奈良で短歌を詠む私

2021-05-18 10:03:21

 

文・写真=呉春蘭

 

 

みかさの夜を月餅食べつつ想いけり

仲麻呂の大和 私の長安

 

これは、今年私が詠んだ短歌で、『読売新聞』の短歌投稿欄に採用された一首だ。

私は、阿倍仲麻呂のふるさと「奈良」に住んでおり、短歌を学んでいる中国人である。約1年半前、短歌好きな日本の友人から「短歌会を体験しないか」と誘われた。会では、前もって会員が作ってきた歌を先生(選者、主宰)が集め、無記名にして参加者に配る。続いて一首ずつ全員で鑑賞・合評を行い、自分が良いと思った歌に一票を投票する。最後に先生から講評を受けた上で作者を公開し、得票数を発表する。私は、「まるで文字ゲームのようで面白いなぁ」と気に入り、すぐに短歌会に入会した。

 

後で知ったことだが、これは短歌会の一番基本的なルールに過ぎなかった。歌会によっては、上位3作品まで「選歌」し、作者の優れた鑑賞力をほめたたえるところもある。時には自分が詠んだ歌を自分で批評する場に出会うかもしれない。でも、「そんな時は何事もないようにふるまい、自画自賛しても良いんですよ」と先生は教えてくれた。

入会したら、宿題として毎月2首の短歌作品を提出しなければならない。短歌そのものは面白いのだが、学びの道は決して楽ではない。

 

何を詠んだら良いか

これは私が最初に直面した難題である。

振り返ってみると、周りのささやかな出来事や何気ない日常の中の風景こそが、短歌の優れた素材ではないかと思うようになった。

『読売新聞』の読者投稿欄に初めて掲載された私の短歌「二十六分の電車に乗ると言ふ君と一緒に走る金曜の夜」を例に説明したい。

 

  この短歌では、日本でのありふれた生活の場面を描いたが、多くの日本の友人がこの句を気に入ってくれた。その理由の一つは、あまりにも日常的な場面なので、短歌が詠まれている情景に読者の心が共鳴したこと。二つ目に、31文字以外の(語られていない)余白部分が無限の想像をかき立てたからではないかと思った。

   

どのように詠めば良いか

   歌会で一票でも多く獲得するために、私はひたすら本を読みまくり、良い短歌を創ろうとした。しかし本の範囲はあまりにも広く、まるで波間を漂うような無力感を覚え要領を得なかった。困って先生に聞くと、中国人の先生は、「まずは暗唱できるぐらいまで本を読んでください。急いで創作する必要はない」と言う。一方、日本人の先生は、「創作の楽しみを味わえれば、それがいい。ひたすら書いて、決まりごとや体裁などは気にしないで」と言うのだった。この二つの答えの差は実に大きい。

そこで、私は読書を通じて短歌の規則を学ぶと共に、鑑賞力を高めながら創作を続けた。その頃は、心が動く瞬間を捉えたら、すぐ31文字の短歌に表現した。

 

「せんべい」と声をかけたら目があった奈良の小鹿に癒される夏(文・呉春蘭)

3カ月余り過ぎたある日、「短歌とは31のカナ文字を使った唐詩宋詞ではないか」と突然悟った。まさに「万変不離其宗」(いかに変わろうとも根本・本質は一つ)ではないかと感じた。

 

郷に入りては郷に従え

日本の短歌会には、「会員同士の学び合いより先生の教えが重視される」という長年のしきたりがあるようだ。しかし、これは決して仲間同士のつながりが希薄だということではない。むしろ逆で、毎月1回午後だけの集まりなのに、皆が短歌を通じて互いに研究し創作の腕を磨いたり、相手の悩み事やささやかな幸せを分かち合うことで、「あぁ毎日会う人よりもっと自分を理解できる人に巡り合えた」と心の底から感じる瞬間がある。なぜかというと、相手は自分が作った短歌を理解するとともに、自分の気持ちも理解してくれるからだ。

 

詠み続ける二つの工夫

詠み始めたら詠み続けよう――。歌会と読書会の他に、私はたくさんの和歌に関する動画も見た。もちろん、一番大切なのは創作と、毎月宿題を出すことだ。時には前もって十数首も創っては、選りすぐりの2首を提出することもある。

短歌会は柔軟で自由な組織であるし、短歌の書籍はテレビ番組ほど面白くはない。長くやっていると創作意欲が衰え、才能枯渇の感を禁じ得ない時もある。では、そんな時はどうすればいいのか。私の対処法は二つある。一つ目は目標を立てることだ。

短歌会に入会したての頃、唯一の外国人である私は、いつも得票数が一番少なかった。だが、目標を立ててから徐々に進歩し始めた。去年、私の作品は県レベルの刊行物に発表された。今年になると、『読売新聞』の紙面に作品が掲載される喜びを味わえるようになった。

二つ目は、お気に入りの歌人を見つけることだ。私が好きな歌人は二人いる。一人は『サラダ記念日』(1987年、河出書房新社)で広く知られる歌人の俵万智さん(1962~)。もう一人は、やはり歌人の河野裕子さん(1946~2010年)だ。

俵万智さんの清新で明快なリズム感、わかりやすい歌風に触発されたとしたら、河野裕子さんの作品では、その独特の世界観に圧倒されたといっても過言ではない。私は彼女の歌を通じて、繊細でありながら自由奔放で、無我夢中で恋を追求する日本女性の姿を読み取った。実生活では、河野さんの夫と長男、長女も歌人である。私は、河野さんが亡くなる直前に詠んだ次の歌に特に感動した。

 

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

 

もしあなたが疲れたり、嫌になったりしたとき、あなたの好きな歌人は、がんばっていく力を与えてくれると思う。

 

言語・国籍を超える短歌

私の心の中で、短歌とは自分の感情を思い切り表現できる絶好の場である。また、日本の友人たちとつながる共通の趣味でもあり、言語や国籍の壁を越え人類共通の感情を伝える舟でもある。

私の歌に一票を投じ励ましてくれる友人には、感謝の気持ちがいっぱいだ。こうした人たちとの付き合いの中で私は、短歌の世界には格差や偏見といった壁などはなく、ただ心がつながる美しい文字があるだけだと深く感じた。

短歌は実に面白い。もっと多くの同好者といっしょに歩んでいくことを楽しみにしている。

 

 

作者プロフィール

呉春蘭

2017年に来日、日中交流の仕事に携わる。趣味は撮影や旅行。19年に撮影作品が奈良県で最高レベルの作品展「奈良県美術展覧会」に入選。好きなアニメは「千と千尋の神隠し」。自称「文学青年」。

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