漢字のルーツを伝える 甲骨文字発見120年
李霞 黄麗巍=文
甲骨文字とは、甲骨(亀の甲羅や獣の骨)に刻まれた文字のことで、主に河南省安陽市にある商(殷)王朝の遺跡、殷墟で発見された。中国商代後期(紀元前14世紀〜同11世紀)の王室や貴族が占いと記録に用いたとされ、契文、甲骨刻辞、卜辞などとも呼ばれる。
120年前、甲骨文字の考古学的発見により、伝説とされていた数千年前の歴史と文明が深い眠りから呼び覚まされ、初期中華文明の研究にとって大きな影響をもたらす歴史資料となった。
習近平総書記は次のように述べている。「殷墟における甲骨文字の重大な発見は中華文明ひいては人類の発展史において画期的な意味を持っている。甲骨文字は、中国最古の整った文字体系であり、漢字の起源、中国の優れた伝統文化の根源だ。今後より大事に受け継ぎ、発展させていくべきだ」
地下に深く埋もれていた商王の遺品から研究者の机の上にある拓本、クラウド内の電子データまで、120年の時を経て、甲骨文字はますます重要視されるようになっている。甲骨文字は3000年以上前の中国の社会生活の姿を現しただけでなく、中国伝統文化の特徴と品格をわれわれに示している。
(写真・馬悦)
漢方の甲骨が歴史を実証
文字が刻まれている亀の甲羅と獣の骨は長らく薬として使われていたが、19世紀末、考古学者の王懿栄と王襄に注目された。王懿栄は1899年、まず文字が刻まれている甲骨を価値のある骨董と見なし、王襄と共に大量に収集し始めた。こうして甲骨文字研究の幕が切って落とされた。
1900年に王懿栄が亡くなった後、彼の収集した1000点以上の甲骨を友人の劉鶚が購入した。3年後、劉鶚は収集した甲骨を1058点選定し、『鉄雲蔵亀』を編集した。これは中国で甲骨文字について書かれた最初の専門書だ。甲骨文字が初めて個人の所蔵品から学者が研究する資料になり、中国の研究者もここから甲骨文字研究の分野に足を踏み入れた。
かつて中国の歴史学界には、古代の文献に出てくる商の歴史を疑問視する見方が存在し、商王朝は単なる伝説だと考える人もいた。そうした中、甲骨文字の発見は世間を驚かせ、商王朝の人々が自ら刻んだ古代の文字はこの古代史の存在を実証した。
古代文字を刻んだこれらの甲骨は一瞬で価格が高騰し、入手しにくくなった。それでも当時の中国の知識人たちは、甲骨文字には古代中国の貴重な記憶が秘められていると考え、自ら入手し進んで研究に没頭した。
甲骨文字について、博識な研究者や専門家でも、まずは文字を読み取ることから研究を始めなければならなかった。甲骨文字は難解で見分けにくかったが、研究者たちは解読に心血を注ぎ、研究を代々受け継いでいった。1917年、中国近現代の著名な学者の王国維が『殷卜辞中所見先公先王考』を著した。これは甲骨文字と古代から伝わる『史記』などの文献を用い、商代の歴史を証明していく先例を切り開いた。これにより、文字によって記された中華文明の歴史は5世紀近くさかのぼることになった。
甲骨文字を解読する作業は今でもなお続いている。中国社会科学院甲骨文殷商史研究センターの宋鎮豪主任は以前、「40年以上甲骨学の研究を続けていますが、甲骨文字を目にするたび、3000年以上前の昔の人と対話しているようです」と述べた。
発掘で浮かび上がった古代王朝の姿
殷墟は甲骨文字のふるさとで、商王朝後期の都でもある。河南省安陽市殷都区に位置し、洹河が横断し、面積は約36平方㌔に及ぶ。考古学の発掘調査によって、商王朝晩期の宮殿や宗廟、王陵、民家、墓地、工房などの遺跡が発見された。
中国社会科学院考古研究所安陽殷墟考古隊の唐際根隊長は、この3000年以上前の商王朝の都を次のように説明する。「ふと気がつくと、商王朝の様子が地下から目の前に広がってきます。第23代王の武丁と妻の婦好が肩を並べ、貞人(王のために祭祀や占いを行った担当者の総称)が占い、兵士が訓練し、祭事が期日通りに行われています。宮殿の外では、南北2本、東西3本の道を馬車が疾走し、密集した民家の間を人々が行き来しています。北西から南東へ流れる人工の用水路が近くにあり、鋳銅工房からは火花が飛び散っている……」
このようなロマンチックな想像は、歴代の考古学者たちがこの3000年以上前の商の都をたゆまず発掘研究してきた成果のたまものだ。
文字の刻まれた甲骨が安陽から出土したと確認された後、殷墟へ甲骨を掘りに行くプロジェクトが実施された。1928年10月、考古学者の董作賓が殷墟で初めて野外発掘調査を行った。それ以降、考古学者はこの周辺で10年にわたって15回の考古学調査を行った。
36年、調査団は大量の甲骨が埋まった丸い穴を発見した。これらの甲骨は厚さ1・6㍍に達し、整理すると計1万7096点が確認され、8点の牛骨を除いた全てが亀の甲羅だった。出土数は現在までの考古学的発掘の中で最多だ。これらの甲骨は武丁の時期に埋められたもので、商の王室の占いの記録だ。王が病気にかかった、王が何かの夢を見た、王が馬車の事故に遭った、王妃が生んだ子どもの性別や不吉な前兆――など、こうした記録により、商代の多くの出来事や人物について知ることができ、一つの王朝の姿が日に日にはっきりと浮かび上がってきた。
このほか考古学調査で出土した物の中には、3000年以上前の青銅製の儀礼用品や食器、酒器、武器、玉器、道具などの文物が大量にあった。これらの形と構造は多様で、デザインは複雑かつ神秘的で、その全てが商代の人々特有の宗教信仰や美的感覚を反映していた。現在、これらは殷墟博物館に展示されており、神秘的で輝かしい商王朝を甲骨文字と共に映し出している。
安陽で発掘された殷墟宮殿宗廟遺跡群(写真・陳建/人民画報)
1928年の第1回殷墟発掘調査での董作賓(右)と立春昱(写真提供・殷墟管理処)
1936年の第13回殷墟発掘調査では、文字の刻まれた甲骨1万7096点が小屯甲骨坑から出土した。これは殷墟発掘史上、甲骨を最も多く発見した調査だった(写真提供・殷墟管理処)
かつて商王朝の貴族の埋葬区だった殷墟王陵遺跡群(写真・徐訊/人民画報)
殷墟から出土した商王朝の貴族の馬車6両(写真・陳建/人民画報)
甲骨文字の一部と現在の漢字の比較
1991年10月、発掘現場で甲骨を整理する(『殷墟花園荘東地甲骨』より)
殷墟から出土した文物を収蔵し整理する安陽の考古学者(写真・陳建/人民画報)
殷墟から出土した文物を測量し修復する(写真・陳建/人民画報)
甲骨文字をスキャンしてコンピューターに取り込み、甲骨文字ビッグデータプラットフォームを構築する(写真・徐訊/人民画報)
貞人が「般」という貴族のため、出征で災いがあるかどうかを占い、商王の武丁が災いはないと判断したことを記述した甲骨(写真・浦峰)
商と周辺部族の間で起きた辺境の衝突について記載した甲骨(写真提供・中国国家博物館)
商王の狩猟時に起きた車の事故について記載した甲骨(写真・浦峰)
商王が獲物を捕り、ほかの者に恩賞を与えたことを記載した甲骨(写真・浦峰)
強風について記録した甲骨。商代の気象研究にとって極めて重要な史料だ(写真・馬悦)
殷墟の婦好の墓から出土した商代の司母辛方鼎(写真・陳建/人民画報)
殷墟の婦好の墓から出土した商代の3本足の青銅製酒器(写真・馬悦)
殷墟の婦好の墓から出土した商代の銅首玉身虎(写真・馬悦)
殷墟の婦好の墓から出土した商代の玉の矛(写真・馬悦)
地方初の国家級博物館
多くの人々が、安陽は甲骨文字のふるさとであり、中国の「文字の里」だと考えている。2001年、殷墟の世界遺産への登録申請をきっかけに、同市は文字をテーマとした博物館を建設することを決めた。そして09年11月、中国文字博物館が開館した。同館は目下、中国で唯一の首都以外に建てられた国家級博物館だ。開館に際し馮其庸初代館長は、「文字が里帰りした」と同館設立を評価した。
同博物館前の広場には、アーチ状の大きな金色の門が立っている。この形状は「字」を表す甲骨文字に由来する。そこから展示施設に延びる通路の両脇には、甲骨や青銅器28点から成る石碑が並び、これらは殷商文化を最も代表する甲骨文字と青銅器という二つの要素を象徴している。メイン館は、「墉(城壁、高い塀の意)」の象形文字に基づいて設計され、饕餮文(獣面文様)や蟠螭文(絡み合った龍の文様)で装飾された金色の屋根を持ち、遠くから見ると古風で重々しい。
漢字の発展過程に関する2万5000点余りの文物を収蔵する河南省安陽の中国文字博物館(写真・陳建/人民画報)
3000年以上前の甲骨文字の形はそれほど定まっておらず、同じ字でも異なる形が多く、絵としての特徴が強いが、全体的に見るとすでに比較的完成された文字体系だった。これと今日の漢字は同じ流れをくんでいる。上から下へ、右から左へ書くという習慣も、後世の漢字の筆記ルールを形成する基礎となった。20世紀初めになって、こうした筆記ルールは次第に横書きに取って代わられていった。
習総書記はかつて、「中国の文字は中国文化の伝承のシンボルだ。殷墟の甲骨文字は今から3000年以上前のもので、3000年余りにわたって漢字の構造は変化していない。こうした伝承が真の中華文明の遺伝子だ」と指摘した。
数千年来、中国の漢字は甲骨、篆、隷、草、行、楷など異なる書体の変化を経てきたが、甲骨文字から変化した漢字は現在でも依然として世界の5分の1の人口が使う文字だ。しかも甲骨文字は中国人の価値観や考え方、美意識に極めて大きな影響を与えている。
甲骨文字は全人類共通の精神的な財産でもある。現在、文字の刻まれた甲骨は約15万点、文字は約4500字発見されている。このうち2万6000点の甲骨は日本、米国、カナダ、英国、フランス、ドイツ、ロシアなど多くの博物館や科学研究機関、公的機関、民間機関に所蔵されている。2017年、甲骨文字は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産(世界の記憶)に登録され、世界が甲骨文字の文化的価値と歴史的意義を高く認めていることを示した。
生活にも恵みもたらす
甲骨文字発見120周年を記念するため、中国共産党中央宣伝部と教育部、文化・観光部、科学技術部、国家語言文字工作委員会、国家文物局、中国社会科学院、河南省人民政府、中国国家博物館の共催による「証古澤今(古代史を証明し、現代社会に恵みをもたらす)――甲骨文字文化展」が昨年10月22日、北京市内の国家博物館で開催された。
展覧会を企画した趙永如さんは、「甲骨文字は文明の記号、文化の象徴というだけでなく、『史記』を含む一連の文献の真実性を実証しており、『古代史を証明した』と言えます。また、古代の世界四大文明の文字のうち、殷墟の甲骨文字を代表とする中国の古代文字体系だけが数千年の変化を経て今なお受け継がれ、現代社会に影響を与えており、『現代社会に恵みをもたらしている』と言えます」と語った。
同展の甲骨文字の発見や特徴に関する解説などにより、見学者たちは甲骨文字に関する基礎知識を得ることができる。同時に、同展は甲骨文字を通して商代社会の姿も示しており、展示内容は商王の家系、祭祀と信仰、戦争と軍隊、貴族と官吏、牧畜と狩猟、天候と農業、病気と出産、地理と方国(さまざまな規模の国や氏族集団などの勢力)、西周の甲骨という九つのテーマに分かれている。こうした豊富な内容により、甲骨文字が伝える中華文明の奥深さを見た者に印象付けている。
同展で展示された甲骨の多くは、今回初めて公開された物だ。このほか、関連する大量の青銅器や陶器、玉器、書籍などの文物もあり、古代の中国の天文暦法や政治・軍事、社会・家庭、礼式・風俗、科学技術など、各分野における発展状況を生き生きと示した。
甲骨文字は非常に難解で、一般の人々にとって内容の理解には限界があるため、今回特にマルチメディアを組み合わせることによって、分かりやすく展示された。
展示ホールでは、甲骨文字で作られた「隊列」が多くの見学者の目を引き付けていた。これは『従軍行』と題した作品で、甲骨文字のうち軍事と関わりのある象形文字で構成されていた。大きな馬が四輪の戦闘馬車を引き、武器と盾を持った兵士や弓取りを乗せている。右側の兵士は陣太鼓をたたいて士気を高め、大きな旗を振る歩兵と斧を持った騎兵がその後ろに続く。作品は甲骨文字自体の持つ象形文字の特徴によって実際の場面を再現し、伝統的かつ現代的な視覚的表現と美的センスを融合させた。インタラクティブなマルチメディア作品『五行・射日』は中国伝統の「五行(金、木、水、火、土の5元素)」をもとに、鉄の矛と鉄甲、繁茂した森林、風雨と湖、村落のかがり火、土地と衆生などの映像を甲骨文字で構成し、見学者はタッチスクリーンで自由に場面を選んで体験できる。
甲骨文字文化展で甲骨文をつなぎ合わせて表現した軍隊出征の場面(写真・馬悦)
また、来訪者はスマートフォンで微信(ウイーチャット、中国版LINE)で使える甲骨文字をモチーフにした6種類の「甲骨文字スタンプ」をダウンロードすることができ、古代甲骨文字を自分の生活の中でも使えるようになった。こうした奥深いが分かりやすく、工夫を凝らした展示内容により、甲骨文字は人々の心の中によみがえった。
模写した甲骨文字のカードを掲げる小学生(写真・陳建/人民画報)