムに合わせて跳ねたり歌ったりして、天候の安定と村の平安を祈る。2005年、迤沙拉村は「中国の歴史的な文化村」と評価された。


苴却硯の職人罗春明氏

 攀枝花には「しょきゃくすずり)」という珍品がある。このすずりの原料となる石は仁和区平地鎮と大龍潭郷の谷の中から取れる。人々はこの石を「持てば赤子の肌のごとし、叩く音は瓦と金のごとし」と褒め称えている。すずりとなってからは、墨を磨っても静寂を保ち、墨液は油のごとく輝き、紙に書いてもその特性は少しも失われない。また、ここの石は彩り豊かで、眼、皮、線状の模様がある。そのため、苴却硯は「すずりの中でも珍品」と讃えられてきた。清代宣統2(1910)年、苴却の地方官・宋光枢は三つの苴却硯を持ってパナマの国際博覧会に出展した。すずりは賞を一挙に獲得し、その名を国内外に知らしめた。苴却硯の名はここから広く知れ渡るようになった。

 生活様式の変化に伴い、苴却硯のすずりとしての使用は減り続けているが、芸術品としての価値はますます高まっている。現在、攀枝花では多くの芸術家が苴却硯の文化発見と芸術創作に身を投じており、苴却硯をますますいきいきとさせている。日本、米国、欧州などの国々からやって来る多くの観光客は苴却硯を非常に気に入り、苴却硯を持って帰国するとともに、中国文化を世界中に広めている。

中国苴却硯博物館(写真・王東)

 

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