『雨中嵐山』からの啓示(上)

2020-07-20 09:58:46

100年後の読解と検証

王敏=文

1919年45日、周恩来は日本での留学生活を終え、帰国前に雨を押して京都の名山・嵐山を訪れた。筆者は周恩来が雨の嵐山を二度も訪れた理由を考察するために、嵐山の概況や周恩来の作品、対日外交の記録をたどってみた。するとそこから、周恩来の終始一貫した思想が浮かび上がってきた。

 

南開中学で始まった日本との関わり

1913〜17年、天津の南開中学で学んだ周恩来は、下級生の陶尚釗(1907~22)と出会った。陶尚釗の父・陶大均(1858~1910)は清末の1872年に官費で日本に留学した有名な「日本通」で、79年に横浜の中国領事館で黎庶昌駐日公使の公務を手助けする職に就き、のちの91年、北京同文館が東文館を設立する際に帰国して教員となった。95年には清末の外交を担った政治家の李鴻章と共に馬関条約(下関条約)調印のため日本に赴き、対日交渉のサポートを行っている。

周恩来は幼い頃から「国家に献身する」という理想を持ち、14歳の頃には「中国の崛起のために学ぶ」と心に決めていたが、陶氏親子との関わりで、自然に日本に関心の目を向けるようになったと思われる。さらに陶大均が中国の利益に大きく関わる馬関条約の調印に関係する人物だったことから、国家の大事に関心を持つ周恩来は必然的に日本に対して格別の注目をするようになった。また、南開中学で書いた52の作文のうち五つは、日本の政治や軍事などの時事問題に関するものだった。これらの作文に書かれた構想と「日本通」一家との交流が、周恩来少年の大志に大いに影響したことは想像に難くない。


ヒューマニズムの視点から観察

「ヒューマニズム」は、周恩来の魅力として欠くことができない要素だろう。周恩来の日本に対する視点は、日本留学中、総理就任後にかかわらずヒューマニズムがベースとなっている。これは周恩来が残した種々の「感想」を見ただけでも十分にうかがえる。

1918年2月4日の日記では、「日本に来てからというもの、われわれ留学生は日本人の一挙一動や行いを学びの視点で逐一観察するべく、より注意を払うべきだと感じている。私は新聞を読む時間に毎日1時間以上を充てている。時間は貴重だが、彼らの国情を常に知っていなければならないからだ」と書いている。

中央文献出版社が90年に出版した『周恩来外交文選』には、「私は日本で生活していたから、日本の印象がとても強い。日本は非常に美しい文化を有している」と、日本についての考察が記されている。

541011日、周恩来は訪中した日本人と会見し「この百年、日本は経済においても文化においても、われわれの先を歩いています。明治維新を経て、日本は工業化の道を選びましたが、中国は長きにわたって各方面で出遅れています。皆さんは、中国は悠久の文化を持っていると言いますが、それは過去のことです。歴史的に見れば確かに価値あるものでしょう。しかしこの百年において、中国は確かに発展から出遅れているのです。この80年来、中国は種々の西洋文化を学びましたが、当初は多くを皆さんのところから学びました。また、今も健在で政治に関わる前世代の人々の多くは、日本への留学経験があります。本日出席されている郭沫若先生はまさに日本留学組の代表であり、(九州)帝国大学で医学を学んでいました。日本文化がわれわれにかくもさまざまな良いことを与えてくれたことに、われわれは感謝しなければなりません」と語っている。

めいの周秉徳さんは、筆者に周恩来との思い出を語ってくれた。72年9月25日に当時の田中角栄首相、大平正芳外相が訪中したときのことだ。早朝5時に起床する田中首相の習慣に合わせ、徹夜で執務することが多い周恩来が応接に当たったという。「『生活リズムを田中首相に合わせるから、夜10時以降に報告書類を持ってこないように』と言ったのです」と周さんは語る。

これらのエピソードはほんの一部だが、周恩来の日本に対するヒューマニズムあふれる視点が十分に見受けられる。周恩来は人情味あふれる心情をもって日本という異国を冷静かつ客観的に見、柔軟で多様性に富んだ観察眼を持ち、礼と節度をもって国際交流を行うことで、潜在的な外交効果を上げていたと言えよう。

 

京都・亀山公園にある角倉了以の銅像。角倉は桃山末期から江戸初期にかけて海外貿易で活躍し、水利に力を注いだ(写真提供・王敏)

 

『雨中嵐山』で周恩来の足跡をたどる

周恩来は1919年4月5日に『雨中嵐山』を作詩したのち、続編として『雨後嵐山』を記したと筆者は考える。この2作の内容は一部が重複しており、迷いを抱えた青年期の周恩来が、雨の嵐山で一筋の光明を見いだすまでを表している。

 

雨中嵐山―日本京都

一九一九年四月五日

雨の中を二度嵐山に遊ぶ

両岸の青き松に いく株かの桜まじる

道の尽きるやひときわ高き山見ゆ

流れ出る泉は緑に映え 石をめぐりて人を照らす

雨濛々として霧深く

陽の光雲間より射して いよいよなまめかし

世のもろもろの真理は 求めるほどに模糊とするも

――模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば

真にいよいよなまめかし

(訳 蔡子民)

 

雨後嵐山

山中の雨が過ぎ雲はいよいよ暗く

黄昏が近づいてくる

万緑の中の桜ひと群れ

薄紅がなまめかしく、人心を酔わせる

自然美とはかくも人の手によらず

人に束縛されないものか

思い起こせばあの宗教、礼法、古い文芸といった粉飾物は

信仰や情感、美観とやらを説く学説に支配されている

高く登り遠方を望めば

青山は縹渺と拡がり

覆い尽くされた白雲は帯のごとし

稲妻が十ばかり、茫洋と暗い街を射す

このとき島民の心が、景色にあぶり出されるようだ

元老、軍閥、党閥、資本家……

これから「何に依るつもりだ?」


『雨中嵐山』では足を進めるごとに景色が変わるという描写方法を用いている。つまり、作者が前へ行くほど風景そして時空が変化していくということだ。『雨後嵐山』の「山中の雨が過ぎ」「高く登り遠方を望めば」は、川沿いに歩いたその日の周恩来が、「道の尽きるやひときわ高き山」に至り、その高みに登り、「縹渺と拡がる青山」や「茫洋と暗い街」を俯瞰している。つまり、『雨中嵐山』が白昼の「観察眼」に始まるなら、『雨後嵐山』は夕刻からの情景を収めたということになる。

近景も遠景も眺められる場所といえば、山頂の大悲閣千光寺だろう。周恩来が初めて嵐山を訪れた際には、京福電鉄の嵐山本線に乗り、終点の嵐山で下車して天龍寺と亀山公園一帯を歩いている。亀山公園で角倉了以の銅像を見つけた周恩来が、角倉が晩年を過ごした千光寺を見てみようと思い立ったことが考察される。しかし時間に限りがあったためその日は行けず、4月5日に「二度目の嵐山」を訪れた際に千光寺探訪を実現したのだろうと思われる。次回は周恩来が4月5日を選んだ理由を探る。

 

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