独自の文化と産業で発展 多民族共生の新疆を行く

2021-09-06 09:54:40

王浩=文・写真

新疆ウイグル自治区は中国北西部に位置し、広大な面積を誇る。天山山脈が中央部を横断し、人々はそこを境として新疆を北疆と南疆に分ける。今年6月初め、本誌記者は北疆に位置する区都ウルムチ(烏魯木斉)とイリ(伊犁)・カザフ(哈薩克)自治州の村などを訪ね、現地の社会・経済の発展や民族文化の保護と伝承を取材した。

 

特色ある資源で地域振興

紅山公園はウルムチ中心部の最高所で、公園内の小山の土壌が赤いことから名付けられた。小山に登ると、ビルの立ち並ぶ市街地全体を見渡せる。遠くに見える高山の頂の雪は解けていない。ウルムチは北京から2600㌔以上離れており、飛行機で4時間余りかかる。初夏の頃、北京では夕方になる時間でも、ウルムチの太陽はまだ頭上にある。

紀元前60年、前漢が西域都護府を設置し、西域は正式に中国の版図に入った。1884年に清政府は省を設置し、「新たに復帰したかつての領土」という意味から西域の名を「新疆」と改めた。1949年に新疆は平和的に解放され、55年10月1日に新疆ウイグル自治区が成立した。改革開放以降、新疆の経済は急速に発展し、ウルムチは中央アジア地域で最も大きく、最も繁栄した都市になった。2012年の中国共産党第18回全国代表大会(18大)以降、新疆は現地事情に合わせた措置で経済を発展させ、的確な貧困救済を強力に展開し、社会・経済の様相と人々の生活レベルをいっそう向上させた。

 

機械化が進む綿花収穫

新疆の石炭や石油、天然ガス、ほかの鉱産資源は非常に豊富で、さらにベニバナやクコ、ザクロ、ブドウによる酒造りなどの特色ある産業がある。綿花も特色ある物産の一つで、新疆は中国の主要な綿花生産地だ。統計によると、昨年の新疆の綿花生産量は計500万㌧以上で、中国全体の85%以上を占めた。新疆の綿花畑のほとんどは北疆にある。

ウルムチの鉄建重工新疆有限公司の生産現場に入ると、巨大な綿花収穫・梱包一体型マシンの組み立てが完了しようとしていた。同社は農業畜産機械やトンネル施工設備、レール製品の研究開発と製造を一体となって行う専門企業だ。18年、新疆に向けて綿花収穫のハイテク農業機械を開発し、すでに「4MZ–6 6列ボックス式綿花収穫機」と「4MZD–6 6列綿花収穫梱包一体機」の自主開発に成功した。同社の党委員会書記、執行取締役の宋立新氏によると、綿花収穫機は作業効率を大幅に高め、同じ時間内に1台で1200人分の仕事ができる。機械化で綿花収穫コストは以前の1㌔2元から現在の0・4元ほどまで大幅に下がったという。

新疆農業庁の統計によると、01年から新疆は綿花収穫の機械化を推進し始め、機械による収穫率は昨年に新疆全体で69・83%、北疆では95%に達した。新型コロナウイルス感染症の流行の下、農業機械の大規模活用によって現地の綿花の生産と収穫が保証され、産業チェーンの供給が保証されている。

ウルムチでは卓朗新疆智能機械有限公司も訪問した。ここは紡績機械の部品を生産する会社だ。他社に先んじて自動化、スマート化した部品加工能力を持ち、製品には前紡や精紡の設備、自動ワインダー、全自動紡績機などがある。同社の責任者によると、現在は生産、注文、物流など多くの分野でデジタル化とスマート化を積極的に進めている。デジタル化の推進は産業チェーン全体の高度化をもたらすという。

アディラ・ルフマンさんは19年から同社で働くウイグル(維吾爾)族の若い従業員だ。彼女は現在、機械の組み立てに従事している。彼女の入社後、同社は江蘇省での2カ月間の研修に参加させ、多くの技能を身に付けさせた。アディラさんの月給は約6000元で、一部を両親に渡している。彼女は「ここの仕事はとても気に入っています。この業界と会社には前途があり、私はここで引き続き成長したいと思っています」と話した。

新疆のどの企業にもほぼ少数民族の従業員がいる。アディラさんは「私たちは漢族の同僚と比べて何の差別も受けていません。逆に少数民族の従業員には特別な待遇があり、民族の祝日になると、会社はいつも休暇を1日くれ、プレゼントも配ります。私たちはここではとても幸せなグループだといえます」と説明した。

 

新疆の耕作地で綿花を刈り取る綿花収穫機(東方IC)

 

牧畜民が観光業で増収

6月のイリ・カザフ自治州キュネス(新源)県ナラト(那拉提)鎮では、川が流れ、草が生い茂り、牛や羊の群れが牧草地をのんびりと歩き、遊牧民の白い移動式テントが点在していた。

イリは天山山脈北麓に位置し、一帯はイリ河谷と呼ばれる。南北と東を山に囲まれているほか、河谷内に二つの山が横たわり、西に向かって広がる地形が独特の気候をつくり出している。イリ河谷は北半球の中緯度に位置し、年間を通じて西風の影響を受ける。大西洋からの西風がここまで吹き、湿気は少ないが、地形の急速な隆起のために豊富な地形性降雨がもたらされる。十分な降雨量により、イリは水と草が豊かで美しく、食糧と果物を多く産出する土地になった。ナラトは河谷東部の最奥部にあり、独特の気候によって極めて美しい草原風景がつくられている。今では新疆観光の有名な「聖地」になり、毎年5〜10月の観光シーズンには延べ30万人余りが訪れるという。

観光客の増加で現地の農民は豊かになった。ナラト観光スポットの東の入り口には、観光客に乗馬サービスを提供する地元のカザフ族の牧畜民グループがいる。責任者のタブスさんによると、数年前に山に登ったとき、多くの観光客が馬に乗りたがっていた。自分の家の馬を入り口につないだところ、意外にも非常に歓迎された。後日、観光客がますます増えたため、彼は親戚や村民らを集めて協同組合を設立し、特に乗馬サービスを提供するようになった。現在、観光シーズンの収入は馬1頭につき1日200元余りになり、年間では3万5000元に達する。グループの馬は最も多いときには200頭余りになる。タブスさんは「乗馬サービスと同時に、一部の家は『農家楽(宿泊や飲食などを提供する農村観光)』のサービスを始め、とても繁盛しています。羊の飼育も加え、村民の暮らしはますます良くなっています!」と笑顔を見せた。

イリ州コルガス(霍城)県ロサウグ(蘆草溝)鎮四宮村のラベンダー農園では、1万ムー(1ムーは約0・067㌶)余りのラベンダーが咲き誇り、そよ風に揺られていた。ここはすでにフランスのプロバンス、日本の富良野と並び称される世界で3番目の面積を持つラベンダー畑になっている。ラベンダーが満開になると、多くの観光客が訪れる。

李曽傑ロサウグ鎮党委員会書記は次のように語った。以前、四宮村の村民の多くは農業に従事していた。10年前、村内でラベンダー栽培を試みたところ、思いがけず独特の気候のおかげでとてもよく育った。ラベンダーは鑑賞できるだけでなく、ドライフラワーや精油が優れた商品になる。栽培面積は次第に拡大し、鎮内のより多くの村民が栽培に加わった。数年の発展を経て、鎮内にラベンダーを巡る産業体系ができた。生花、ドライフラワー、精油のほか、せっけんや枕などの生活用品、文化関連グッズも次々と開発され、電子商取引を通じて全国各地に販売されている。四宮村の村民1人当たりの平均年収は現在、鎮全体で最も高い2万2000元になっている。

1万ムーのラベンダーが咲き誇るコルガス県(東方IC)

 

中央アジア国境の往来急増

新疆はモンゴル、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インドの8カ国と接しており、中国の各省・自治区において、国境の検問所が最も多い。近年、中央アジア地域との貿易が急増し、国境地帯の経済発展はますます加速している。

コルガス(霍爾果斯)検問所はカザフスタンに通じる総合的な多機能検問所だ。1983年11月16日、コルガス自動車道検問所が運用開始し、92年8月には第三国に開放された。鉄道検問所は2012年12月に業務を始めた。コルガスの検問所は現在、中国内陸からロシアと中央アジアに通じる最も手軽な通路の一つだ。

コルガス鉄道貨物駅に入ると、カザフスタンから運行してきた貨物列車が積み荷を降ろしていた。防護服を着た労働者数人が作業を指揮している。統計によると、新型コロナは依然まん延しているが、コルガス検問所を通る列車の本数は急増している。今年第1四半期、中央アジアに関係する発着数は前年同期比76・9%増の1493本、通関量は同103・9%増の200万4000㌧だった。コルガスは中欧班列(中国と欧州を結ぶ国際定期貨物列車)の重要な出国地点でもある。統計によると、昨年にコルガス検問所を経て出国した中欧班列は5024両、貨物輸送量は368万2000㌧に達し、いずれも全国トップだった。

「私たちの野菜や果物はコルガスの税関を通過し、4時間でカザフスタンの最大都市アルマトイの市場に着きます」と于成忠・金億国際貿易有限公司董事長は説明する。同社は10年に設立され、野菜・果物の栽培、買い付け、輸出を主な業務としている。于董事長は次のように述べた。近年、コルガス検問所の関連サービスと優遇政策は絶えず整備されてバージョンアップし、多くの企業を引き付けている。通関面ではオンラインサービスを実行し、企業はオフィスで全ての手続きを終えられる。中欧班列の開通で企業は多額のコストも節約できるようになった。以前、ロシア向けの日用品は自動車輸送を採用するほかなかったが、中欧班列開通後、車両ごとの輸送や通関などの関連費用が1万㌦削減できた。

 

コルガス鉄道貨物駅での荷降ろし

 

漢族とも融合、多宗教が併存

新疆は昔から多民族が集まり住み、多宗教が併存してきた。自治区全体の常住人口2500万人余りのうち少数民族は59・84%を占め、イスラム教、仏教、道教、キリスト教など多くの宗教が信仰されている。長い歴史の中で漢族と少数民族の民衆は絶えず融合し、伝統を受け継ぎ、発展してきた。

 

伝承されるお菓子作りや祝祭日

タルバガタイ(塔城)地区のオーク農園では、金髪のザイトゥン・カリモワさんが民族衣装の盛装で記者の訪問を歓迎してくれた。

ザイトゥンさんはタタール(塔塔爾)族だ。タタール族は中国で最も人口の少ない民族の一つで、現在の数は約4000人だ。祖先は1820〜30年代に帝政ロシアの支配下から新疆に移住した民族で、大部分がイリ州などで暮らしている。

客が来ると、ザイトゥンさんはいつも美しいお菓子を準備する。彼女はもともと幼稚園の園長を務めていたが、すでに退職し、現在はタタール族の国家級無形文化遺産伝承者、タルバガタイ市タタール族文化協会会長だ。金色の髪を持つことから、親しみを込めて「外国のおばあちゃん」と呼ばれる。彼女は手先が器用で、100種類近いお菓子を作れる。このほどタタール族の伝統的なお菓子作りの技術が第5期国家級無形文化遺産リストに登録された。ザイトゥンさんによると、タタール族の女性は以前から調理技術の高さで知られ、チーズや蜂蜜、牛乳、ジャム、クリームを食材としてさまざまなお菓子を作るのが得意だという。「小さい頃、私たちタタール族の女性は一緒にお菓子を作っていました。誰かの家のかまどに火が付いているのを見たら、皆が食材を持っていき、調理技術を教え合い、歌って踊りました。とても楽しかったです」と振り返る。

美食のほか、1000年以上の歴史を持つサパン祭も国家級無形文化遺産だ。これはタタール族の農耕具サパン(すきの刃)から名付けられた。サパンの発明は農業の効率を高めた。こうした農耕具を記念するため、毎年春の耕作が終わった後、一族の徳望の高い人が取り仕切り、盛装したタタール族の人々が野外で共に祭りを行う。タルバガタイのタタール族はサパン祭の伝統を一貫して保ってきた。「サパン祭では歌って踊り、お菓子を味わうほか、競馬や中国式相撲、綱引きなどの娯楽活動も行います」とザイトゥンさんは話す。2012年に彼女はサパン祭タルバガタイ地区代表的伝承者に選ばれた。サパン祭をより良く保護して伝承するため、彼女はタタール族のお年寄りや民間の芸人、研究者を訪ね、関連資料を大量に集めた。「民族の伝統を失うことは許されません。必ずこの祭りの文化を伝えていかなければなりません」

ザイトゥンさんの夫と息子もタタール族文化の伝承事業に従事している。最近ではインターネットのライブ配信が流行しているため、彼女らもネットを通じてタタール族文化の特徴をアピールしており、ソーシャルメディアの彼女たちのアカウントには多くのファンがいる。

 

客人を出迎えてタタール族の民謡を歌うザイトゥンさん(左から2人目)と息子(同3人目)、夫(右から2人目)ら(写真・趙渓)

 

14民族が暮らすコミュニティー

タルバガタイではこのほか、カラドゥン社区(コミュニティー)のエルキンさんの家庭を訪問した。郵政貯蓄銀行に勤めるエルキンさん(50代)の家では大きな1枚の写真が人目を引いていた。それは一家の集合写真だ。エルキンさんは彼の多民族大家庭について元気よく話し始めた。

エルキンさんには姉が1人、妹が3人いて、自身も含め全員がキルギス(柯爾克孜)族だ。彼らは成人後にそれぞれ家庭を築いた。「姉と下の妹の夫は蒙古族で、中の妹の夫はカザフ族、上の妹の夫は漢族です。私は蒙古族の妻と結婚しました」。こうして一つの大家族の中に意外にも4民族が存在することとなった。エルキンさんは次のように話す。民族が異なり、言葉に違いがあっても、生活の中では皆が非常に打ち解けている。例えば春節(旧正月)やクルバン祭(イスラム教の犠牲祭)など、どの民族の祝日にも全員が集まり、とてもにぎやかに過ごしている。

エルキンさんの家は決してハルドゥンコミュニティーで唯一の多民族家庭ではない。このコミュニティー自体が多民族居住区で、漢族やカザフ族、回族、ウイグル族、蒙古族など14民族が暮らしている。責任者によると、3分の1近い家庭が多民族家庭で、各民族の人々は長年にわたって共に生活し、コミュニティーを管理し、非常に調和が取れているという。

 

中国式モスク

イリ州の州都グルジャ(伊寧)市には「陝西清真大寺」というモスクがある。清代の乾隆16(1751)年に建設が始まり、二百数十年の歴史を持つ。敷地に入ると、記者は精緻で美しい建築群に震撼した。典型的なイスラム文化と中国の宮殿式建築が結び付いている。大礼拝堂、尖塔、身を清める洗い場などの宗教施設が全てそろい、飾り模様や彫刻、意匠は全てアラビア風で、木材とれんがで造られた建物や長い廊下の至る所に中国建築の特徴が現れていた。

「陝西清真大寺」の名はどこから来たのか? アホン(宗教指導者)の馬継栄さん(65)によると、清政府が乾隆年間にジュンガル部の反乱を平定した後、陝西や甘粛、青海の多くの民衆がイリの美しさを知り、移住してきた。彼らの中には多くのムスリムがいた。移住してきたこれらのムスリムの礼拝活動のため、現地の政府が取り仕切り、陝西、甘粛などのムスリムが資金を集め、モスクの建設を始めた。全ての工事が終わるまで40年近くかかり、巨額の費用を使った。ムスリムの中に陝西の人々が多かったことから「陝西清真大寺」と命名された。このモスクは修繕を繰り返して維持され、悠久の歴史と美しい建築により、2013年5月に国家級文物保護単位に指定された。

陝西清真大寺の礼拝堂は2000人近く収容できる。馬さんによると、礼拝に来る人々の大多数は近くのムスリムだが、モスクは開かれており、ほかの土地のムスリムも礼拝できる。敷地内には閲覧室もあり、さまざまな版のコーランやこのモスクの文化財が保管されている。馬さんはここですでにアホンを10年務めている。彼は小さい頃から父親と共にここでコーランを学び、後に北京の中国イスラム教経学院で研修を受けた。馬さんは「アホンになるにはまず国を愛し、宗教を愛し、さらにイスラム教の知識を身に付けなければなりません。また、立派な人柄も必要です。これらの条件を備え、ようやく大衆によりよく奉仕できます」と述べた。

二百数十年の歴史を経てきた陝西清真大寺は、中国ムスリム文化の伝承と発展を解き明かしている。

 

典型的なイスラム文化と中国文化の結晶であるグルジャ市の陝西清真大寺

陝西清真大寺のアホン馬継栄さん(写真・趙渓)

関連文章