美しい中国・雲南省保山市

2020-07-30 10:25:08

雲南の歴史たたえる村々 不屈の魂で麗しき山河に

賈秋雅=文 

曲揚=写真 

町と道が物語る歴史

 保山市隆陽区の古い板橋鎮(県に属する行政単位)と金鶏鎮は、南のシルクロードにおける物資の集散地だった。馬が首に付けた鈴をカランカランと音を立てて進んだ隊商は、遠い歴史に消え去った。しかし、古色蒼然とした商店は変わらず通りに軒を連ねる。町のそこかしこに、時間が止まってたたずんでいる。

 

にぎわう板橋鎮の市(写真提供・保山市党委員会宣伝部)

 

1杯たった2元の老舗茶館

 唐代に作られた「茶馬古道」と同様、隊商は南のシルクロードでも重要な輸送手段だった。馬の背に茶葉や絹織物などを載せた隊商が、西南の辺境を往来し、途中の村々は宿場町として栄えた。板橋鎮はそんな町の一つだ。

 通り沿いにある一軒の古い茶館に腰を下ろし、1杯2元の茶をすする――ご近所さんたちにとっては、普段の過ごし方だ。お茶代だけで、ひと月の収入は600~700元。わずかなものだが、茶館の女主人・万文鳳さん(62)はそれでも十分楽しい。今では、この茶館は隆陽区の無形文化遺産となっていて、その評判を聞いて遠くからやって来る客も少なくない。「1杯10元でも高くないと言う人もいるけど、ご近所さんが来なくなるかもしれないし」とはにかむ万文鳳さん。値段はずっと2元に据え置いたまま。顔なじみたちが毎日やって来ては、気軽におしゃべりを楽しんでほしい――そう願っている。古ぼけた店内に陽の光が差し、温かな茶が心を温めてくれた。

 

金鶏鎮の「小袋豆腐」

 板橋鎮から東に車で約10分。金鶏古鎮にある食堂「小袋豆腐園」にやって来た。この地方の名物・小袋豆腐は、はしでつまみ上げると小さな袋に似ていることから名付けられた。味も形も日本の「がんもどき」に似ている。食べ方はスープ入り肉まんと同じ。まず外側の黄色い薄皮を少しかみ切り、小さな穴を開ける。そして熱さに気を付けながら、ゆっくりと中のミルクのような豆腐スープをすする。口当たりは、若者が好きなアイスクリームの天ぷらといったところか。

 「この豆腐は他のところでは作れないよ」。保山市の無形文化財継承者で、豆腐店のオーナーの高文金さん(58)は胸を張る。「この辺りの水はアルカリ分が強いので、フワフワの豆腐ができるんです。中のスープは後で入れるのではなく、自然にそうなるんですよ」

 

袋のような形の金鶏豆腐(写真・賈秋雅/人民中国)

 

激戦の地にかかる恵通橋

 歴史的な南のシルクロード以外に、保山地域にはもう一つ国内外を驚かせた道――ビルマ公路がある。1938年末、日本軍が雨のように銃弾を浴びせる中、20万余りの雲南の人々が険しい山中で生死を顧みず工事に取り組み、約8カ月で道路を完成。道路建設の歴史に一つの奇跡を創った。抗日戦争時、この道路はビルマから中国へ物資を輸送する「輸血管」であり、さらに民族の存亡がかかった「生命線」であった。ビルマ公路を巡る雲南南部の戦いで日本軍の封鎖を突破したことは、中国の正面戦線における反攻の大きな転換点となった。

 怒江に架かる恵通橋はビルマ公路の喉元に当たるため、当時日本軍の侵略を阻むために爆破された。中国の遠征軍は44年、同橋東側の施甸から怒江を強行渡河。その後、再建された恵通橋は反撃の最前線となった。現在、恵通橋は使われなくなって久しいが、70年代に同橋から遠くない南側に紅旗橋が架けられ、今も交通が絶えない。また北側には、高速列車用の怒江特大鉄橋が間もなく完成する。移り行く歳月の中、この三つの橋は、中国人の血戦での奮闘から民族の偉大な復興を静かに見つめてきたのだ。

 


恵通橋(上図手前)と紅旗橋(上図奥)、間もなく完成する怒江特大橋(下)(写真・賈秋雅/人民中国)

 

黄草壩小学校に平和の願い託し

 あの凄惨を極めた戦いで、木下昌巳氏は数少ない日本軍の生存者だった。当時、伝令役だった木下氏が生きて帰れたのは、現地の人に助けられたからという。戦後、木下氏は何度も保山を訪れては、悔恨と感謝の気持ちを義捐金や物資の寄付という形で示した。木下氏の戦友で、やはり雲南で戦ったことのある照井千郷氏も、現地の多くの学校建設に寄付した一人だった。木下氏の勧めで照井氏は1999年、龍陵県の黄草壩小学校の校舎建設に資金を寄付した。

 「照井さんは事前の視察、候補地の選定、竣工と、合わせて3度やって来ました。寄付金で建ったこの建物は、今もメインの校舎として使っています」と同校の楊才栄校長は話す。かつてここは交通の便が悪く、校舎も粗末で、教育レベルも遅れた地域だった。多くの児童は学校に通えず、教師が村にやって来て臨時教場で授業をするだけ。それも、一人の教師で1年生から6年生まで全てを教えていた。「校舎の完成後、学校の環境はすっかり良くなり、子どもたちは次々に学校に来るようになりました。現在は557人の小学生が学び、また、ここ数年本校出身の高校生のうちで、北京大学や清華大学などの名門大学に合格した人も数人いました」と楊校長は誇らしげに語った。

 いつかこの小学校の児童が照井氏の古里を訪れるとともに、かつて炎と血にまみれたこの土地に平和の種がまかれ、友好交流という新たな花が咲き広がってほしい――楊校長はそう願っている。

 

野鳥の楽園で富む農民 鳥を捕るより保護が大切

 隆陽区と西側の騰冲市の境をなす高黎貢山の山中に百花嶺がある。この辺りは世界で最も高い標高にある熱帯雨林だ。ここには中国の全鳥類の37・5%、525種類が生息し、「世界的な種の遺伝子バンク」と称されている。

 

百花嶺の美しい野鳥(写真提供・懐彪雲)

 百花嶺の人気者は野鳥だ。鳥たちはひっきりなしにさえずる。バードウオッチャーたちが音のする方に顔を向けても、その姿を捉えるのはなかなか難しい。しかし、現地の野鳥ガイドの侯体国さんには少しも難しいことはない。侯さんは、野鳥が残したわずかな痕跡からそのすみかを探し出す。それだけでなく、そのかすかな鳴き声から鳥たちの喜怒哀楽を聞き分ける。

 侯さんのこうした特別な能力は、子どものころから鳥を捕って培われたものだ。今から30年ほど前の89年、ある野鳥撮影の愛好家夫婦が野鳥探しのため、侯さんに案内を頼んだ。撮影された野鳥はとても美しく、侯さんはかなりの報酬を手にした。そこで侯さんは、鳥を捕るより保護した方が良い、ということに気付いた。またある日、野鳥ガイドをしていた時のことだ。多くの鳥たちが壊れた水の管の周りにやって来ては、喉を潤しているのに気付いた。その時、野鳥用の水浴び場を作る考えが浮かんだ。早速作って置いてみると、飛来する鳥が増え、観察や撮影に訪れるバードウオッチャーたちもどんどん増えていった。

 忙しく一人では手が回らなくなった侯さんは、村人たちを教え込んで野鳥ガイドに育てることにした。そのガイドたちに鳥の水浴び場の作り方も教えた。さらに長女の娘婿をこの仕事に引き入れ、次女の夫も町での仕事を辞めて手伝うことになった。こうして、今では百花嶺の野鳥の水浴び地は至るところに置かれ、撮影客でにぎわっている。

 筆者が訪れた時、100人以上が宿泊できる侯さんの「農家楽」(農村民宿)は超満員。侯さんはバードウオッチャーたちを水浴び場へ案内。娘婿は宿泊客の受け付けを済ませると、学生たちを連れて自然学習の野鳥観察へと大忙しだ。こうして小さな野鳥たちは山林に彩を添え、村々を豊かに変え、百花嶺と世界の距離を近づけた。2016年から保山市が主催する「野鳥観察ウイーク」は、今では村の年に一度の国際的なカーニバルとなっている。

 

「コーヒー書記」が富裕指南

 百花嶺から車で南に約1時間。潞江鎮にある新寨村に着いた。ここの山の斜面は一面緑のコーヒーの果樹だ。熟れた赤やまだ若い緑が混じるコーヒーの実は、サクランボよりちょっと小さめ。ちょっと揺すっただけで枝から落ちそうだ。

 潞江鎮は雲南コーヒーの一大生産地だ。当地は緯度が低く海抜1000㍍前後で、雨量もたっぷりあり日照条件も良く、コーヒーの栽培にはぴったりの自然条件だ。だが、栽培に適しているからといって収穫が多いとは限らない。ここのコーヒー農家は、長年それぞれのやり方で栽培していて市場への対応能力が弱かった。コーヒー豆の市況に農家が踊らされ、豆の相場が良い時はコーヒーの木を植え、相場が悪くなると他の作物に植え換える――それを繰り返してきた。

 そんな人たちが12年、当時村の外で建築の請負仕事をしていた王加維氏を村の書記に迎えた。そして、コーヒー栽培で村を発展させる「道案内」を探し当てた。その頃、王氏は年収50万元余りを稼いでいたが、書記になったら収入は一年5万元足らず。「みんなが豊かになれるのなら、自分の稼ぎが少ないなんてどうでもよい」。王書記のリードで大規模化した経営はすぐに結果を出した。現在、コーヒー農園は村全体に広まり、コーヒー文化ウイークも始めた。王書記は「コーヒー観光」を推進しており、新寨村は日々豊かになりつつある。

 

この日の収穫も一段落。農園で働く女性もコーヒーカップを手におしゃべりを楽しむ

 

荒れ山を森林に変えた老幹部

 緑の樹林が陰なす春うららの山に遊ぶ――まるで天然の酸素バーに入ったようだ。ここは施甸県の大亮山。だが30年前は一面荒れ果てた山だった。このはげ山を緑の峰々に変えたのは、保山のリーダーの一人で地区党委員会書記を務めた楊善洲氏だ。楊氏は1988年に定年退職すると、省都・昆明での悠々自適の生活という恵まれた条件を断り、鋤を担いで古里に戻って山に木を植え造林活動を始めた。

 「わたしたち子どもとしては、退職したら父に家に戻って母と一緒に暮らしてほしいと望んでいました。でも、父は植樹をやると定年前から決めていました。年をとっても古里のために何かやりたかったのです。やめさせるなんてできませんでした」。楊氏の長女・楊会菊さんはこう振り返った。

 かつての大亮山は木もなく一面荒れ果てた山で、現地の人は皆、楊善洲氏に他の所に植樹するよう勧めた。しかし、古里の麗しい山河を取り戻そうと決意を固めた楊氏は、大亮山に営林場を立ち上げて腰を落ち着けた。現地の人々を率い、共に作業に励み続けて20年。そして2009年、3億元の価値を持つ営林場を国に無償で寄付。古里の人々に幸せをもたらしたいという願いは、ついに成就した。1年後、楊氏は他界した。

 楊氏の無私に貢献する心が、家族の理解を勝ち取った。また多くの後に続く人々を生んだ。1990年に営林場にやってきた現在の営林場長・周波氏もその一人だ。若い頃、周氏はこんなに厳しい仕事とは思ってもみなかった。逃げ出そうと考えたことさえあった。実は周氏には、これまで二度ほど県中心部への転勤の機会があった。だが、「楊さんは良い人だから、いっしょに付いて行けば間違いない」と二度とも父親からこう諭され、そのまま残る道を選んだ。そして現在に至った。

 その後、楊書記を記念して、営林場は善洲営林場と名付けられた。さらに党幹部の学習施設として楊善洲幹部学院も建設された。今ここでは、荒れ果てた山から緑の峰々に変わった大亮山こそが一番の生きた教材となり、全国の共産党員に楊氏の奮闘努力ぶりを伝えている。

 


過去の大亮山(上)と現在の姿(下)(写真提供・保山市党委員会宣伝部) 
関連文章