長江撮影にささげた生涯——写真家・沈延太氏 没後20年をしのぶ

2021-10-29 17:57:15

宗詩涵=文 沈佶=写真提供

今年は、中国の著名な写真家・沈延太氏の没後20周年に当たる。沈氏は1964年から79年まで、美術編集者やカメラマンとして本誌『人民中国』雑誌社に勤めた。この間、3年の時間を費やし、長江の源流から海へ注ぐ河口までの全行程(流路延長)を一人で取材・撮影した。その後、これを21回にわたって本誌で連載し、国内外の読者から好評を博すとともに、「長江全行程写真の第一人者」と称賛されることになった。沈氏は中国写真家協会理事の他、中国現代写真学会副主席、世界華人写真学会執行委員会委員、同学会会員評議委員会副主任などを歴任。2001年6月18日に北京で亡くなった。まだ62歳だった。没後20年のこの機会に、ささやかだが一文をささげて当社の大先輩をしのびたい。

 

自らが撮ったお気に入りの作品と在りし日の沈延太氏

 

河口の街に生まれ育つ

沈延太氏は1939年9月、上海の宝山羅店(現在の宝山区羅店鎮)に生まれた。幼いころから長江河口のほとりで育ち、長江への思いは人一倍深かった。20歳で中央美術学院の版画科に入学。卒業後の64年、美術編集者として人民中国雑誌社に配属された。当時は文化大革命の影響で、美術編集者たちは革命模範劇や革命回顧録などの挿絵などしか描くことができず、創作活動の空間は狭かった。

『人民中国』誌上では多くの写真が使われていたことから、1年後、沈氏は写真をやりたいと上司に申し出た。当時のカメラ班長は考え方がオープンで、沈氏にカメラを1台渡していろいろな取材に行かせた。この時から沈氏はカメラマンとなった。

『人民中国』は日本向けに中国を紹介する総合月刊誌。当時は保守的な勢力の影響も少なかったので選べるテーマも多く、沈氏は写真に幅広い創作空間を得た。

カメラの仕事を始めて以来、長江はずっと沈氏が関心を持ち続けていたテーマだった。沈氏は、南京長江大橋の開通(68年)を取材したり、三峡で働く労働者を撮ったりして長江での取材が増えるにつれ、長江の連載リポートをしたいという考えが芽生えた。そのチャンスはほどなく訪れた。

 

源流求め高原を踏破・探査

76年夏、長江の源流を明らかにするため、中国の関係部門は地理や測量、水文学(水の循環に関する地球科学)、写真、記者などの専門スタッフ15人を含む「長江源流撮影取材調査隊」を組織。外文局傘下の『人民画報』と『人民中国』も積極的に重責を担って記者を派遣することになり、沈氏も参加を志願した。

調査で沈氏らのチームは、青蔵(青海チベット)高原の未踏の奥地を越え、沼沢・草原を突き抜け、雪山・氷河を渡り、高山病や病気の試練を経験した。沈氏はこの時のことをよく覚えていて、「酸素が薄くて、まるで孫悟空の頭の輪っか『緊箍児』をいつも頭にはめられているようでつらかった」と話していた。だが、たとえ劣悪な環境でも、撮影となると沈氏は一切妥協しなかった。一歩一歩あえぎながら長江源流がある6300㍍の高地に登り、中国初の長江源流のパノラマ写真を撮影した。

当時、沈氏はこの実地調査の重要性をよく理解しており、できるだけ多くの写真――山脈や河川、動植物を撮り、長江源流の謎を解き明かす資料として提出した。撮影の際は、写真の芸術的価値と科学文献としての価値を重んじ、単に色彩や光線のテクニックを追求するだけではなく、専門家にこうした写真を見せて、長江源流の方向や河川・湖沼の特徴、滇蔵(雲南チベット)水系と氷河の研究の参考とした。

その後、まさに沈氏が撮影した長江源流の写真に基づいて、中国科学院地理研究所は長江の長さを新たに計測し直した。その結果、長江は全長3600㌔余りの世界第3位の大河で、その水源はバヤンカラ(巴顔喀拉)山の南麓ではなく、タングラ(唐古拉)山脈の主峰・グラタントン(各拉丹冬)雪山の南西側のトト(沱沱)河にあることを確認した。その水源の写真について、沈氏は「長江の源流は普通の水の流れとは違うと言いましたが、ほら、まるでほどいた女性のお下げ髪のようでしょう」と満足げに語っていた。

 

雪山に野営しながら沈氏は長江源流の調査に打ち込んだ

 

雑誌で連載

科学調査から戻ると沈氏は、長江の全行程を撮影し雑誌で連載することを上司に提案した。この企画案は上司に認められ、この後の76年から78年まで、沈氏はしばしば長江を訪れ、三峡だけでも十数回は足を運んだ。沈氏は、どの地方に行く時も事前に大量の資料を調べ、撮影を終えて戻ってからも何度も検討を重ねた。写真の出来があまり良くない場所があれば、取り直しに出掛けた。最高の写真になるまで絶対に掲載しようとしなかった。

結局、沈氏は3年の時間をかけて長江の全行程を撮影した。その写真は好評を博し、長江の写真集を計画する多くの出版社が沈氏に使用許可を求めてきた。中央テレビ局の番組『長江を語る』や三峡ダム建設プロジェクトのパンフレット資料『三峡は夢ではない』には、沈氏の写真が大量に使われている。

79年に沈氏は『中国婦女』(英文版)雑誌社に異動し、写真部長となった。その後、同誌の編集委員、副総編集長を歴任した。地方に撮影取材に出掛ける機会は減ったが、休みの日を利用して、沈氏は妻の王長青さんと一緒に北京の胡同(路地)にレンズを向けた。こうした写真も数々の賞に輝き、一つの時代の記憶となった。二十数年前、中国文学者・老舎の研究者でお茶の水女子大学名誉教授の中山時子氏を団長とする日本の「老舎研究会」訪中団が北京を訪れた際、団員は皆雑誌から切り取った沈氏の胡同の写真を手に、沈氏夫妻に案内をお願いしたという。 沈氏はかつてこう言った。「私は無趣味で、囲碁将棋はできないし、トランプもできない。できるのは写真を撮ることだけです」。沈氏は生涯これだけをやり通し、写真撮影はまさしく彼の一生である。すでに沈氏が亡くなって20年たったが、彼が記録した長江や胡同、少数民族の人々の素晴らしい写真は、永遠に人々の心に刻みつけられることだろう。

 

故宮そばの北池子大街に暮らす女性。下町の庶民の姿は沈氏の変わらぬもう一つの被写体だった(窓外に見えるのは故宮の角楼)

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