『雨中嵐山』からの啓示(下) 100年後の読解と検証
王敏=文
王敏(Wang Min)
日本アジア共同体文化協力機構顧問
国立新美術館評議委員
治水神・禹王研究会顧問
法政大学名誉教授
拓殖大学・昭和女子大学客員教授
角倉了以と千光寺
漢方医の家庭に生まれた角倉了以(1554〜1614)は当初海洋貿易に尽力して日本の海運業の開拓者となった後、黄河の治水を成功させたといわれる大禹にならい、大堰川、富士川、天竜川、高瀬川など日本の名だたる河川を次々に開削し、人々に幸せを与えた。
千光寺は第88代の後嵯峨天皇(1220~72)の祈願所で、もともと京都市右京区清凉寺の近隣にあったが、江戸初期の慶長19(1614)年、角倉が水利工事で犠牲になった農民らの慰霊のため現在地に移転させた。
千光寺は保津峡を臨む絶壁の上に建ち、境内には「地平天成」を祈願する本尊の千手観音が安置されている。角倉は晩年、この寺に居を移して修行に入り、高所に登り遠方を望み、治水後の川の流れや実際に治水が行われた大堰川(保津川から下流)に立つことによって、治水事業に献身した数々の命とその魂が安らかに眠ることを祈った。1614年、角倉はこの世を去る前に大師を招いて千光寺を開山し、山号をそのまま嵐山とし、さらに「大禹を参考に、手に石斧を持った木彫を安置し、犠牲者の魂を永遠に弔うこと」と遺言した。1630年には儒学の大家である林羅山によって「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘」が立てられた。
大悲閣に登れば史跡を見ることができ、川や水路を眺めることもできる。1919年4月5日にこの地を訪れた青年・周恩来は、踏みしめた嵐山の大地に中日両国の共通項として大禹文化が刻まれていることに気付き、万感胸に迫る思いがあったことは想像に難くない。大禹の国に向けた思いに対し、周恩来は特別な感情を抱いている。よって嵐山行きは自らのルーツをたどりたいという強烈な思いを引き起こしたと思われるが、日本の歴史や文化にも深く目を向け、日本への認識と理解を深めるきっかけにもなっただろう。
周恩来と大禹の「縁」
周恩来は代々治水関係に従事する家に生まれた。母方の祖父である万青選は淮安府の同知(同知は官職名)時代に水利を監督する「里運河同知」に選ばれ、その後徐州府の「運河同知」を歴任し、治水の専門家となった。周恩来は6歳のときに祖父青選の家に引っ越し、青選の私塾で読み書きを習った。小さい頃から家庭で水に関わる話を聞かされて育ったため、大禹への知識と理解は自然と高まり、南開中学在学中に書いたという作文には大禹が3回登場している。
周恩来の本籍は浙江省の紹興だが、今でも大禹陵など40余りの大禹の軌跡を示す史跡が残されている。大禹を祭る儀式は、紀元前210年に始皇帝が行ってから、歴代王侯の間で欠かすことなく続けられてきた。今でも紹興では、清明節に先祖と共に大禹に参る習慣が残っている。
『雨中嵐山』が作られた日付を改めて確認したところ、1919年4月5日だった(例年の清明節は4月5日だが、この年は珍しく4月6日)。4月5日の嵐山は雨で、情景は唐代の詩人・杜牧の描く「清明の時節 雨紛々」のようだっただろう。若き周恩来の胸には「佳節に逢う毎に、倍親を思う」の言葉が去来し、山水有情の感動を覚えたはずだ。そして「日本の大禹」角倉了以の銅像を思い出し、千光寺に大いに興味をそそられたのであろう。このような偶然が重なり、周恩来に「雨中嵐山を二度訪ねる」を決意させた。
治水の知恵から対日民間外交へ
周恩来の大禹に関する認識は、単なる知識にとどまらなかった。彼は大禹の品格や精神、方法論などに焦点を当て、大禹の市民生活への貢献や国政運営の実践などに注目した。少年時代の周恩来は大禹への思いが深く、総理になってからはよりその思いを強くした。彼は大禹を文明の開拓者、科学の先駆者と見なし、新中国建設に携わる公務員のあるべき姿で、国民の精神的模範だと考えた。留学を諦め帰国する間際におけるこのような大禹文化への考察は、周恩来が対日民間外交をどう行うかの参考となった。
周恩来は外交において、大禹の治水に対する理念と嵐山で得た考察を結び付けた。嵐山での行程に、中日両国間の共通点を見いだしたことが見て取れる。それは両国が漢字文化という共通項を持つため、各分野にわたって共通認識と共鳴を得ることが可能だ、ということだ。大禹を模範とした角倉了以はまさにこれを証明している。だからこそ周恩来は『雨中嵐山』で「模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば」と書き、新中国成立後の対日外交を指導する際も、両国の共通点を的確に指摘できたのであろう。
「日本とはこの60年間向き合ってきたが、さらに2000年さかのぼって考える必要がある。中日甲午戦争(1894〜95年)から数えると日本はわれわれを60年間侵略し、中国は計り知れぬ損害を受けた。しかし日本とわが国は一衣帯水の隣国であり、漢や唐の頃からの長きにわたる友好交流がある。日本は人生哲学、経済文化から生活習慣に至るまで、中国とは切っても切れない関係がある。よって現況における日本との付き合いは、譲歩しすぎてはならず、無理強いもならない。譲歩しすぎては中国の民衆が受け入れず、無理強いすれば日本政府が実行できない。よって、『慎重に考え、時間をかけて蓄積し、時が来たら実行する』必要がある。まずは文化、スポーツ、貿易から始め、各々の民間チャネルを開拓・拡大し、広く交わり、民をもって官を促し、細流を大河に変える必要がある。いっとき機が熟せば、平和五原則の基本にのっとって、国交正常化の目的を達するであろう」
周恩来が打ち出した「民間が先に立ち、民をもって官を促す」という具体的な対日外交方針は、自身の対日考察の成果に基づいている。これは中国の対日外交の正式な幕開けでもあった。周恩来は日本の政治経済、文化など多くの分野の人々や、工業、農業、商業、学術などの各界とも接触を続け、経済貿易や文化交流の扉を開けた。統計では、1953年7月1日から中日国交正常化前夜の72年9月23日までの19年間、周恩来は287回にわたって、訪中した日本からの323の代表団や客人との会見や接見を行うことで、中国の特色ある民間外交のレールを敷いた。
日中間の民間外交の成果として最も説得力のある実例は、72年の田中角栄元首相の訪中だと筆者は考える。72年10月25日、田中元首相は周恩来と行った初の会見に臨む際、初訪中について、「私は長い民間交流のレールに乗って進んできたが、今日ついにここにたどり着くことができた」と評価した。
『雨中嵐山』の読解と考察から、周恩来が中日両国の特殊な歴史と文化の関係に対して深い洞察をしていたことが分かった。周恩来が敷いた民間外交というレールは、1919年の嵐山を起点に伸びて、果てしもなく広がっている。